第二十六章 嘘を重ねる夫
※不定期更新です♪
応援や評価していただけるとやる気が満ち溢れて
更新早くなります笑
南條から次の報告が届いたのは
深夜一時を過ぎた頃だった。
リビングの照明は落としていた。
子どもたちは眠っている。
家の中は静かで、冷蔵庫の低い音だけが
妙に大きく聞こえた。
古いスマホが震えた。
亮平氏と桐島玲奈
二十三時四十七分、桐島玲奈自宅マンションへ入室確認。
二時三十二分、亮平氏単独で退室。
写真、時刻記録あり。
続いて、数枚の写真が送られてきた。
タクシーを降りる二人。
玲奈のマンションのエントランスへ向かう背中。
少し遅れて、亮平が周囲を確認するように顔を上げている写真。
そして二時三十二分、同じエントランスから出てくる亮平。
写真の中の夫は、知らない男のようだった。
顔を隠しているわけではない。
慌てているわけでもない。
ただ、用心深く、静かに、夜の中へ出てくる。
それが余計に腹立たしかった。
酔った勢いでもない。
魔が差したわけでもない。
亮平は毎回、考えて行動している。
家に帰ることも。
玲奈の部屋へ行くことも。
子どもたちの父親でいることも。
愛人に未来を囁くことも。
全部、自分で選んでいる。
私はスマホの画面を閉じた。
寝室へ行くと、亮平の側の布団は空だった。
当たり前だ。
その空白を見ても、もう胸は痛まなかった。
代わりに、体の奥底で何かが静かに固まっていく。
愛情が死んだ後に残るものは、虚しさだけではない。
亮平が帰ってきたのは、3時を少し過ぎた頃だった。
玄関の鍵が、慎重に回る音がした。
私は寝室で目を閉じていた。
眠っているふりをするのは、もううまくなっていた。
廊下を歩く足音。
洗面所の扉。
水の流れる音。
シャワーの音。
亮平は必ず、帰宅後にシャワーを浴びる。
以前なら、会食で煙草の匂いでもついたのだろうと
思っていた。
今は違う。
玲奈との匂いを消している。
玲奈の部屋の匂いを落としている。
玲奈に触れた手を洗っている。
玲奈と過ごした時間を、家庭へ持ち込まないようにしている。
それは気遣いではない。
証拠を消す習慣だ。
しばらくして、亮平が寝室へ入ってきた。
布団が沈む。
彼は小さく息を吐いた。
「うぅん」
私が寝ぼけた声で言うと、亮平は一瞬止まった。
「起こした?」
「今かえったの?大丈夫。遅かったね‥」
「うん。部長たちと。展示会前だから、いろいろ話が長くて」
部長たち。
その言葉は、今日も便利に使われた。
私は目を閉じたまま言った。
「お疲れさま、おやすみ」
亮平は少し安心したように、布団に入った。
「ありがとう」
その声に、私は吐き気に似た怒りを覚えた。
何に対するありがとうなのだろう。
嘘を信じてくれてありがとう。
帰る場所を守ってくれてありがとう。
子どもたちを寝かせ、家の電気を消し
なにも聞かずにいてくれてありがとう。
ふざけるな。
私は暗闇の中で、目を開けた。
隣で眠ろうとする夫の気配を感じながら
心の中で静かに言った。
あなたが帰ってきたこの家は、もう安全な場所ではない。
あなたが眠っているこの布団のすぐ横で
私ははあなたに復讐の準備をしている。
翌朝、亮平はいつもより少し遅く起きた。
けれど、父親の顔は崩さなかった。
「悠真、パン焦げるぞ」
「パパ取って!」
「自分で取れるだろ」
笑いながら、亮平はトースターからパンを出した。
「パパ、展示会終わったら本当に温泉?」
「行けたらな」
「行けたら、じゃなくて。約束したじゃん」
美月の声には、子どもらしい不満が混じっていた。
亮平は苦笑した。
「わかった。ちゃんと考えるよ」
ちゃんと考える。
玲奈にも同じような言葉を使った。
