第三十二章 亮平の考え
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宿泊先は、箱根の山間にある高級旅館だった。
南條から送られてきた写真には、石畳の入口と
落ち着いた木の看板が映っていた。
『十五時三十九分、二人旅館到着。
予約名義は藤堂亮平。一泊二名。
客室露天風呂付きの上位プランと思われます。
仕事関係の宿泊には見えません。』
予約名義は藤堂亮平。
私は、その一文を何度も読んだ。
家族旅行の時、亮平は宿を探さなかった。
プランも見なかった。
食事の時間も、子ども用の浴衣の有無も、
何も調べなかった。
私が予約した。
私が確認した。
私が支度した。
なのに玲奈との旅行では
やはり亮平が自分で予約していた。
しかも、客室露天風呂付きの上位プラン。
頭の奥が、熱くなった。
家族には、空いている宿で十分。
愛人には、自分で選んだ高級旅館。
妻には任せる。
愛人には尽くす。
その現実が、私の中に積もっていた怒りを一気に燃やした。
次の写真。
フロントで記帳する亮平。
少し後ろで待つ玲奈。
玲奈はキャリーケースの持ち手に両手を添え
少し緊張したように立っていた。
控えめな恋人。
そう見えた。
家族旅行の時と同じだった。
あの日も亮平が代表で記帳した。
私は子どもたちの荷物を見ていた。
美月は浴衣を選び、悠真は売店のお菓子を見ていた。
同じ宿に着くという行為なのに、意味がまったく違う。
あの日は家族だった。
今日は裏切りだった。
夕方、美月が帰ってきて家族旅行で買った
キーホルダーをランドセルにつけ直していた。
「ママ、これ可愛いよね」
「うん。似合ってる」
「またあの旅館行きたい」
「そうだね」
「パパ、今度いつ休み?」
「しばらく忙しいみたい」
「そっか」
美月は少し残念そうにしたが、すぐ宿題を始めた。
悠真は相変わらず次はもっと大きいバイキングと言っていた。私は二人に夕飯を食べさせ、宿題を見てお風呂に入らせた。
いつもの夜。
その裏で、古いスマホが震える。
夫が愛人と高級旅館にいることを知らせるための
母親として、私は子どもたちにご飯を食べさせる。
妻として、夫の出張を信じているふりをする。
復讐する女として、届く証拠を一つずつ保存する。
ひとつの体に、三人の私がいる。
どの私も、今夜は眠れそうになかった。
子どもたちが寝た後、南條から音声ファイルが届いた。
『客室内と思われる音声、一部取得。
バッグが近くに置かれている時間帯のもの。
会話は比較的明瞭。』
私はリビングの電気を落とし、イヤホンをつけた。
再生する。
引き戸の閉まる音。
玲奈の声。
「すごい……素敵なお部屋ですね」
弾んでいた。
本当に嬉しそうだった。
亮平が笑う。
「気に入った?」
「はい。気に入りました。こんなところ、二人で来られるなんて思ってなかったから嬉しいです。ありがとう亮平さん」
「展示会、頑張ったご褒美」
「私への?」
「玲奈への」
少しの沈黙。
衣擦れのような音。
玲奈が小さく笑った。
「嬉しい。私、今日のこと、ずっと覚えてると思います」
私は目を閉じた。
覚えていればいい。
その日が、どんな意味を持つことになるのか知らずに。
亮平の声が近くなる。
「そんなに喜ぶ?」
「喜びますよ。だって、家族旅行の話を聞いた時、本当はすごくつらかったんです。奥さんと子どもさんとは旅行に行けるのに、私は仕事の時しか隣にいられないんだって」
奥さんと子どもさん。
その言葉が耳の奥に刺さった。
玲奈は知っている。
私たちが家族で旅行へ行ったことも。
亮平に妻と子どもがいることも。
それでも自分も欲しいと口にしている。
亮平は低く笑った。
「しょうがないだろ。あれは、時々は家族孝行もしとかないと怪しまれたら大変だからね」
私は息を止めた。
亮平は続けた。
「まあ、うちのはそんな勘づかないだろうけど」
世界が、一瞬、無音になった。
うちのは
そんな勘づかない。
私を、そう言った。
家族旅行を、怪しまれないための家族孝行だと言った。
美月が笑っていたあの時間を。
悠真がはしゃいでいたあの時間を。
私が予約して、準備して、荷物を詰めたあの旅行を。
怪しまれないための行為だと言った。
私はスマホを握る手に、爪が食い込むのを感じた。
怒りが、涙より先に喉を塞いだ。
殺したいほど憎い。そう思った。
初めて、はっきりと。
玲奈は小さく笑った。
ふふっ。奥さん、そんなに気づかないんですか?」
「家のことと子どものことで頭いっぱいだから」
亮平の声は軽かった。
「俺が仕事って言えば、大体信じるよ」
玲奈が、少し安心したように息を吐いた。
「そっか……」
そっか、ではない。
お前たちは何を笑っている。
私は、声を出さないように唇を噛んだ。
血の味がした。
玲奈の声が、少し真剣になる。
「子どもさんのことは……どうするつもりですか」
しばらく沈黙。
亮平の声が低くなった。
「子どもは、可愛い。これからも俺が育てたいと思ってる」
私は、全身が固まった。
今、何を言った。
子どもは、俺が育てたい。
美月を。
悠真を。
私からうばうつもり?
