第二十五章 2つの未来
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夕方、南條から連絡が入った。
本日、亮平氏と桐島玲奈、退勤後に接触の可能性あり。
会社付近で確認します。
予想通りだった。
私はスマホを伏せ、夕飯の準備を始めた。
玉ねぎを切る。
にんじんを切る。
肉を炒める。
家庭は止まらない。
夫が外で愛人にどんな約束をしていようと
子どもたちはお腹を空かせて帰ってくる。
宿題はある。
洗濯物は乾く。
子供達の準備もある。
明日の持ち物も揃えなければならない。
亮平は、その当たり前を利用していた。
私が家を回すことを前提に
外で別の女へ未来を語っている。
なら私は、この家をいつも通り回しながら
亮平の外側を壊す。
子どもたちには悟らせない。
食卓は乱さない。
笑顔も、会話も、いつも通りにする。
その静けさの下で、証拠だけが積み上がっていく。
夜七時前、亮平からメッセージが来た。
『今日、少し遅くなる。部長たちと軽く飲む。』
部長たち。
便利な言葉だ。
私は返信した。
『わかった。気をつけてね。』
送信したあと、スマホを伏せた。
軽く飲む。
その店にいるのは、部長ではない。
きっと、白い花の女だ。
二十二時過ぎ。
子どもたちが眠ったあと、南條から音声が届いた。
亮平氏と桐島玲奈、ワインバーにて接触確認。
協力者が近席に入り、音声一部取得。
後半、店を出たため追跡継続中。
後半、店を出た。
私はリビングの照明を落とし、ソファに座った。
南條から届いた音声ファイルを再生する。
店内のざわめき。
グラスの触れる音。
遠くの笑い声。
その中に、玲奈の声が入っていた。
『この前、ちゃんと考えるって言ってくれましたよね』
亮平の声が低く返る。
『言ったよ』
『昇進したら、状況を変えるって』
『うん』
私は息を止めた。
亮平は否定しなかった。
玲奈が続ける。
『私、信じていいんですか』
少しの沈黙。
亮平の声が、いつもより柔らかくなった。
『玲奈のこと、遊びでこんなに続けないよ』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
遊びでこんなに続けない。
なんて便利な言葉だろう。
遊びではないと言いながら、責任は取らない。
本気だと言いながら、家には帰る。
未来を匂わせながら、今は動かない。
亮平は玲奈を繋ぎ止める言葉を知っている。
玲奈の声が小さくなる。
『でも、奥さんのところに帰るじゃないですか』
『帰らないとね。帰らないと勘繰られるだろ?
今は仕方ない』
『いつまでですか』
亮平はすぐには答えなかった。
その沈黙に、玲奈の不安が滲んだ。
『また、そうやって曖昧にするんですか』
グラスが置かれる音。
亮平の声が少し低くなる。
『曖昧にしてるんじゃない。順番を間違えられないんだよ』
順番。
私は目を細めた。
玲奈が聞く。
『順番?』
『展示会を成功させる。内示を受ける。来期の体制が固まる。その後じゃないと、今動いたら全部ダメになる』
亮平の声には、焦りではなく計算があった。
ただ逃げている男の声ではない。
玲奈に未来を見せながら、自分に都合のいい時期まで待たせる男の声。
『全部って、仕事のことですか』
『仕事もある。でも、それだけじゃない』
玲奈が黙る。
亮平は続けた。
『子どものこともある。いきなり話して傷つけるわけにはいかない。だから準備がいる』
子ども。
また、あの子たちを使う。
私はスマホを握る手に力が入った。
玲奈が小さく言った。
『準備って、本当にするんですか』
亮平の声が甘くなる。
『するよ』
『何を?』
『まず、家の中の空気を変える。少しずつ距離を作る。いきなり離婚だなんて言ったら、紗季も感情的になるだろ』
紗季。
自分の名前が、録音の中で聞こえた。
私は背筋が冷えるのを感じた。
亮平は、私のことを話している。
私が感情的になる、と。
何も知らず家にいる妻として。
『奥さん、感情的になる人なんですか』
玲奈の声には、少し探るような響きがあった。
亮平は短く笑った。
『普段はそうでもない。でも、子どものことになるとね』
嘘ではない。
けれど、その言い方が許せなかった。
まるで私が、話の通じない母親であるかのように。
まるで自分は冷静に未来を考えている男であるかのように。
玲奈は少し黙ってから言った。
『私、奥さんを傷つけたいわけじゃないんです』
その言葉に、思わず唇が歪んだ。
今さら。
亮平は優しく答えた。
『わかってる』
『でも、私だけがずっと待ってるのはつらいです』
『待たせてごめんな』
亮平の声が、さらに低く甘くなった。
『俺が帰りたい場所は、もう玲奈のところだよ』
空気が止まった。
私はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。
俺が帰りたい場所は、もう玲奈のところ。
亮平。
あなたは、そこまで言うのか。
今朝、悠真の頭を撫でていたその手で。
昨日、美月に展示会が終わったら温泉行こうと言ったその口で。
私の作った夕飯を食べながら落ち着いたら家族で出かけようと笑ったその顔で。
愛人には、帰りたい場所だと言うのか。
玲奈の声が揺れた。
『本当に?』
『本当だよ』
『じゃあ、昇進したら……』
『内示が出たら、まず話す』
