第三十章 二つ目の旅行
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その日の夜、亮平は少し遅く帰ってきた。
疲れているように見えた。
けれど、目の奥には妙な落ち着きがあった。
何かを決めた男の顔。
夕飯のあと、子どもたちがリビングでテレビを見ている時、亮平は私に言った。
「来週、泊まりの出張が入るかもしれない」
私は皿を洗う手を止めずに聞いた。
「出張?急だね。どの辺?」
「箱根の方。展示会で繋がった先との打ち合わせがあってさ。先方が宿を押さえてくれるらしい」
箱根。
家族旅行の一週間後。
「そうなんだね。展示会終わっても大変だね」
私は水の流れる音を聞きながら、心の中で笑った。
玲奈の私も彼とどこかへ行きたいは、
出張という名目に変わった。
仕事。
打ち合わせ。
先方の宿。
便利な仕事という嘘を何枚も重ねて
愛人との旅行に行こうとしている。
「泊まりなんだ」
「うん。夜に懇親もあるから、日帰りは厳しいって」
「そうなんだ」
私は振り返り、自然に言った。
「準備しておく?」
亮平は少し安心したように笑った。
「ああ。まだ確定じゃないけど、多分行くことになる」
まだ確定じゃない。
嘘をつく人間は、必ず余白を作る。
玲奈との旅行は決定しているはずなのに
まだ確定じゃないと安心感をひとまず与える。
あとで細部を変えられるように。
問い詰められても逃げられるように。
自分でも罪悪感を薄められるように。
「わかった。必要なものあったら言って」
「ありがとう」
また、ありがとう。
この人は本当に、何も知らない妻に
支度をさせるつもりなのだ。
愛人との旅行のバッグを。
家族旅行から戻ったばかりの妻に。
その残酷さに、自分で気づいていない。
いや、残酷とも思っていないだろう。
何も考えていない。
私は微笑んだ。
「仕事なら仕方ないね」
亮平は頷いた。
「悪いな」
悪いと思っているなら、やめればいい。
でも、やめないんでしょう?
喉まで上がった言葉を、私は飲み込んだ。
やめさせるためではない。
行かせるためだ。
その夜、高瀬律子のアカウントに玲奈からDMが来た。
『高瀬さん。
彼が、来週一緒に旅行に行ってくれることになりました。
仕事の名目ではあるんですけど、展示会のお祝いも兼ねてって。二人でゆっくり話そうって言ってくれました。
すごく嬉しいです。
家族旅行のことを聞いた時は苦しかったけど、私にもちゃんと時間を作ってくれました』
私は画面を見つめた。
嬉しいです。
その五文字が、目に焼きついた。
家族旅行から戻ったばかりの私に
夫の愛人が喜びを報告している。
彼が私とも旅行に行ってくれます。
二人でゆっくり話そうって言ってくれました。
私にもちゃんと時間を作ってくれました。
怒りでどうにかなりそうだ
子供達が旅行が楽しかったと話しているその隣で
美月が買ったキーホルダーを机に飾っているその家で。
悠真がまたバイキング行きたいと言っているこの食卓で
夫は玲奈と旅行に行こうとしている。
あの女は、夫との旅行に浮かれている。
亮平は家族旅行から一週間後にその約束をした。
出張という嘘をついて。
私は古いスマホを握りしめた。
壊したい。
今すぐ。
亮平のスマホを取り上げて、玲奈の文面を突きつけたい。
その場で荷物を放り出し、行ってみなさいよと笑ってやりたい。美月と悠真の前で父親の顔をしている男の頬を打ってやりたい。
でも、しない。
しないからこそ最高の形で復讐する。
怒りを外に出した瞬間、亮平は警戒する。
玲奈は被害者の顔をする。
二人は証拠を隠し、言葉を選び始める。
まだ泳がせる。
もっと深く。
もっと遠く。
戻れないところまで。
私は御影には送らなかった。
これはもう、私だけで返せる。
高瀬律子として、短く打った。
『よかったですね。
彼が時間を作ってくれたことは、彼にとって桐島さんを大事にしているのでしょうね。桐島さんにとって大きな意味があるのだと思います。
ただ、仕事の名目と二人の時間が重なっている時ほど、そこでどんな話をするかが大切になります。嬉しさの中でも、自分が本当に聞きたいことは聞いてくださいね。彼がこれからのことをどう考えているのか。彼と桐島さんの未来へ続くものなのか。時間を気にせずゆっくり話せる時間だからこそ、わかることがあると思います。』
送信した。
玲奈からすぐに返信が来た。
『はい。いつもアドバイスありがとうございます。
今度こそ、私たちの未来の話をちゃんと聞いてみます。
ずっと2人でゆっくりできるのは初めてなのですごく楽しみです。私、奥様やお子さんにはには悪いですけど自分の未来も大切にしたいです。』
自分の未来。
私の家庭を踏みながら、自分の未来を語る女。
私は笑った。
声を出さずに。
翌日、南條に連絡した。
「今週末箱根方面への泊まり出張と言われました」
南條はすぐに答えた。
「桐島玲奈との同行ですか?」
「はい」
「日程は?」
私は亮平から聞いた候補日を伝えた。
南條は少し沈黙した。
「尾行をつけます。宿泊先も確認します」
「お願いします」
「荷物に入れる機器はどうしますか」
「入れます」
そう答えた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「鷺沼に頼みます」
「録音は確実ではありません。バッグから離れれば拾えない。音も不鮮明になる可能性があります」
「わかっています」
「それでも?」
「それでも」
南條はそれ以上、止めなかった。
鷺沼から通信機能つき小型集音レコーダー受け取ったのは
出張の二日前だった。
指定された駅の近く、小さな喫茶店。
鷺沼は紙袋をテーブルの下から渡した。
「通信可能な集音レコーダーだ。使い方わかるよな?