昇進したら、ちゃんと考える。
内示が出たら、ちゃんと話す。
家族旅行も、離婚話も、同じちゃんとの中に放り込む。
この男にとって、約束とは何なのだろう。
その場にいる相手を安心させるための、柔らかい嘘
相手が気づかなければいいと思っている嘘。
悠真が明るく言った。
「バイキングのところがいい!」
「はいはい」
亮平は笑った。
その笑顔を見ながら、私は味噌汁をよそった。
手元は震えなかった。
不思議なほど、私は落ち着いていた。
怒りが深すぎると、表面は静かになる。
昼前、高瀬律子のアカウントにDMが届いた。
白い花のアイコン。
私は薬局の休憩室で画面を開いた。
『高瀬さん、昨日はありがとうございました。
あのあと、彼と話しました。
ちゃんと聞いてみました。
昇進が決まったら、私に一番に言うって。
その後、今のままではいられないって話すって
言ってくれました。私、信じてもいいんでしょうか。』
信じてもいいんでしょうか。
信じてもいいんですか?知らないわよ。
私は画面を見つめた。
玲奈の文面には、昨夜の余韻が残っていた。
不安。
期待。
勝ち誇りたい気持ち。
でも、まだ確信できない弱さ。
亮平は、玲奈に十分な餌を与えた。
帰りたい場所。
迎えに行く。
奥さんより先に言う。
二人の未来。
玲奈はそれを信じたい。
でも信じ切れない。
だから高瀬律子に確認している。
妻に向かって、夫の愛人が聞いている。
私、信じてもいいんでしょうか。
私は古いスマホをテーブルに置いた。
指先が冷たかった。
今すぐ打ち返したかった。
信じればいい。
そしてもっと深く沈めばいい。
その男はあなたも私も騙している。
あなたが掴んだ未来は、私が壊す
でも、律子はそんなことを言わない。
私は御影に文面を共有した。
数分後、返信が来る。
『肯定しすぎない。
彼女は今、舞い上がっている。
祝福すると依存が強くなりすぎる。
ただし、不安を現実確認へ向ける。
言葉を記録する。期限を見る。行動を待つ。の三点。』
私は、その助言を高瀬律子の声に変えた。
『話せたんですね。
大きな一歩だったと思います。
ただ、信じるかどうかを今すぐ決めなくても
いいと思います。
大切なのは、その言葉のあとに現実がどう動くかです。
いつ、何を、どんな形で変えるのか。
ご自分を守るためにも、曖昧な約束だけで
苦しくならないようにしてくださいね。』
送信したあと、私は深く息を吐いた。
玲奈はこれで、さらに亮平へ求める。
言葉だけでは足りない。
期限が欲しい。
行動が欲しい。
奥さんへ話す日を決めてほしい。
それは、亮平にとって最も厄介な要求になる。
亮平は玲奈を失いたくない。
でも家庭も、昇進も、会社の立場も失いたくない。
だから必ず、さらに嘘を重ねる。
嘘は、増えれば増えるほど取り返しがつかなくなる。
午後、南條から別の報告が届いた。
会社側の動きに進展あり。
展示会の招待リストに
桐島屋関連会社および桐島家関係者の名前を確認。
桐島玲奈が営業企画側で調整に深く関与している様子。
藤堂亮平氏の評価案件と重なっています。
私は文面を読んで、手を止めた。
桐島屋。
玲奈の実家筋。
創業百年以上の老舗。
呉服、婚礼衣装、不動産管理、ブライダル関連。
その名前が、亮平の展示会に入っている。
不倫相手としてだけではない。
仕事の評価にも、玲奈の家の看板が絡み始めている。
南條から続けて、清掃スタッフに扮した
協力者の聞き取りメモが送られてきた。
女性社員たちの会話だった。
「桐島さん、藤堂課長の展示会資料ばっかり優先してない?」
「だよね。うちの案件、後回しにされた」
「でも桐島屋の関係者呼べるなら、部長も何も言えないんじゃない?」