玲奈が少し驚いたように言う。
「亮平さんが?」
「もちろん。あの子たちは俺の子だし。手放すつもりはない」
当たり前のような口調だった。
父親として子どもを愛している声。
でも、その声は私を踏みにじっていた。
私がどれだけの思いで育ててきたと思っている。
熱を出した夜、眠らずに看病したのは誰。
学校の準備を見てきたのは誰。
泣いて帰ってきた美月の話を聞いたのは誰。
悠真が怖い夢を見て泣いた夜、抱きしめたのは誰。
あなたは仕事だった。
飲みかいでいつも遅かった。
出張で家を空ける事もあった。
そして今は、不倫をし愛人と旅行している。
それなのに、子どもは俺が育てたい?
ふざけるな。
玲奈の声が、少し柔らかくなった。
「私も……もし亮平さんが本当にそう考えているなら、一緒に育てる覚悟はあります」
私は、イヤホンの奥でその言葉を聞いた瞬間
目の前が赤く染まるような感覚に襲われた。
一緒に育てる。
誰を?
私の子どもたちを?
あんたが?
私の家庭を壊した女が
私の子どもたちの母親面をする気でいる。
玲奈は続ける。
「最初は難しいと思います。でも、時間をかければ……私、ちゃんと向き合います。亮平さんの子どもさんなら、大切にしたいです」
綺麗な言葉。
吐き気がするほど綺麗な言葉。
大切にしたい?
まず、奪おうとしている時点で大切にしていない。
亮平が低く言った。
「玲奈なら、そう言ってくれると思ってた」
私は震える手でイヤホンを押さえた。
亮平。
あなたは、何を納得しているの。
玲奈が続ける。
「でも、そのためには……奥さんと距離を置かないといけませんよね」
「そうだな」
「奥さんが親権を主張したら?」
少しの沈黙。
亮平の声が、さっきよりも冷たくなった。
「紗希は感情的になるだろうけど、生活力のことを考えたらこっちの方が有利だと思う」
私は、息ができなくなった。
生活力。
私の生活を支えてきたのは誰。
あなたが仕事に集中できるように、家を回してきたのは誰。
子どもたちの予定も、学校も、体調も、食事も
全部見てきたのは誰。
それを今、生活力がないという材料にするつもりなのか。
亮平は続けた。
「あいつ、今は正社員でもないパート程度だし。親権を取るには金銭的にも難しいだろう。感情的になればなるほど、こっちは冷静に進められる」
感情的になればなるほど。
私は思わず笑いそうになった。
だから私は、ここまで感情を出さずに来たのだ。
あなたがそうやって私を見下すことを
私は知っているから。
玲奈の声が少し不安そうになる。
「でも、子どもさんたち、奥さんに懐いているんじゃ……」
「そりゃ母親だからな。でも、将来のことを考えたら、俺の方が安定してるし俺にも子供たちは懐いてるしな」
「私もいます。私も可愛がります」
玲奈の声が、少し強くなった。
「私も、亮平さんと一緒にちゃんと支えます。いざとなれば桐島屋のこともあるし、離婚しても環境なら悪くないと思います」
桐島屋。
また出た。
玲奈は、自分の家を子どもたちの未来にまで差し出してきた。私の子どもを奪うための材料として。
私はその瞬間、はっきり決めた。
玲奈。
あなたはもう、ただの愛人ではない。
私の夫だけではなく、私の子どもたちにまで手を伸ばした。
亮平が言う。
ありがとう。そこは、時間をかけて一緒に考えよう」
「私もちゃんと覚悟してます」
ありがとう。
亮平のその言葉が、今夜一番醜く聞こえた。
しばらく沈黙が続いた。
グラスの置かれる音。
窓を開けるような音。
玲奈が小さく息を吸う音。
そして亮平の声が、低く甘くなった。
「こっち来て」
玲奈が小さく笑う。
亮平さん。話、まだ途中ですよ」
今日の玲奈の浴衣姿色っぽいな。続きはあとでいいよ」
「亮平さん……」
衣擦れの音。
畳がわずかに軋む音。
玲奈の声が近くなる。
私、今日、本当に嬉しかったんです」
「わかってる」
「家族旅行のこと、ずっと苦しかったから……
私のことも大事に思ってくれてるんだって」
「大事にしてるよ」
「本当に?」
「本当。」
その後の音は、言葉ではなかった。
抱き寄せるような布の擦れ。
小さく漏れる息。
玲奈の甘えたような声。
亮平の低い囁き。
直接的な言葉は聞こえない。
それでも、何が起きているのかは十分すぎるほどわかった。
私はイヤホンをつけたまま、硬直していた。
聞かなければいけない。
確実な証拠だから。
そう思った。
2人の声が次第に大きくなり始め
次の瞬間、玲奈が亮平の名前を呼んだ。
甘く、近く、私の知らない声で。
限界だった。
私はイヤホンを乱暴に外した。
リビングに、静寂が戻る。
子どもたちの寝息が、隣の部屋からかすかに聞こえていた。
私は両手で耳を塞いだ。
もう聞きたくない。
あの男の声も。
あの女の声も。
私の子どもたちを奪う話も。
私を馬鹿にして笑う声も。
その後に重なる二人の気配も。
全部、もう聞きたくなかった。
でも、録音は続いている。
バッグの中で。
亮平と玲奈のすぐそばで。
私が外したイヤホンの向こう側で
着々と証拠は積み上がっている。
私はソファの上で、膝を抱えた。
泣かなかった。
泣けなかった。
怒りが涙を焼き尽くしていた。
美月。
悠真。
あなたたちは、絶対に渡さない。
あの男にも。
あの女にも。
桐島屋にも。
誰にも。
私は震える手で古いスマホを握り直した。
画面には、南條からのメッセージが表示されていた。
『音声取得継続中。
写真も追加で押さえています。』
私は短く返信した。
『続けてください。』
送信したあと、暗いリビングで目を閉じた。
亮平。
玲奈。
あなたたちは今、温泉宿で未来を語っている。
でも、その未来はもう終わっている。
もう少しで気づかせてあげる。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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