第三十七章 昇進と家族の行方
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金曜日の午後。
薬局の事務室で納品書の数字を確認していた時
ロッカーに入れていた古いスマホが短く震えた。
休憩時間まで待ち、裏口近くの小さな休憩室で画面を開く。
南條からだった。
『社内人事に動きあり』
続けて、もう一行。
『藤堂亮平氏。来期、営業部次長への昇進内示』
私はしばらく画面を見ていた。
次長。
課長の一つ上。
展示会前から、亮平が欲しがっていた場所
今が大事な時期だ。
今回の結果でこの先変わる
部長が見てる
何度も聞いた。
けれど、玲奈にはもっと詳しく話していたのだろう。
私は画面をスクロールした。
『内示は本日午前、営業本部長、人事部長、担当役員同席
正式発表は来週開催の創立記念パーティーで』
今日の午前。
朝の亮平は、いつも通りだった。
コーヒーを飲み、美月に早く食べないと遅刻するぞと言い、悠真の寝癖を見て笑っていた。
出かける前、私は聞いた。
「今日、遅くなる?」
「わからない。仕事次第かな」
それだけ。
あの時、亮平はまだ知らなかった。
けれど、今はもう昇進したことを知っている。
十五時四十二分。
内示から、およそ五時間。
亮平から連絡はない。
待っていたわけではない。
ただ、確認したかった。
あの人が、誰に最初に知らせるのか。
古いスマホが、もう一度震えた。
『桐島玲奈、本日十八時退社予定、藤堂氏は現在も社内』
南條は、私が何を知りたいのかわかっている。
十九時十三分。
亮平は会社を出た。
玲奈は、その二十三分前に退社
二人は会社の最寄り駅を使わず
別々の経路で移動
合流したのは、会社から四駅離れた繁華街。
雑居ビル二階のダイニングだった。
照明を落とした、仕事帰りの男女が
二人で入っても目立たない店。
亮平が先に入り、玲奈は七分後。
憎たらしいぐらい徹底している。
私は夕食を作りながら南條の報告を読んだ。
「ママ、今日パパ遅い?」
美月が聞いた。
「仕事じゃないかな」
「また?」
「仕事が忙しいんだろうね」
テレビを見ていた悠真が言う。
「パパ、偉くなるんじゃない?」
包丁を持つ手が、一瞬止まりかけた。
「どうして?」
「だって、ずっと仕事してるもん」
美月が笑う。
「仕事してたらみんな偉くなるわけじゃないよ」
「えー」
私はニンジンを切った。
薄く。同じ厚さで。
亮平。
あなたの息子は、あなたが仕事をしていると思っているわ
今、愛人と昇進祝いをしている時間を
音声が届いたのは、子どもたちが眠った後だった。
私はリビングの照明を一つだけ残し、イヤホンをつけた。
グラスが触れる音。
玲奈の明るい声。
「おめでとうございます」
「まだ正式発表前だからな。でもありがとう」
「内示は内示です」
「声大きいって」
「あっごめんなさい。でも、本当に嬉しくて」
亮平が笑う。
「おまえら俺より喜んでない?」
「喜びますよ。ずっと見てきたから」
声が柔らかくなる。
「展示会の前から、亮平さんがどれだけ次のこと考えてたか知ってるし。家では言えないことも、私には話してくれたし」
家では言えないこと。
玲奈は、そこを強調した。
自分は妻より近い。
仕事の亮平を知っている。
弱音も、野心も、未来も。
「玲奈には本当助けられたよ」
「本当に?」
「展示会も、桐島屋との話も。玲奈がいなかったら、ここまでうまくいかなかった」
「私、何もしてませんよ」
「してるよ」
玲奈が小さく笑う。
「…嬉しい」
グラスの氷が鳴った。
そして亮平が言った。
「だから、一番に玲奈に言いたかった」
玲奈がすぐに反応する。
「一番?」
「うん、一番に」
「奥さんより?」
亮平は少し笑った。
「紗希にはまだ言ってない」
「本当に?」
「本当」
「今日、内示だったんですよね」
「そう、まだ言う必要ないだろ」
言う必要。は?
