第二十九章 家族旅行
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展示会が終わった翌朝、亮平は機嫌がよかった。
いつもより少し遅く起きてきたのに
顔には疲れよりも達成感があった。
コーヒーを飲みながらスマホを見て
何度か口元を緩めている。
「昨日、うまくいったんだね」
私が卵焼きを皿に移しながら言うと
亮平は顔を上げた。
「ああ。かなり反応がよかった」
「よかったね」
「部長にも褒められたし、役員も見に来てくれてさ。」
その声には、隠しきれない自信が滲んでいた。
自分の昇進を確定した男の声だった。
足元に、少しずつ亀裂が入っていることなど亮平は知らない。その亀裂を入れているのが、目の前で卵焼きを切っている妻だということを
美月が寝癖のまま食卓に来て、開口一番に言った。
「パパ、展示会終わったよね?」
亮平が笑う。
「終わったよ」
「じゃあ温泉」
「覚えてたか」
「覚えてるよ。約束したもん」
悠真も牛乳を飲みながら、勢いよく手を上げた。
「バイキング! カニあるところ!」
「お前、カニ好きだったっけ?」
「好きになった!」
亮平が声を上げて笑った。
その笑い方は、本当に父親のものだった。
子どもたちを愛していないわけではない。
家族旅行が嫌なわけでもない。
この時間を大切に思っていないわけでもない。
だからこそ、私は余計に腹が立った。
家庭を壊す男が、家庭を楽しむ顔をする。
愛人に未来を囁く男が、子どもに温泉を約束する。
そのどちらも本当らしい顔でできることが
私には許せなかった。
「今度の週末に行くか」
亮平がこちらを見る。
「本当?」
「近場で一泊するか」
その瞬間、美月と悠真が歓声を上げた。
「やった!」
「バイキング!」
私は笑った。母親として。
何も知らない妻として。
「じゃあ、宿探すね」
「いつも任せて悪いな」
亮平は自然にそう言った。
いつも任せて。
旅行先を探すのも、子どもたちの服を準備するのも
宿の予約をするのも、持ち物を揃えるのも当然私。
亮平は行こうと言う。それだけ
私は、それを現実にする。
そして同じ男は、玲奈には別の現実をちらつかせている。
昇進したら。
迎えに行く。
帰りたい場所は玲奈のところ。
二人の未来を考えている。
私は旅行サイトを開いた。
海が見える温泉宿。
子ども向けバイキング。
貸切風呂。
卓球台。
朝食付き。
美月が横から覗き込む。
「ここ、浴衣選べるって!」
悠真が画面の別の場所を指差す。
「チョコフォンデュある!」
亮平が笑う。
「悠真、温泉じゃなくてご飯目当てだな」
「ご飯も旅行の一部です」
美月が妙に大人びた口調で言い、亮平がまた笑った。
その光景は、どこから見ても幸せな家族だった。
私は宿を予約した。
宿泊者名を入力する。
藤堂亮平。
藤堂紗希。
藤堂美月。
藤堂悠真。
四人の名前が、画面の中で綺麗に並んだ。
まだ壊れていない家族のように。
私は予約確定ボタンを押した。
これが家族最後の旅行になるとも知らずに
週末、私たちは海沿いの温泉宿へ向かった。
車の中では、美月が選んだ曲が流れていた。
悠真は後部座席でお菓子を抱え
サービスエリアのたびに次は何買う?と聞いてくる。
亮平は運転しながら、子どもたちの話に笑っていた。
「パパ、海見えた!」
美月が窓に張りつく。
「本当だ」
亮平が少しスピードを落とした。
「悠真、見てみろ」
「え、どこ?」
「反対側」
「あ、見えた!」
悠真の声が弾む。
私は助手席から、その横顔を見ていた。
亮平は、父親として本当に自然だった。
子どもたちが騒げば笑い、トイレを心配し
サービスエリアでは荷物を持つ。
美月が寒いと言えば、自分の上着をかける。
悠真がソフトクリームをこぼせば
呆れながらもティッシュで拭く。
普通の父親。
優しい父親。
だからこそ、腹の底に黒い怒りが溜まっていく。
この人は、こんな顔ができるのだ。
家庭の中で。
子どもの隣で。
私のすぐ横で。
そして一週間後には、別の女の隣で別の顔をするのだろう。
宿に着くと、美月が真っ先に窓際へ走った。
「すごい! 海、近い!」
悠真は畳の上に転がった。
「ここ住みたい!」
「転がる前に靴下脱いで」
私が言うと、亮平が笑いながら悠真の足を掴んだ。
「はい、回収」
「やめてー!」
子どもたちが笑う。
部屋には、畳の匂いと、ほんの少し潮の匂いが
混じっていた。
窓の外には、夕方の海が広がっている。
波が白く崩れて、また戻っていく。
美月は選べる浴衣を何度も鏡に合わせた。
悠真は館内マップを見ながら卓球ある!と叫んだ。
夕飯のバイキングでは、亮平が悠真の皿に野菜を
一つだけ乗せた。
「はい、これで栄養バランス」
「ブロッコリー一個じゃ無理でしょ」
美月が呆れる。
「パパ基準では完璧」
亮平が言うと、子どもたちは笑った。
私も笑った。
喉の奥に、硬いものを飲み込んだまま。
この時間は、確かに楽しかった。
美月が笑い、悠真がはしゃぎ、亮平が父親として
そこにいる。
それだけを切り取れば、私はまだ幸せな妻の顔をできた。
夕食後、四人で卓球をした。
悠真は空振りばかりで、ボールが畳の方へ転がるたびに
走っていく。
美月は意外と上手く、亮平が本気で驚いていた。
「美月、うまいな」
「でしょ?」
「パパ負けるかも」
「負けていいよ」
「よくない」
そんな会話をしながら、亮平は本気で笑っていた。
私はその笑顔を見て、どうしようもなく憎くなった。
この時間を作れるなら、なぜ壊した。
私に飽きたからだろう。
この子たちをこんな顔で笑わせられるなら
なぜ外であの女に未来を渡した。
父親として笑うあなたを見れば見るほど
夫としての裏切りが許せなくなる。
夜、子どもたちが眠った後
亮平は窓際の椅子に座って缶ビールを飲んでいた。
海は暗く、遠くに小さな灯りが揺れていた。
「久しぶりだな、こういうの」
亮平が言った。
「そうだね」
「子どもたち、すごい喜んでたな」
「うん」
「楽しいな。来てよかった」
亮平は、本当にそう思っているようだった。
私はその横顔を見た。
今なら聞けるのではないかと思った。
あなた浮気してるよね?
