第三十五章 祖母との対面と記憶
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森下家へ向かう電車の窓に
自分の顔がぼんやり映っていた。
いつもの紗希の顔だ。
薄く整えた化粧。
低い位置で結んだ髪。
派手ではないベージュのコート。
膝の上のバッグの中には古い封筒が入っている。
森下。
その名前が入った名刺。
結婚してから、私はその名前をほぼ口にしていない。
藤堂紗希。
亮平の妻。
美月と悠真の母。
薬局で事務をする、どこにでもいる普通の主婦。
そういう顔で生きてきた。
それでよかった。
少なくとも、亮平があの言葉を口にするまでは。
「子どもは、俺が育てたい」
思い出すだけで、怒りが湧いてくる。
子どもは、物ではない。
ましてや父親の出世の道具でも
愛人との未来を綺麗に見せる飾りでもない。
美月も悠真も、私から産まれた。
赤ちゃんの時の夜中の世話も
熱を出した夜も、泣いて帰ってきた夕方も
眠れずに布団を蹴った夜も、私は見てきた。
それを、あの男は私から奪おうとしている。
あの女は、一緒に育てる覚悟があると言った。
私はバッグの上に置いた手をグッと握った。
その瞬間、電車が大きく揺れた。
駅名のアナウンスが流れる。
懐かしい名前だった。
子どもの頃、この駅で何度か
祖母に手を引かれたことがある。
改札を出ると、空気が少し違った。
久しぶりの空気。
高い建物。
道路。
私が見ていた景色とはずいぶん変わっていた。
それでも、森下へ続く道を進むと
記憶の中の景色が重なっていく。
古い石垣。
長い塀。
手入れされた松。
門の横に置かれた、黒い表札。
森下。
その二文字を見た瞬間、胸の奥が苦しくなった。
私はしばらく門の前で立ち止まった。
来てしまった。
何年も避けてきた場所に。
インターホンを押す前に、門が内側から開いた。
白髪の女性が立っていた。
祖母。
昔より少し痩せた。
けれど背筋はまっすぐで
目の奥の強さは少しも変わっていない。
淡い藤色の着物。
白いショール。
無駄のない所作。
「紗希」
その声を聞いただけで、喉の奥が詰まった。
「おばあさま」
祖母は私の顔をじっと見た。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、私がここまで歩いてきた時間ごと
見ているような目だった。
「入りなさい。外でできる話ではないのでしょう」
私は小さく頷いた。
門をくぐる。
砂利の音が、足元で静かに鳴った。
その音だけで、子どもの頃の記憶が戻ってくる。
祖母に手を引かれて歩いた庭。
大きすぎる玄関。
磨かれた廊下。
いつも少しだけ緊張する空気。
私は何年もここへ来なかった。
来たくても来られなかったの方が
正しいのかもしれない。
応接間には、季節の花が飾られていた。
濃い紫の花。
祖母は私に向かい合って座り
黙ってお茶を淹れた。
湯呑みから立ちのぼる湯気を
私はしばらく見つめていた。
何から話せばいいのかわからなかった。
不倫。
玲奈。
展示会。
箱根旅行。
子どもを奪う話。
どの言葉も、祖母の前に置くには汚れすぎている気がした。
けれど祖母は、私が黙っている時間を急かさなかった。
昔からそうだ
祖母は、人が本当に言葉を出すまで待つ人だった。
私はバッグから古いスマホを取り出し
意を決して言葉を発した。
「夫が、外に女を作っています」
自分で言って、声が少し震えた。
祖母は表情を変えなかった。
「そう」
「相手は同じ会社の部下です。展示会の仕事で関わっていて、相手の家も仕事に絡み始めています」
「家?」
「桐島屋です」
その名前に、祖母の目がわずかに細くなった。
「ああ‥桐島屋ね」
知っているのだ。
それだけで、森下という家に戻ってきたことを実感した。
祖母は多くを聞かず、静かに言った。
「続けなさい」
私は話した。