妻には言う必要がない。
愛人には、一番に知らせたい。
亮平の中では、もう順番が出来上がっている。
玲奈の声が震えた。
「嬉しいです。私が一番に知れたんですよね」
亮平は答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
玲奈は今、勝ったと思っている。
私に。
そして、その高揚のまま言った。
「じゃあ、これで約束の時ですよね」
亮平の声が低くなる。
「うん」
「昇進したら話すって言いました」
「覚えてる」
「奥さんに離婚のこと」
「ああ」
はっきり言った。
「パーティーが終わったら話すつもりではいる」
「いつですか?」
「玲奈」
「また曖昧になるの嫌なんです。亮平さん、いつもちゃんとするって言うじゃないですか」
私は口元を歪めた。
玲奈も気づいている。
ちゃんとが、亮平の逃げ道だということに。
「私、もう待つだけは嫌です」
「わかってるよ。」
「じゃあ、いつ?」
亮平が息を吐く。
「パーティーのあと、一週間以内」
「奥さんに話す?」
「話す」
「離婚したいって?」
少しの沈黙。
「最初から、その言葉は使わない」
私はイヤホンを押さえた。
「紗希はいきなり離婚なんて言ったら理由を探す」
「私のことに気づく可能性がありますか?」
「可能性はある」
私は笑いそうになった。
気づくどころか。
私は今、その証拠を集めて愛人にもあって
作戦会議を聞いている。
「だから最初は、夫婦の話をする」
「どういう話をするんですか?」
「最近、会話が減ったとかそんなこと」
「でも会話してるんですよね」
「子どもの話ばっかりだよ。学校がどうとか、習い事がどうとか、病院がどうとか。家に帰ってもそんな話しかない」
当たり前でしょう。
それを言わなければ、あなたは知らないから。
美月の学校も。
悠真の病院の予定も。
私が話してきたから、あなたは父親の顔をできた。
それを今度は、夫婦関係が冷えた証拠に使う。
玲奈が静かに聞く。
「亮平さんは、もっと仕事の話をしたかった?」
「そういうのもあるかな」
「私みたいに?」
甘い声。
亮平は笑った。
「まあな」
「じゃあ、奥さんには何て言うんですか」
「俺もこれから立場が変わる。責任も増えるし、付き合う人間も変わる。その中で、紗希とは見てる方向が違うって話す」
見ている方向。
便利な言葉だ。
「俺はもっと仕事を広げたい。上にも行きたい。でも紗希は、今の生活を守ることしか考えてない」
私は守ってきた。
あなたが仕事へ行けるように。
展示会に集中できるように。
次長になるまで。
私が家を守った。
それを。
守ることしか考えていない女
玲奈が聞いた。
「奥さん、仕事辞めたんですか?」
「今はパートしてるね」
「前は?何かしてたんですか?」
「昔は何か調査系の会社にいたらしいけど。結婚して辞めたんだよ。」
らしい。
私は目を閉じた。
あなたは、私が何をしていたのかも知らない。
「本人が家庭にいることを選んだんですよね」
「そう」
違う。
亮平が言った。
子どもが小さいうちは、家にいてくれると助かる。
俺も仕事を頑張るから。
私は、二人で決めたと思っていた。
「だから、それも含めて価値観が変わったって言う」
二人で、私の人生を書き換えている。
妻が家庭を選んだ。
夫は仕事を選んだ。
価値観が離れた。
愛人だけを抜いた、綺麗な離婚理由。
「それで奥さんが嫌だって言ったら?」
「まぁ、言うだろうな」
「奥さん泣くかな」
玲奈の声に、笑いが混じる。
亮平も軽く笑った。
「まあ、びっくりして最初は泣くんじゃない?」
「亮平さん、冷たい」
「紗希は揉め事が苦手なんだよ。自分から大きなことを起こすタイプじゃないし」
私は静かにイヤホンを押さえた。
亮平。
あなたは私を本当に知らない。
「子どもさんのことは?」
亮平は少し黙った。
「子供については、最初から全部言わない」
「前に自分で育てたいって話したことですよね」
「うん、俺はそのつもり。まず別居する」
亮平の声は落ち着いていた。
「昇進したら仕事が忙しくなる。夫婦関係も悪い。一度距離を置こうって言う」
「亮平さんが出る?」
「その方が自然だろ。近くに部屋を借りる。子どもにはいつでも会える」
「私とは?」
「すぐには住まないよ。離婚してからじゃないと」
玲奈の声が沈む。
「やっぱり‥そうですよね」
「急いだら全部バレる。半年くらいは必要だと思う」
「半年……長いです」
「長いよなごめんな」
「でも待ちます。今まで待ってたんですから。その代わり、ちゃんと進めてくださいね」
「わかってるよ。ちゃんと進める」
少しして、玲奈が言った。
「私、奥さんに勝ちたいわけじゃないんです」
嘘だ。
以前、自分で言った。
奥さんに負けたくない。
「ただ、亮平さんが本当に一緒にいたい人と生きた方がいいと思ってるだけ」
欲を、美しい言葉に変える。
玲奈は本当に上手い。
「玲奈といる方が、これからの俺には合ってると思う」
「本当に?そう思ってます?」
「仕事の話もできる。これからのことも話せる。若くて可愛いし。桐島屋との付き合いもある」
亮平は、そこで少し間を置いた。
「紗希と俺は、もう見てる世界が違うんだよ」
世界が違う。
そう。
違うのかもしれない。
ただし。
亮平が思っている意味とは、少し違う。
「私、亮平さんはもっと上に行けると思ってます」
「次長になったばっかりだぞ」
「だからです。次は部長。その先だってある」
「気が早いな」
「でも、父も常務も亮平さんを評価してます」
亮平が黙る。
玲奈は、その沈黙に入り込んだ。
「桐島屋は今、外部との共同事業を増やそうとしてます。不動産も、施設運営も」
「この前聞いたな」
「亮平さんが窓口になれたら大きいですよ」
「俺が?」
「はい。私が父に推します」
玲奈は笑った。
「亮平さんの力になれるなら、使えるものは使いたい」
家も。
名前も。
人脈も。
玲奈は、それを愛だと思っている。
「玲奈本当に助かるよ」
「私と一緒にいた方がいいでしょう?」
冗談のような声。
でも、本気だった。
亮平が笑う。
「そうかもな」
私は音声を最後まで聞いた。
創立記念パーティーから一週間以内。
亮平が私へ話す。
価値観。
仕事。
夫婦の距離。
そして別居。
子どものことは後。
玲奈の存在は隠す。
完璧なつもりなのだろう。
私は古いスマホのカレンダーを開いた。
創立記念パーティーの日付。
その七日後。
黒い丸をつけた。
予定名は入れない。
必要ない。
亮平が私に、嘘の離婚理由を話す期限。
もう、全てばれている。
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