第三十四章 不倫旅行の足取り
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「はい」
その声を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
何年も聞いていなかった声。
でも、忘れたことはなかった声。
私は背筋を伸ばした。
「……おばあさま」
電話の向こうで、ほんの少し沈黙があった。
それから、祖母の声が静かに返ってきた。
「紗希ね」
名前を呼ばれただけで緊張が走る。
私は唇を噛んだ。
「お久しぶりです。突然、ごめんなさい」
祖母は、少しも驚いた様子を見せなかった。
「遅かったわね」
その一言で、私は何も言えなくなった。
遅かった。
まるで、いつか私が電話をかけてくることを
ずっと知っていたような声だった。
私は名刺を握りしめた。
「おばあさま。お願いがあります」
「言ってごらんなさい」
亮平の声が蘇る。
うちのはそんな勘づかない。
子どもは俺が育てたい。
玲奈の声も。
私も一緒に育てる覚悟はあります。
私は目を開けた。
「子どもたちを守るために、力を貸してください」
電話の向こうで、祖母はすぐには答えなかった。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
何かを決める前の静けさだった。
やがて祖母が言った。
「明日、うちに来られる?」
明日。
その言葉に、心臓が強く打った。
私は小さく答えた。
「行きます」
「一人でいらっしゃい」
「はい、分かりました。」
電話は静かに切れた。
私はスマホを膝の上に置いた。
リビングには、誰もいない。
さっきまで怖かったはずなのに
不思議と呼吸は静かだった。
私は名刺を封筒に戻した。
明日、私はおばあさまに会いに行く。
過去を懐かしむためではない。
子どもたちを守るために。
亮平が帰ってきたのは
その日の十八時過ぎだった。
玄関で鍵が回る音がした。
「ただいま」
いつもの声だった。
私はキッチンから顔を出した。
「おかえり。お疲れさま」
亮平はボストンバッグを持って立っていた。
その顔には、少し疲労が浮かんでいる。
けれど、どこか満たされたような緩みもあった。
私はそれを見逃さなかった。
あの旅館で玲奈と過ごし、未来を語り
私を馬鹿にし、子どもたちを奪う話までした男の顔。
それでも表面だけ見れば、出張帰りの夫だった。
「疲れた?」
「うん。移動もあったし」
移動。
玲奈と特急に乗り、高級旅館へ行った移動。
「打ち合わせ、どうだった?」
私が自然に聞くと、亮平は靴を脱ぎながら答えた。
「悪くなかったよ。展示会の流れで、今後の話もできたし」
今後の話。
玲奈との未来の話だろう。
子どもをどうするか。
私からどう離れるか。
桐島屋をどう使うか。
私は笑顔を保った。
「よかったね」
亮平はリビングに入ると、紙袋をテーブルに置いた。
「お土産」
悠真が真っ先に反応した。
「何?」
「まんじゅう」
「やった!」
美月も近づいた。
「箱根?」
「うん。駅で買った」
駅で買った。
私は紙袋を見つめた。
家族旅行の時、宿を探したのは私。
予約したのも私。
荷物を詰めたのも私。
玲奈との旅行では、亮平が自分で高級旅館を予約した。
子どもたちへの土産は、帰りに駅で買ったまんじゅう。
もちろん、値段の問題ではない。
気持ちの置き方の問題だ。
玲奈には、準備された時間。
家族には、帳尻合わせの箱。
悠真が箱を開けながら聞いた。
「パパ、出張でも温泉行ったの?」
亮平の手が、一瞬止まった。
本当に一瞬だった。
「いや、温泉地だっただけ。仕事だから、そんなゆっくりしてないよ」
嘘。
あなたは客室露天風呂付きの部屋にいた。
玲奈と。
美月が何気なく聞いた。
「でも泊まったんでしょ?」
「まあね。宿は先方が取ってくれたから」
取ってくれた。
また嘘。
予約名義は、藤堂亮平。
私は味噌汁を温めながら
その嘘を一つずつ心の中に沈めた。
亮平は子どもたちにまんじゅうを配りながら
父親の顔をしていた。
「悠真、食べすぎるなよ。夕飯前だぞ」
「一個だけ!」
「一個だけな」
その姿だけを見れば、どこにでもいる父親だった。
この男は昨夜、あの子たちを私から奪う話をしていた。