亮平が展示会を成功させたこと。
その裏で玲奈が支えていたこと。
二人が家族旅行の一週間後に
有給と風邪欠勤を使って箱根へ行ったこと。
その旅行の中で、私を馬鹿にしたこと。
そして、子どもたちの話をしたこと。
「夫は、子どもは自分が育てたいと言いました」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
「相手の女は、自分も一緒に育てる覚悟があると」
祖母は湯呑みに手を添えたまま、少しだけ目を伏せた。
「それで、あなたは来たのね」
私は頷いた。
「はい」
「子どもを取られると思ったのね」
「……はい」
認めた瞬間、喉が熱くなった。
怖かった。
夫を失うことより。
妻として馬鹿にされることより。
女として負けたように扱われることより。
美月と悠真を奪われるかもしれないと思ったことが
一番怖かった。
祖母は静かに言った。
「正しい選択ね」
私は顔を上げた。
「正しい?」
「恐怖を感じる所を間違えていないということよ」
祖母の声は穏やかだった。
「夫の愛情がどこにあるか。女が何を欲しがっているか。そんなものは、後でいくらでも処理できる。でも、子どもに手を伸ばされた時だけは違う」
その言葉に、胸の奥が震えた。
「そこは、母親が迷ってはいけない場所です」
私は唇を噛んだ。
祖母は続ける。
「あなたは、森下の名前を出したくなかったのでしょう」
「はい」
「使わずに済むなら、それが一番だと思っていた。そうでしょう」
「はい」
「でも、使わなければ守れないものがあるから、今回こうして連絡をしてきたのでしょう」
祖母は、まっすぐ私を見た。
私は息を呑んだ。
「まずは、あなたが何を守りたいか」
「守りたいのは、美月と悠真です」
「夫は?」
少しの沈黙。
私は静かに答えた。
「もう、あの人はいりません」
口にした瞬間、自分の中で何かがはっきりした。
悲しいほど、何も揺れなかった。
祖母は小さく頷いた。
「なら、話は早い」
「でも、子どもたちは父親を好きです」
「それと、父親に子どもを渡すことは別です」
祖母の声は揺れなかった。
「父親を好きでいる権利は、子どもたちのもの。子どもを奪う権利は、父親のものではありません」
私は湯呑みを見つめた。
「亮平は、私を甘く見ています」
「でしょうね」
祖母は迷いなく言った。
「あなたがここへ来るまで追い込まれたのなら、相手はずいぶん愚かです」
私は少しだけ笑いそうになった。
愚か。
祖母が言うと、その言葉は静かに重い。
祖母はそこで、初めて私のバッグに視線を落とした。
「証拠は持っているの?」
「はい」
「証拠があるなら十分ね。」
祖母は言った。
「あなたが今ここで私に聞かせたいのは、証拠ではなく、怒りでしょう」
私は何も言えなかった。
祖母は湯呑みを置いた。
「証拠は、見るべき人間が見るべき時に見ればいい」
その言葉で、私は少しだけ救われた気がした。
昨夜からずっと
あの音声を誰かに聞かせなければならないと思っていた。
汚いものを、誰かの前に出して証明しなければならないと。
でも祖母は、聞かなかった。
私の言葉だけで、まず受け止めた。
そのことが、思っていた以上に胸にきた。
「おばあさま」
「何?」
「私、ここに来るのが怖かったです」
祖母は表情を変えなかった。
「わかっています」
「ずっと、距離を置いていたから」
「ええ」
「でも、嫌いだったわけではありません」
その言葉を口にした瞬間、記憶がゆっくり開いた。
森下家。
私にとって、それはただ大きな家というだけではなかった。
好きだった。
特に祖母が。
でも、好きだけでは近くにいられないものがある。
家族というものは、近すぎるほど傷が深くなることがある。
何故森下と疎遠になったか
それは‥
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