『奥さんに?』
『うん』
『ちゃんと?』
『ちゃんと話す。今のままではいられないって』
私は、ゆっくり息を吐いた。
今のままではいられない。
その言葉が、こちら側にも届いた。
亮平はさらに続けた。
『ただ、俺にも立場がある。揉め方を間違えたら、玲奈にも迷惑がかかる。会社にもいられなくなるかもしれない。そうなったら、二人の未来もなくなる』
二人の未来。
玲奈が息を呑む音がした。
『二人の未来って、考えてくれてるんですか』
『考えてるよ』
『どんなふうに?』
亮平は少し間を置いた。
その間が、うまかった。
すぐ答えないことで、言葉に重みを持たせる。
玲奈が欲しがっている言葉を、少し遅れて与える。
『すぐに一緒に住むとか、そういう軽い話じゃない』
『はい』
『ちゃんと順番を踏む。まず別居の形を作る。子どものことを整理する。会社では、俺と玲奈が今後も仕事を続けられる形を考える』
『私、会社辞めた方がいいですか?辞めても大丈夫です』
『今は辞めなくていい。今、辞めたらかえって不自然だろ』
亮平は冷静だった。
玲奈を安心させながら、自分の立場も守っている。
『じゃあ、私はどうしたらいいんですか』
『今は、展示会を成功させることだけ考えて。玲奈の力が必要なんだ』
力が必要。
玲奈はその言葉に弱い。
録音の向こうで、彼女の声が少し柔らかくなった。
『私が、必要ですか?私の事大事ですか?』
『必要だよ。大事に思ってる。仕事でも、それ以外でも』
吐き気がした。
この男は、どれだけ言葉を使い分けるのだろう。
家では、私に助かると言う。
子どもにはパパ頑張ると言う。
会社では、部下に期待してると言う。
玲奈には必要だと言う。
全部、相手をその場所に留めるための言葉。
玲奈が小さく言った。
『私、待ってていいんですね』
亮平の声が、甘く沈む。
『待たせてごめん。でも、ちゃんと迎えに行く』
迎えに行く。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて割れた。
玲奈は黙っていた。
泣いているのかもしれない。
亮平は続けた。
『昇進が決まったら、まず玲奈に一番に言う』
『約束ですか』
『約束』
『奥さんより先に?』
一瞬の沈黙。
亮平は、その沈黙を甘く塗りつぶすように言った。
『玲奈に先に言う』
「ははっ‥」
私は、暗いリビングでひとり、笑った。
声は出なかった。
でも確かに、笑った。
吐き気がする。
奥さんより先に。
妻より愛人を優先する言葉。
玲奈にとっては幸福な約束。
亮平にとっては、その場を乗り切るための餌。
私にとっては、十分すぎる証拠。
録音の中で、椅子が動く音がした。
玲奈が小さく言う。
『今日、もう少し一緒にいたいです』
亮平は低く返した。
『少しだけなら』
『少しだけじゃ嫌です』
沈黙。
その沈黙の後、亮平がため息混じりに笑った。
『わかった。場所、変えよう』
音声はそこで切れていた。
私はしばらく、スマホを握ったまま動けなかった。
場所を変える。
その先がどこか、聞かなくてもわかる。
数分後、南條から追記が届いた。
二人は店を出た後、タクシーに乗車。
桐島玲奈のマンション方面へ移動中。
追跡継続します。
私は画面を見つめた。
亮平は今日、玲奈に未来を与えた。
帰りたい場所。
内示が出たら話す。
別居。
二人の未来。
迎えに行く。
奥さんより先に言う。
そのすべてを口にしたあと、玲奈の部屋へ向かっている。
一方で、家では家族旅行の話をした。
展示会が終わったら温泉に行こう、と。
亮平は、二つの未来を同時に約束した。
玲奈には、妻と別れる未来を。
私には、家族で続いていく未来を。
どちらも本当ではない。
本当なのは、亮平が自分だけを守ろうとしているということ。
私は立ち上がり、子どもたちの寝室を覗いた。
美月は布団を少し蹴って眠っていた。
悠真はお気に入りのぬいぐるみを抱えている。
二人の寝顔を見た瞬間、怒りが静かに形を変えた。
これは、私だけの問題ではない。
この子たちの父親が、外で何を約束しているのか。
この子たちの生活を、どれほど軽く未来の交渉材料にしているのか。
私は寝室の扉を静かに閉めた。
リビングに戻り、南條へ返信する。
追跡お願いします。
可能な範囲で、マンション出入りの記録を。
少し置いて、もう一通送った。
亮平の昇進関連の情報も、次の段階へ進めたいです。
展示会、内示、来期体制。会社側の動きを確認してください。
送信したあと、私は暗い窓に映る自分を見た。
藤堂紗季の顔が、ぼんやりとそこにあった。
もう、泣いている女の顔ではなかった。
亮平。
あなたは高く登ろうとしている。
玲奈に手を引かれ、会社に評価され
家庭には何も知らない妻を置いて。
二つの未来を両手に持って
自分だけが落ちないと思っている。
でも、覚えておいて。
両手に持ちすぎた人間は、崩れる時に何も掴めない。
あなたが玲奈に渡した約束も、
私に見せた家族の夢も、
子どもたちを理由にした保身も、
昇進前の慎重な計算も。
全部、私が受け取った。
次は、あなたの足元を崩す番だ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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