「藤堂課長、来期かなり上に見られてるらしいよ」
「桐島さんも一緒に評価される流れでしょ。うまいよね」
「男の上司には控えめに見せるの、本当に上手い」
私は何度も読み返した。
玲奈は、ただ待っている女ではない。
亮平の昇進に関わっている。
桐島家の名前を、展示会の価値として差し出している。
自分の立場も、亮平の評価も、同時に上げようとしている。
恋だけではない。
利益がある。
玲奈にとって亮平は、好きな男であり勝ち取りたい男
であり、自分の価値を証明する舞台でもある。
亮平にとって玲奈は、愛人であり、部下であり
昇進に役立つ駒でもある。
お互いに欲しいものが一致している。
その汚さが、少しずつ形を持ち始めた。
私は南條へ返信した。
『桐島屋関連の招待状、資料、社内メールの流れを
可能な範囲で確認してください。
亮平の昇進評価に、玲奈や桐島家が
どう関わっているか知りたいです。』
すぐに返事が来た。
『了解しました。
社内協力者経由で確認します。
ただし、会社絡みは慎重に進めます。』
その言葉を見て、私は一度目を閉じた。
今、目の前に見えているのは不倫だけではない。
会社。
昇進。
桐島家。
展示会。
評判。
家庭。
すべてが一本の線で繋がり始めている。
亮平と玲奈は、まだ気づいていない。
二人で作った秘密の世界が、会社の明るい場所へ
少しずつ滲み出していることに。
その日の夜、亮平は珍しく早く帰ってきた。
「今日は家で資料見る」
そう言って、リビングのテーブルにパソコンを広げた。
私は夕飯の支度をしながら、さりげなく画面の方を見た。
展示会資料。
来場者導線。
協賛企業一覧。
招待予定者。
画面が切り替わる一瞬、見覚えのある文字が目に入った。
桐島屋ブライダル事業部
心臓が、一度だけ強く打った。
亮平はすぐに画面をスクロールした。
私は何も言わない。
「かなり大きい展示会なんだね」
そう言うと、亮平は少し得意げに笑った。
「まあね。今回うまくいけば、かなり評価されると思う」
「すごいね」
「企画側も頑張ってくれてるし」
企画側。
また、名前は出さない。
けれどその中に玲奈がいることを、私は知っている。
「桐島屋ってところも関係してるの?」
私は何気ない声で聞いた。
亮平の指が、一瞬止まった。
本当に、一瞬だけ。
けれど私は見逃さなかった。
「ああ、うん。老舗の関連会社。ブライダル系の提案で少し絡む予定」
「有名なの?」
「まあ、この辺ではね。伝統もあるし、上の人たちには受けがいい」
亮平はそう言って、資料へ目を戻した。
声は自然だった。
表情も崩れていない。
けれど、桐島屋という言葉に反応した。
彼にとってそれは、ただの取引先ではない。
玲奈の後ろにある看板だ。
「そういうところと繋がると、亮平の評価にもなるんだ」
私が言うと、亮平は笑った。
「まあ、うまくいけばね」
「頑張ってるんだね」
「今が踏ん張りどころかな」
踏ん張りどころ。
玲奈には、昇進したら迎えに行くと言い、
私には仕事を頑張る夫の顔を見せる。
同じ口が、別々の未来を作っている。
その器用さに、私はもう驚かなかった。
ただ、冷静に記録した。
亮平は、桐島屋が展示会に関係していることを認めた。
今回の展示会が評価に繋がることも認めた。
今が踏ん張りどころだと言った。
この言葉も、いつか使える。
私は微笑んだ。
「応援してる」
亮平は疑いもせず、柔らかく笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見ながら、私は心の中で言った。
応援している。
もっと高く登ることを。
