第二十八章 展示会当日
※不定期更新です♪
応援や評価していただけるとやる気が満ち溢れて
更新早くなります笑
展示会当日の朝、亮平はいつもより早く起きた。
まだ外は少し薄暗かった。
キッチンで湯を沸かしていると
寝室の扉が開く音がした。
振り返ると、亮平がスーツを手に立っていた。
「今日は早いのね」
私が言うと、亮平は少しだけ笑った。
「今日はさすがにね。緊張して目が覚めちゃって」
その声には、隠しきれない高揚があった。
大事な日。
会社で評価される日。
部長や役員、取引先に顔を覚えられる日。
そして玲奈が、桐島屋の看板を連れてくる日。
亮平はネクタイを二本持って、私に見せた。
「どっちがいいと思う?」
以前なら、こういう何気ないやり取りを嬉しいと思った。
夫が私に意見を求める。
大切な日に、妻の言葉を少しだけ頼る。
でも今は違う。
そのネクタイを締めて
あなたは玲奈の隣に立つのだから
白い花のような顔をした女が、控えめに笑いながら
あなたを引き上げていく。
あなたはその横で、上司の顔をし
恋人の顔を隠し、昇進候補の顔を作る。
「こっちかな」
私は濃紺の方を指差した。
「落ち着いて見える。スーツにもあってるし」
「じゃあ、これにする」
亮平は疑いもせずに頷いた。
私が選んだネクタイで、愛人の前に立つ。
美月が眠そうな顔でリビングに来た。
「パパ、今日が展示会?」
「そう。大事な日」
亮平は娘の頭を撫でた。
悠真も遅れて起きてきて、パジャマのまま言った。
「パパ、勝ってきてね」
「勝負じゃないけどな」
亮平は笑った。
けれど、私にはわかっていた。
今日は勝負だ。
亮平にとっては、昇進への勝負。
玲奈にとっては、妻よりも彼の未来に近い場所へ立つ勝負。
そして私にとっては、二人をさらに高い場所へ登らせるための日。
「頑張ってね」
私は言った。
亮平は私を見て、少しだけ表情を柔らかくした。
「ありがとう。頑張るよ。」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関の扉が閉まる。
私はその音を聞きながら、キッチンへ戻った。
今日、私は会場へ行かない。
何も知らない妻だから。
夫の仕事を信じ、子どもたちと家にいる妻だから。
その顔を崩さないことが、私の仕事だった。
昼前、高瀬律子のアカウントにDMが届いた。
白い花のアイコン。
『高瀬さん、今日が彼にとっても私にとっても大事な日です。私も仕事として関わっています。朝から少し緊張しています。私がちゃんと支えられたら、彼も前に進める気がして。』
私は薬局の休憩室で、その文面を読んだ。
玲奈は、完全に彼は私が支える女になっていた。
重要な仕事として関わっている。
彼にとって大事な日。
私が支えているから。
その言葉の奥には、はっきりとした期待がある。
私は彼の成功に必要な女。
私は妻よりも彼の未来に近い女。
私は彼を上に行かせる女。
美しく整えた言葉の中に、
勝ち誇りたい気持ちが滲んでいた。
私は御影に文面を送った。
すぐに返事が来る。
『今日は「舞台」のカードで返してください。
彼女は今、自分が主役ではなく、
主役を支える特別な位置にいると思っています。
ただし、舞台の光は人を酔わせる。
仕事の光と恋愛の光を混同しないように伝えてください。
そのうえで終わった後に相手がどんな言葉をくれるかを見ると伝えて下さい。』
私は小さく息を吐いた。
舞台。
今日の玲奈には、よく似合うカードだった。
私は御影の言葉を高瀬律子として返信した。
『今日はお二人にとって大事な日なのですね。桐島さんの文章を読んで、カードを引いてみました。「舞台」が出ました。誰かを支えるために、明るい場所へ出ていく日。
ただ、舞台の光は人を強く見せる一方で、本当の距離感を少し見えにくくすることがあります。
今日という大事な日が終わった後、彼が桐島さんにどんな言葉をくれるのか。仕事への感謝なのか、ひとりの女性としての言葉なのか。そこを静かに見てみるといいかもしれませんねら、』
送信した。
玲奈から返事はすぐに来た。
『舞台……まさにそんな感じです。
私、彼の横に立てるのが嬉しいんです。
展示会が終わった後の言葉、ちゃんと聞いてみます。』
彼の横に立てるのが嬉しい。
私はその一文を見つめた。
そう。
今日、玲奈は亮平の横に立つ。
妻でもないのに。
家庭も知らない顔で。
仕事の顔をして。
文章だけ読むと自分が一番と思っている。
私はスマホを伏せた。
立てばいい。
その横顔も、視線も、距離も、会話も
全て私の手の中に入る。
午後、南條から最初の報告が届いた。
『展示会会場、開場。
