第三十三章 森下
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イヤホンを外したあとも
耳の奥には二人の声が残っていた。
亮平の低い声。
玲奈の甘えた声。
布が擦れる音。
近すぎる息づかい。
けれど、そのどれよりも深く残っていたのは
別の言葉だった。
「子どもは、これからも俺が育てたい」
「私も、一緒に育てる覚悟はあります」
私はリビングのソファに座ったまま
しばらく動けなかった。
隣の部屋からは、美月と悠真の寝息が聞こえていた。
小さくて、やわらかくて、何も知らない寝息。
あの子たちは何も知らない。
父親が今、愛人と高級旅館にいることも。
その女が、自分たちを一緒に育てると言ったことも。
父親が、母親から子どもを奪うような話をしていたことも。
何も知らずに眠っている。
美月は、家族旅行で買ったキーホルダーを
ランドセルにつけたままだった。
悠真は、寝る前に次はもっと大きいバイキングのところに行こうねと言っていた。
玲奈、人の家庭を壊しておいて妻の存在を軽く見て
子どもたちの母親まで奪おうとしている。
私は唇を噛んだ。
泣きたいのに、涙は出なかった。
怒りが強すぎると、人は泣けない。
胸の奥にあるのは、悲しみではなかった。
もっと黒く、硬く、静かなもの。
こいつらを許してはいけない。
夫に裏切られたからではない。
愛人に奪われそうだからでもない。
子供たちに手を伸ばした。
その瞬間、私の中で何かが変わった。
妻としての痛みが
母親としての怒りに塗り替えられていく。
亮平に愛されたいとは思わない。
玲奈に勝ちたいとも思わない。
守る。
美月と悠真を。
ただそれだけが私を突き動かしていた。
翌朝、私はいつも通りに朝食を作った。
美月には卵焼きと味噌汁。
悠真には少し小さめに切ったウインナー。
二人の水筒にお茶を入れ、連絡帳を確認する。
「パパ、今日帰ってくる?」
美月が聞いた。
「夕方くらいって言ってたよ」
「お土産あるかな」
悠真が少し期待した顔をする。
私は笑った。
「あるといいね」
その笑顔は、自分でも怖いほど自然だった。
亮平が何をしているか知っている。
何を言ったか知っている。
何を考え始めているか知っている。
それでも私は、子どもたちの前で母親の顔を崩さなかった。
崩してはいけない。
美月と悠真の日常を守ることが
今の私にできる最初の復讐だった。
二人を送り出したあと、私は古いスマホを開いた。
音声ファイルは、夜のうちに自動保存されていた。
箱根。
客室。
親権。
妻軽視。
子ども。
私はそれを別フォルダに移した。
もう一度聞く気にはなれなかった。
聞かなくても、覚えている。
亮平が私を馬鹿にした声も。
玲奈が子どもたちを受け入れると言った声も。
二人がその後に重なっていく気配も。
全部、耳の奥に焼きついている。
私は古いスマホをバッグに入れ、麻衣に連絡した。
「今日、時間ある?」
返事はすぐだった。
「大丈夫だよ。何かあったんでしょ。」
麻衣は、そういうところだけ異様に鋭い。
私は最低限の家事を済ませ、家を出た。
麻衣の部屋に着くと、玄関を開けた瞬間に
彼女の顔色が変わった。
「……何その顔」
私は靴を脱ぎながら言った。
「聞いてほしいものがある」
麻衣は何も言わず、私をリビングに通した。
私はソファに座り、古いスマホをテーブルに置いた。
麻衣が向かいに座る。
「紗希」
「うん」
「旅行のやつ?相当やばい感じ?」
私は少しだけ笑った。
「たぶん、今までで一番」
麻衣の表情から、冗談の色が消えた。
私は音声を再生した。
最初からではない。
玲奈が家族旅行の話をし、亮平が笑うところから。
「あれは、時々は家族孝行もしとかないと怪しまれたら大変だからね」
麻衣の眉が動いた。
「まあ、うちのはそんな勘づかないだろうけど」
その瞬間、麻衣の手がぎゅっと握られた。
私は止めずに続けた。
玲奈が奥さん、そんなに気づかないんですかと聞く。
亮平が家のことと子どものことで頭いっぱいだからと言う。
俺が仕事って言えば、大体信じるよと笑う。
麻衣の顔が、みるみる険しくなっていった。
次に、子どもの話。
「子どもは、可愛い。これからも俺が育てたいと思ってる」
麻衣が息を呑んだ。
「私も......もし亮平さんが本当にそう考えているなら、一緒に育てる覚悟はあります」
「止めて」
麻衣が低い声で言った。
私は音声を止めた。
部屋に沈黙が落ちる。
しばらく、麻衣は何も言わなかった。
その沈黙が、怒鳴られるより重かった。
やがて、麻衣がゆっくり顔を上げた。
「……殺意って、こういう時に湧くんだね」
私は何も答えなかった。
麻衣はテーブルの上のスマホを指差した。
「これ、全部録れてるの?」
「途中からだけど。大事なところは」