もっと多くの人に見られる場所へ進むことを。
落ちた時に、誰も見ないふりができない高さまで。
翌日、高瀬律子のアカウントに玲奈から再びDMが来た。
『高瀬さんの言う通り、言葉だけじゃなくて行動を
見たいと思いました。
でも、彼にも大事な時期があって、私が急かすことで
壊してしまうのも怖いです。
彼は今、展示会で大きな役割を任されています。
私もその仕事に関わっているので、支えたい気持ちも
あります。
でも、それが私にできることなのか、ただ都合よく
使われているだけなのか、わからなくなります。』
私は画面を見つめた。
玲奈が、自分で言った。
展示会に関わっている。
支えたい。
都合よく使われているのかもしれない。
御影の声が聞こえるようだった。
彼女は、自分が利用されている可能性に気づき始めている。
けれど、その自覚すら可哀想な私に変えられる女だ。
私は返信を考えた。
『支えることと、自分を差し出すことは違います。
相手の大事な時期を尊重することはできますが、そのために桐島さんの不安だけが置き去りになるなら、少し立ち止まってもいいと思います。
仕事の中で必要とされていることと、個人的な関係で大切にされていることは、同じではないかもしれません。』
送信する。
数分後、玲奈から短い返事が来た。
その言葉、今すごくわかります。苦しいですね。
でも、たぶん見ないといけないことなんだと思います。』
苦しい。
彼女はそう書いた。
私はその文字を見ながら、静かに思った。
苦しいのは、あなたが傷ついているからではない。
こっちはもっと辛く苦しい思いをしている。
その夜、南條から電話があった。
「会社側の件で、少し気になる情報が出ました」
私は洗面所に入り、ドアを閉めた。
「何ですか」
「展示会後に、関係者向けの小規模な懇親会が予定されています。役員、部長クラス、主要取引先、協賛関係者が出るようです」
「亮平も?」
「藤堂氏は出席予定です。桐島玲奈も、企画側担当として同席予定」
私は黙った。
亮平と玲奈が、会社の公の場で並ぶ。
上司と部下として。
展示会成功の中心人物として。
そして、何も知らない周囲の中で、秘密を共有する二人として。
南條は続けた。
「さらに、桐島家側からも出席予定者がいます。玲奈の父親ではありませんが、桐島屋関連会社の役員筋です」
「つまり、玲奈の家の人間が、亮平の評価の場に来る」
「そうなります」
私は洗面台の鏡を見た。
蛍光灯の下の自分の顔は、ひどく静かだった。
「その懇親会、日時は?」
南條が答えた。
展示会当日の夜。
まだ少し先。
でも、そこは大きな舞台になる。
会社。
亮平の昇進。
玲奈の家柄。
二人の関係。
すべてが同じ場所に集まる。
「藤堂さん」
南條の声が少し低くなった。
「ここから先は、会社を巻き込む可能性が高くなります。
動かし方を間違えると、こちらにも跳ね返る可能性がある」
「わかっています」
「切り札は、使う前に持っておくものです」
その言葉に、私は頷いた。
まだ使わない。
まだ壊さない。
もっと集める。
亮平が登りきるまで。
玲奈が自分の家の看板を亮平に絡めきるまで。
二人が、仕事と不倫を綺麗に分けているつもりで
実際には同じ場所へ混ぜ込んでいる証拠が揃うまで。
私は電話を切った。
洗面所の鏡に映る自分へ、静かに呟いた。
「まだよ」
まだ落とさない。
まだ叫ばない。
まだ泣かない。
亮平は今、昇進の階段を上っている。
玲奈はその横に、白い花の顔で寄り添っている。
会社は二人を評価し、桐島家の看板はその場を
飾ろうとしている。
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