藤堂氏、営業部長と共に受付付近で主要取引先対応中。
桐島玲奈、企画側スタッフとして来場者導線を担当。
桐島屋関係者、十五時頃来場予定。』
添付された写真には、広い会場が映っていた。
白を基調にしたブース。
大きなパネル。
来場者の名札。
スーツ姿の社員たち。
その中に亮平がいた。
濃紺のネクタイ。
私が選んだもの。
彼は営業部長の少し後ろで、
にこやかに来場者へ頭を下げていた。
仕事のできる男の顔だった。
その数枚後に、玲奈の写真があった。
淡いベージュのジャケットに、白いブラウス。
髪は低めにまとめ、胸元にはスタッフ証。
派手ではない。
けれど、目を引く。
玲奈は資料を抱え、来場者へ柔らかく案内していた。
彼女の横を男性社員が通り、何か声をかける。
玲奈は控えめに笑う。
その笑顔だけで、周囲の空気が少し柔らかくなるようだった。
悔しいけれど、玲奈は上手い。
自分がどう見られるかを知っている。
声の大きさ、手の添え方、頷く角度
相手の話を邪魔しない間。
全部が、清楚で、気が利く女の形をしている。
南條から、会場内の協力者が拾った会話も送られてきた。
「桐島さん、来場者対応すごく丁寧ですね」
「ああいう子がいると、会場が締まるよね」
「やっぱり育ちが出るな」
「桐島屋の関係者も来るんだろ? 彼女が繋いだなら大きいよ」
「藤堂課長、いい担当を持ったな」
男性社員たちの声だった。
育ちが出る。
いい担当を持った。
玲奈自身の努力もあるのだろう。
でも、そこに桐島屋の名前が重なることで
彼女はただの社員ではなくなる。
評価される。
大事に扱われる。
少し失敗しても、上品な人として許される。
続いて、女性社員の会話。
「また褒められてる」
「あれでしょ、桐島屋の人が来るから、部長も張り切ってるんでしょ」
「でも、あの人の準備、昨日かなり後輩が手伝ってたよ」
「最後に桐島さんが持っていくんだよね」
「藤堂課長もすごい見てるよね」
「見てるっていうか、頼りにしてる感じ?」
「既婚者の上司が、若い女性部下にあの感じはちょっとね」
「でも誰も言えないよ。桐島さん評判いいし、家の名前もあるし」
私は、その文字を何度も読んだ。
会社の中にも、もう違和感は生まれている。
ただ、それはまだ形にならない。
嫉妬。
ひがみ。
女同士の悪口。
そう片づけられてしまう程度の違和感。
疑われない程度に近づく。
悪く言った側が妬んでいるように見える場所に立つ。
男性には気が利く部下として、女性には少しだけ棘を見せる
私はスマホを閉じ、仕事へ戻った。
でも頭の中では、会場の映像がずっと流れていた。
亮平の横にいる愛人
十五時過ぎ、南條から新しい写真が届いた。
桐島屋ブライダル事業部の常務
桐島宗一郎が会場に入った瞬間だった。
六十代前半ほどの男性。
上質なスーツ。
背筋が伸び、笑顔は柔らかいが
周囲が自然と道を開ける空気がある。
その隣で、玲奈が頭を下げていた。
いつもの社員の顔ではない。
家の人間に見せる、少しだけ幼さを残した笑顔。
「本日はお忙しい中、ありがとうございます」
写真だけなのに、玲奈の声が聞こえるようだった。
次の写真。
玲奈が桐島宗一郎を亮平の前へ案内している。
亮平は背筋を伸ばし、丁寧に名刺を差し出していた。
南條から短い音声が届く。
会場のざわめきの中、低い男性の声が入っている。
『藤堂さんですか。玲奈から、今回ずいぶん熱心に取り組まれていると聞いております』
玲奈から。
その一言に、私は指を止めた。
亮平の声が続く。
『ありがとうございます。桐島さんには、企画面で本当に助けていただいています』
桐島さん。
人前では、そう呼ぶ。
玲奈の声が控えめに入る。
『いえ、藤堂課長の進め方が明確でしたので、こちらも動きやすくて』
完璧なやり取りだ。
上司と部下。
取引先関係者。
家の看板。
仕事の成果。
その場にいる誰も、二人が不倫をしている。
昨夜マンションで過ごしたとは思わないだろう
思わないからこそ、吐き気がする。
桐島宗一郎が笑った。
『良いチームですね』
その言葉の後に、亮平が少し笑う気配が入っていた。
『恐縮です』
玲奈は黙っている。
けれど、きっと嬉しかっただろう。
良いチーム。
妻ではなく、仕事の場で彼の横に立つ女。
彼の評価を上げる女。
彼の未来に関わる女。
玲奈が欲しい言葉は、少しずつ現実の中で形を
持ち始めていた。
私は音声を止めた。
良いチーム。
その言葉を、いつか別の形で返してやりたいと思った。
不倫と昇進を同じ皿に乗せた、良いチーム。
夕方、展示会は大きな混乱もなく終わった。
南條からの報告では、来場者数は想定を上回り