その口で今、悠真にまんじゅうを渡している。
吐き気がした。
夕飯の間、亮平は出張の話をした。
「先方の人がさ、展示会の反応よかったって言ってくれて」
「そうなんだ」
「来期に向けて、少し広がるかもしれない」
「すごいね」
「まだわからないけどな」
控えめに言いながら、亮平は嬉しそうだった。
玲奈の声が頭の中で蘇る。
「うちの繋がりだって、必要なら使える」
亮平の声も。
「玲奈といると、俺はまだ先に行ける気がする」
私は箸を動かしながら、普通に相槌を打った。
「体調は大丈夫?」
「うん。ちょっと疲れただけ」
あなたの体調なんて、どうでもいい。
そう思った。でも言わない。
美月が学校の話をして
悠真が給食で苦手な野菜が出た話をした。
亮平は笑って聞いていた。
家族の食卓。
形だけは、まだそこにある。
でも私には、その真ん中に大きな穴が開いて見えた。
亮平は気づいていない。
自分が掘った穴の深さに。
子どもたちが寝た後、亮平は風呂に入り
すぐに寝室へ向かった。
「疲れたから先寝るわ」
「うん。お疲れさま」
「洗濯物、バッグに入ってる」
私は笑った。
「出しておくね」
最後まで、私にやらせるのだ。
愛人との旅行に使ったシャツも。
嘘の出張に持っていった下着も。
高級旅館の匂いが残っているかもしれない服も。
妻に洗わせる。
私はボストンバッグを開けた。
通信機能つきの小型集音レコーダーは
ハンカチに包まれたまま内ポケットに残っていた。
亮平は気づいていない。
私はそれを取り出し、
何事もなかったように自分のポケットへ入れた。
シャツを洗濯かごへ入れる。
一枚、一枚。
その手つきは、驚くほど落ち着いていた。
私は泣かない。
出かける。
藤堂紗希としてではなく。
まだ誰にも見せていない、もう一つの名前を連れて。
翌朝、南條からメールが届いた。
件名は短かった。
箱根行程報告。
私は子どもたちを送り出した後、キッチンでそのメールを開いた。
藤堂亮平氏、当日は会社へ出社せず。
事前に有給取得済み。
出張予定なし。
桐島玲奈は同日、体調不良による欠勤扱い。社内には風邪と説明。
私はスクロールした。
十時五十六分、藤堂氏、自宅最寄りより移動。
十一時三十二分、会社近辺ではない私鉄沿線駅にて桐島玲奈と合流。
桐島玲奈はキャリーケースを所持。
二人は特急列車へ乗車。指定席は隣席。
さらに続く。
十五時三十九分、箱根山間部の高級旅館に到着。
予約名義は藤堂亮平。
一泊二名。客室露天風呂付き上位プランと推定。
チェックイン時、藤堂氏が代表者として対応。
桐島玲奈は同行者として待機。
文字になると、二人の嘘はひどく滑稽だった。
有給の男。
風邪の女。
会社から離れた駅。
隣同士の特急。
客室露天風呂付きの高級旅館。
予約名義、藤堂亮平。
南條の報告は続いていた。
翌朝十時十二分、二人チェックアウト。
十時四十分、旅館周辺の土産店へ立ち寄り。
十一時二十五分、湖畔のカフェに滞在。
十二時三十六分、観光施設付近を散策。
十三時五十分、駅方面へ移動。
十四時過ぎ、駅構内で土産購入。
十五時台の特急にて帰路。
十七時前、都内方面到着後、時間差で解散。
観光までしている。
私は画面を見ながら、静かに笑った。
出張。
仕事。
先方との打ち合わせ。
その言葉の裏で、二人は土産店に寄り、湖畔のカフェに行き、観光施設を歩いた。
南條の最後の文面が目に入った。
写真、音声、移動記録を整理中。
共有用データは本日中にまとめます。
藤堂氏、桐島玲奈ともに警戒している様子は見られません。
警戒していない。
それでいい。
私はメールを閉じた。
バッグの中には、古い封筒が入っている。
今日は、あの人に会いに行く。
亮平はまだ知らない。
自分が「うちのは勘づかない」と笑った妻が、もう切り札に手をかけていることを。
玲奈も知らない。
自分がちらつかせた家の名前よりも、もっと静かで重いものが、紗希の奥に眠っていたことを。
私はキッチンの窓を開けた。
朝の空気が冷たく入ってくる。
その冷たさが、今の私にはちょうどよかった。
今日、私は眠らせていた名前に会いに行く。
過去を懐かしむためではない。
子どもたちを守るために。
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