「不倫だけでも最低なのに、子どもまで奪おうとしてる?」
「うん」
「しかも、紗希を馬鹿にして?」
私は頷いた。
麻衣は立ち上がり、部屋の中を少し歩いた。
「無理。これは無理。今までのも全部アウトだけど、これはだめ。子どもに手を伸ばしたら終わりだよ」
「私も、そう思う」
「玲奈も何なの? 一緒に育てる覚悟? ふざけんなよ。母親ごっこしたいなら、人の家を壊す前に自分の人生見直せって話でしょ」
麻衣の声は震えていた。
怒りで。
「それに亮平。家族旅行を家族孝行? 怪しまれないため? 何様なの。美月と悠真がどれだけ喜んでたか、見てたんでしょ? その顔見ておいて、それ言える?」
私は黙っていた。
言葉にしたら、何かが壊れそうだった。
麻衣は私の前に戻り、膝をついた。
「紗希。もう、普通の復讐じゃだめだ」
「うん」
「旦那に裏切られた妻がやり返す話じゃない」
「うん」
「あの子たちを守る話だよ」
その言葉で、胸の奥の形がはっきりした。
そう。
私はもう、妻として戦うのではない。
母親として戦う必要がある
麻衣は私の手を握った。
「感情的になったらだめだよ」
「わかってる」
「今すぐあいつらの顔見たら、ぶん殴りたくなって、
全部言いたくなると思う。でも絶対だめ」
「うん」
「証拠はある。紗希も冷静でいられてる。だから、ここからは徹底的に潰す」
潰す。
麻衣の口からその言葉が出た時
私は初めて少しだけ息ができた。
私が思っていたことを
誰かが代わりに言葉にしてくれたから。
「私、どうしたらいいかな」
そう聞いた時、自分の声が思ったより弱くて驚いた。
麻衣はまっすぐ私を見た。
「紗希が一番守りたいものは?」
「美月と悠真」
「じゃあ、そのために使えるものは全部使おう」
全部。
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
使えるものは全部使う。
麻衣はそれ以上、具体的なことは言わなかった。
私の中で
ずっと閉じていた物が音を立てた。
誰も知らない切り札
「一人で抱えないで。何か決めたら言って」
「うん」
「でも、決めるのは紗希だよ」
「わかってる」
「大丈夫。あんた強いから」
私は少しだけ笑った。
「今は、強いかどうかわからない」
麻衣は即答した。
「怒ってる母親は、だいたい強い」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
家に戻ると、リビングは静かだった。
子どもたちはまだ帰っていない。
亮平もまだ帰らない。
私はバッグを置き
キッチンの引き出しを開けた。
奥にある封筒を取り出す。
何年も触れていなかった封筒。
中には、数枚の名刺が入っている。
私はそれをテーブルに置いた。
封筒の口を開けるまで、少し時間がかかった。
開けてしまえば、戻れない気がした。
けれど、美月の寝顔が浮かんだ。
悠真の笑い声が浮かんだ。
「これらも子どもは、俺が育てたい」
亮平の声が蘇る。
「私も、一緒に育てる覚悟はあります」
玲奈の声も。
その瞬間、迷いが消えた。
私は封筒から一枚の名刺を取り出した。
そこに書かれた名前を見つめる。
森下
結婚してから、ほとんど口にしなくなった名前。
私が藤堂紗希になる前の性
大事なのは、これが切り札だということ。
使いたくなかった。
最後まで出さずに済ませたかった。
けれど、子どもたちに手を伸ばされた今
眠らせたままにはできない
私はスマホを手に取った。
名刺に書かれた番号を見る。
すぐには押せなかった。
一度、スマホを置いた。
立ち上がって、意味もなく水を飲んだ。
洗濯物を畳んだ。
子どもたちの帰宅時間をなん度も確認した。
冷蔵庫を開け、何も取らずに閉めた。
その間も、テーブルの上の名刺はずっとそこにあった。
まるで、私が決めるのを待っているみたいに。
怖かった。
この番号にかけることが。
助けを求めることが。
そして何より、切り札を使うと自分で認めることが。
でも、もっと怖いものがある。
美月と悠真を奪われること。
あの子たちの寝顔のそばに、玲奈が立つ未来。
亮平が俺が育てると言い、玲奈が私もと微笑む未来。
そんなものは、絶対に許さない。
私は椅子に座り直した。
スマホに番号を打つ。
一桁ずつ。
押すたびに、胸の奥が強く鳴った。
最後の数字を入れても、発信ボタンは押せなかった。
画面の上で、指が止まる。
私は目を閉じた。
長く息を吸う。
そして、押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
心臓の音がうるさかった。
やがて、落ち着いた女性の声が聞こえた。
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