桐島屋関連の関係者も長く滞在したらしい。
社内では、早くも成功ムードが広がっているという。
部長が藤堂氏を高く評価。
来期が楽しみだと発言。
桐島玲奈についても、企画側の功労者として複数名が評価。
来期が楽しみ。
亮平が聞けば、どれほど喜ぶだろう。
玲奈が聞けば、どれほど自分の役割を信じるだろう。
そして私は、どれほど冷静にその二人を
見ればいいのだろう。
夜、亮平からメッセージが来た。
『展示会、無事終わった。
これから懇親会。遅くなると思うから』
私はすぐに返信した。
『お疲れさま。
展示会うまくいったみたいでよかったね。』
数分後、既読がついた。
返事はなかった。
きっと今頃、亮平は上司や取引先に囲まれている。
玲奈は少し離れた場所で控えめに笑っている。
誰かが二人を褒める。
誰かが桐島屋との繋がりを評価する。
その輪の中で、亮平は自分の未来が開けたと思うだろう。
玲奈も、自分がその未来の隣にいると思うだろう。
私はリビングで子どもたちに夕飯を食べさせていた。
美月が聞いた。
「パパ、展示会どうだったかな」
「うまくいったみたいよ」
「じゃあ温泉?」
「パパが帰ってきたら聞いてみようね」
悠真が嬉しそうに笑った。
「バイキング!」
私は笑った。
母親として。
その笑顔の奥で、別の私が南條からの報告を待っていた。
懇親会の報告が届いたのは、二十一時半を過ぎた頃だった。
『懇親会開始。
藤堂氏、営業部長隣。桐島屋常務、同卓。
桐島玲奈は企画担当として同卓内に配置。
社内役員より、藤堂氏と企画側への評価発言あり。』
続いて、音声の一部。
騒がしい宴席の中、部長らしき声が聞こえる。
『藤堂くん、今日はよかったよ。来場者の反応もいい』
『ありがとうございます。企画側の支えも大きかったです』
『桐島さんか。彼女はよく気がつくね』
『桐島屋さんにも良いご縁をいただきましたしね』
桐島宗一郎の声が穏やかに入る。
『玲奈が少しでもお役に立てたなら何よりです』
『恐れ入ります。藤堂課長が丁寧に進めてくださったので』
公の場所では、完璧な距離。
けれど音声の中にある空気は、
ただの仕事仲間以上に滑らかだった。
互いを立てる。
互いを上げる。
周囲に、良い組み合わせだと思わせる。
そこに不倫の匂いはない。
むしろ、清潔すぎるほどだった。
南條から追加のメッセージが来る。
『協力者所感。
二人は公の場では距離を守っている。
ただし視線の交換が多い。
桐島玲奈は藤堂氏が評価されるたびに、
かなり嬉しそうな反応を見せている。
周囲には信頼関係のある上司と部下に見える程度。』
信頼関係のある上司と部下。
その仮面が、今は二人を守っている。
その仮面の下で、玲奈は昨夜も自分の部屋に迎え入れた。
亮平はその口で、玲奈に帰りたい場所と言った。
そして家では、子どもたちに温泉を約束した。
私は音声を保存した。
今日の懇親会では、まだ何もしない。
まだ亮平は昇進していない。
まだ玲奈は選ばれたと思い込みきっていない。
まだ会社は、二人を完全に持ち上げきっていない。
もう少し。
まだ登らせる。
古いスマホが震えた。
今度は白い花のアイコンだった。
『高瀬さん。
今日、彼がすごく評価されていました。
私もその隣にいられてとても幸せでした。
終わった後、彼が私のおかげだと言ってくれました。
それがとても嬉しかった。私、彼を信じたいです。』
私は、その文面を見つめた。
玲奈は今、酔っている。
展示会の成功。
周囲からの評価。
桐島屋の看板。
亮平の言葉。
すべてが、彼女に都合よく重なった夜。
信じたい。
その言葉は、女を一番深い場所へ沈める。
私は返信しなかった。
今夜の玲奈には、言葉を与えない方がいい。
酔わせておけばいい。
信じたいだけ信じればいい。
その夢が大きいほど、落ちた時の痛みは深くなる。
リビングの時計は、二十二時を回っていた。
子どもたちは眠っている。
亮平はまだ帰らない。
私は窓に映る自分の顔を見た。
普通の妻の顔だった。
何も知らず、夫の帰りを待つ女の顔。
その顔のまま、私は古いスマホのフォルダを開いた。
展示会写真。
懇親会音声。
桐島屋常務との会話。
社内評価。
玲奈のDM。
フォルダに入れる。
亮平と玲奈は、きっと成功したと思っている。
でも、私にとっては違う。
今日という日は、二人が自分たちの秘密を
会社の評価の中に入れた日だ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでも心に残るものがありましたら、リアクションや評価のお星様をポチッと押していただけますと、飛び跳ねて喜びます。