あなたにとって、この家族は何なの。
桐島玲奈って誰?どんな関係?
私のことを、本当に終わった妻だと思っているの。
子どもたちを理由にしながら
あの女とどんな未来を見てるの
でも、聞かない。
聞いても亮平は答えない
自分に都合のいい嘘をつく。
ここで聞けば、今までの頑張りも終わる
傷ついた妻。
問い詰める妻。
感情的な妻。
亮平が玲奈に語った通りの女になってしまう。
私は震える拳をグッと握り静かに言った。
「美月も悠真も、パパと来られて嬉しそうだった」
亮平は少し目を伏せた。
「最近、忙しかったからな」
「うん」
「展示会も落ち着いたし、少し家庭の時間も作らないとな」
家庭の時間。
その言葉は本当なのか
あなたの言う家庭の時間って何
私は微笑んだ。
「そうだね」
亮平は安心したようにビールを飲んだ。
私は窓の向こうの暗い海を見ていた。
一週間後。
亮平は玲奈と旅行に行く。
亮平は玲奈と来てよかったと言うのだろうか。
それともやっと二人で来られたと言うのだろうか。
想像した瞬間、胸の奥で怒りが刃物のように光った。
家族旅行に行く前
白い花のアイコンからDMが届いていた。
高瀬さん。
彼が、家族で出かけらみたいです。
仕事が落ち着いたら家族の時間を作るって
前に言っていたので、そういうことなんだと思います。
頭ではわかっているんです。
でも、私も彼とどこかへ行きたいと言ってしまいました。
展示会を一緒に乗り越えたからご褒美ぐらいいいですよね。
私は薬局の休憩室で、その文面を読んだ。
玲奈は、家族旅行を知った。
そして、欲しがった。
妻と子どもが過ごす事をしり自分も欲しいと思った。
堂々と隣にいたい。
選ばれている形が欲しい。
彼の仕事だけではなく、彼の休日にも入りたい。
彼の全てが欲しい。自分も同じ立ち位置でいたい
それを、玲奈は私も彼とどこかへ
行きたいという柔らかな言葉に変えている。
ふざけるな。
スマホを握る指に力が入った。
あなたが欲しがっているのは旅行ではない。
妻の場所だ。
家族の場所だ。
子どもたちが笑っていた時間の上に
自分も同じように居場所が欲しいだけだ
私は御影に文面を共有した。
数分後、返信が来た。
『ここは扉です。
彼女は外に置かれている感覚に苦しんでいる。
扉の内側へ入れてもらえるかを確かめたい状態です。
彼がどんな名目で扉を開くのかを見るよう促してください。』
扉。
それは、今の玲奈にふさわしかった。
妻の扉。
家庭の扉。
二人だけの未来の扉。
会社ではない、仕事ではない
私的な場所へ入れてもらえるかどうか。
私は高瀬律子として返信した。
『桐島さんの今の気持ちは扉です。
今の桐島さんは、彼の仕事の中では近くにいるのに、私生活の扉の外に置かれているように感じているのかもしれません。どこかへ行きたいと思う気持ちは、ただのわがままではなく、彼が自分をどの場所へ招いてくれるのか確かめたい気持ちなのかもしれません。
ただ、その扉を彼がどんな形で開くのかは見てください。
仕事なのか、隠れ場所なのか、約束なのか。
そこに、今の関係の本当の意味がわかるかもしれません。』
送信した。
しばらく返事はなかった。
一時間ほどして、短い文が届いた。
『扉の外。
まさにそんな感じです。
私、ちゃんと聞いてみます。彼が私をどこに連れて行ってくれるのか。その意味を』
私はスマホを閉じた。
また、亮平に言葉を求める。
そして亮平はきっと、応える。
玲奈を繋ぎ止めるために。
自分の欲を守るために。
二つ目の旅行が、そこで生まれる。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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