長時間用だが、過信するな」
「うん」
「触るな。確認しようとするな。変に動かすな。
自然に入れろ」
「わかった」
「録れない可能性もある」
「南條さんにも言われた」
鷺沼は私をじっと見た。
「顔が怖い」
「そう?」
「昔より怖い」
私は少しだけ笑った。
「それ、褒めてる?」
「一割も褒めてない」
鷺沼はコーヒーに手を伸ばした。
私は紙袋をバッグに入れた。
「ありがとう」
鷺沼は何も答えなかった。
出張前夜、亮平はリビングでスマホを触っていた。
私は寝室で、彼のボストンバッグを開いた。
白いシャツ。
下着。
靴下。
洗面ポーチ。
充電器。
替えのネクタイ。
いつも通りに入れていく。
妻として。
そして最後に、鷺沼から受け取った小さな機器を入れた。
バッグの底板の下。
亮平がわからない場所
手は震えなかった。
不思議なほど、落ち着いていた。
これはもう、怒りではない。
手順だ。
証拠を取るための手順。
バッグを閉じた時、亮平が寝室に入ってきた。
「準備してくれた?」
私は振り返った。
「うん。シャツ二枚入れたよ。念のため」
「ありがとう」
亮平はバッグを見て、何も疑わなかった。
当然だ。
妻が夫の出張準備をする。
それは、この家ではあまりにも自然なことだった。
自然なことほど、疑われない。
私は微笑んだ。
「明日、何時に出るの?」
「朝は会社寄ってから。昼前に向こうへ移動する」
「何人くらいで?」
亮平は靴下を脱ぎながら、自然に答えた。
「数人かな。先方もいるし」
数人じゃないでしょう。玲奈と2人でしょう
でも私は、それ以上聞かない。
「そっか。気をつけてね。お土産よろしく」
「はいはい。わかったよ」
亮平はスマホを枕元に置いた。
画面は伏せられている。
白い花からの通知が来ているのかもしれない。
明日、二人でどこへ行くのか。
どんな宿なのか。
何時に落ち合うのか。
何を話すつもりなのか。
そのすべてを、妻の隣で確認しているのかもしれない。
私は電気を消した。
暗闇の中で、亮平の呼吸がゆっくり落ち着いていく。
私は目を開けたまま、天井を見ていた。
家族旅行の時、亮平は美月の手を引いていた。
悠真にソフトクリームを買っていた。
夜には、家族の時間を作らないと、と言った。
その一週間後、彼は愛人と旅行へ行く。
出張という名前をつけて。
そのバッグを、私が準備した。
そしてその中には、私の耳が入っている。
翌朝、亮平はいつもより丁寧に髪を整えた。
「泊まりだから荷物多いな」
そう言って、ボストンバッグを持ち上げる。
その中に何が入っているか、彼は知らない。
私は玄関で見送った。
「忘れ物ない?」
「たぶん大丈夫」
「ハンカチ入れてるから」
「ありがとう」
亮平は靴を履きながら、私を見た。
「帰りは明日の夕方くらいになると思う」
「わかった」
「子どもたちによろしく言っといて」
「うん」
父親の顔。
夫の顔。
その顔で、愛人との旅行へ向かう。
玄関の扉が開く。
亮平が出ていく。
私はいつものように言った。
「行ってらっしゃい」
亮平は振り返り、笑った。
「行ってきます」
扉が閉まった。
その数秒後、古いスマホが震えた。
南條からだった。
追跡開始します。
私は画面を見つめた。
亮平にとって二つ目の旅行が始まった。
一つ目は、家族のための旅行。
二つ目は、愛人のための旅行。
亮平と玲奈が、どこまで自分たちの未来を語るのか。
私は家の中で静かに待つ。
妻として。
母として。
そして、復讐を始めた女として。
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