第二十二章 カードと本音
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ホテルのラウンジは、午後の光で静かだった。
天井が高く、窓際には柔らかい陽が落ちている。
商談中の男性たち。
アフタヌーンティーを楽しむ女性客。
どこかの会社の上役らしい男女。
その中に、私はいた。
夫の愛人を待つ妻としてではなく、
カードで人の思考を整理する高瀬律子として。
指定された席に座ると、左耳の奥で小さく音が鳴った。
『聞こえますか』
御影千尋の声だった。
私はバッグの位置を直すふりをしてほんの少し顎を引いた。
「表情が硬いです。口元だけ緩めて。目は追わない。相手を待つ人の顔で、自然な感じで」
私はゆっくり息を吸った。
テーブルには、コーヒーカップ。
小さなカードケース。
そして、私の眼鏡越しに御影へ送られている映像。
鷺沼が用意した伊達眼鏡は、見た目には
普通のセルフレームだった。
けれど、その奥では映像と音声が共有されている。
私が見ているものを、御影も見ている。
私が聞いている声を、南條も拾っている。
私は占いなどできない。
カードの意味も、表面的にしか知らない。
けれど今日は、御影の言葉を受け取り律子の声で伝える。
まるで、別の女の言葉を借りて
さらに別の女を演じるようだった。
藤堂紗季。
高瀬律子。
御影千尋。
その三人を使い私は夫の愛人を待っていた。
十五時ちょうど。
玲奈が現れた。
淡いラベンダーのブラウス。
白に近いグレーのスカート。
高めの細いヒール。
髪はゆるく巻かれ、耳元には小さな光。
清楚で、上品で、誰かに大切に育てられた娘のようだった。
その同じ女が、妻子ある男とホテルへ入る。
その同じ女が、録音の中で私を楽な奥さんな呼んだ。
その同じ女が、夫の昇進を待ち、私にとって変わろうとしている。
玲奈は私を見つけると、ほっとしたように微笑んだ。
「高瀬さん」
私は立ち上がった。
「桐島さん。今日はありがとうございます」
「こちらこそ、急にお願いしてすみません」
「大丈夫です。お会いできてよかったです」
声は律子のものだった。
私ではない。
私であってはいけない。
二人で向かい合って座った。
周りから見れば、仕事関係で知り合った女性同士にしか見えないだろう。
少し悩みを抱えた若い女と、それを穏やかに聞く年上の女。
実際は違う。
一人は愛人。
一人は妻。
同じ男にまつわる秘密を持ち
何も知らないふりをして同じテーブルに座っている。
その光景があまりにも滑稽で
私は一瞬だけ笑いそうになった。
知らないのは、玲奈だけだった。
玲奈は紅茶を頼み、私はコーヒーを頼んだ。
店員が去ると、玲奈は少し緊張したように指先を揃えた。
「すみません。本当に、こんなふうにお願いしてしまって」
「気にしないでください」
私は穏やかに返した。
『最初は受け止めるだけ。説明を長くしないで』
御影の声が耳の奥で囁く。
私はそのまま、律子の声に変えた。
「今日は答えを決めるというより、今どこに気持ちが引っかかっているのかを一緒に見ていく時間にしましょう」
玲奈は小さく頷いた。
「はい」
「話したくないことは、無理に話さなくて大丈夫です。カードに出た言葉をきっかけに、思い浮かんだことだけで」
「わかりました」
玲奈はそう言いながら、どこか安心したように目を伏せた。
この女は、責められない場所を欲しがっている。
でも同時に、ただ慰められるだけでは満足しない。
自分の苦しみを、少し深く、少し特別なものとして扱ってほしいのだ。
私はカードケースを開いた。
今日使うカードは、御影が選んだものだった。
絵柄は抽象的で、言葉は短い。
華美なタロットではない。
未来を告げる道具というより、思考を映す小さな鏡のように見える。
私はカードを伏せ、ゆっくり広げた。
『三枚。左から順に、現状、隠れている結びつき、先にある結果として読んで』
御影の声が私の耳に届く
私はそのまま、少し柔らかく言い換えた。
「今日は三枚で見ます。一枚目は今の状況。二枚目は、見えているようで見えていない結びつき。三枚目は、このまま進んだ時に考えるべきことです」
玲奈は息を呑むように、カードを見た。
「選べばいいですか」
「はい。気になるものを三枚」
玲奈の白い指が、カードの上を迷った。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
私は、それを順に開いた。
一枚目。
月。
薄暗い水面に、欠けた月が映っているカードだった。
二枚目。
鎖。
細い鎖が、二つの椅子の脚を繋いでいる絵。
三枚目。
代償。
手のひらから、白い花びらがこぼれ落ちているカード。
玲奈の視線が、三枚の上で止まった。
さっきまで整っていた表情が、ほんの少しだけ揺れた。
『一枚目から。月は隠された関係。曖昧な約束。夜の言葉。相手の言葉を信じているが、昼の現実が追いついていない。そう伝えて』
私は、一拍置いた。
占い師のように断定しすぎない。
高瀬律子として、思考を整理する人として話す。
「一枚目は、月です」
玲奈はカードを見つめた。
「月……」
「月は、はっきり見えているようで、実は水面に映ったものを見ている状態を表すことがあります」
御影の言葉を、私はなぞる。
「言葉はある。気持ちもある。けれど、それが明るい場所に出た時も同じ形で存在できるのかは、まだわからない」
玲奈の指が、紅茶のカップに触れた。
「……明るい場所」
「夜や、二人だけの場所では信じられることが、昼の現実の中では少し違って見える。そういう時に出ることがあります」
玲奈は黙った。
その沈黙に、私は亮平の顔を重ねた。
夜のホテル。
日曜の朝の部屋。
会社帰りのカフェ。
そして家では、父親の顔をした夫。
玲奈が信じている亮平の言葉は、きっと夜の中でだけ甘く響くのだろう。
「何か思い当たる事ありますか?」
「あります。ある人の事で‥」
御影が言う。
『聞いてみて。その人は昼のも夜と同じことをしてくれるか、という形で』
私はゆっくり口を開いた。
「桐島さんは、その方の言葉を信じたい気持ちがあるのかもしれません。でも、カードは少しだけ問いかけています」
玲奈が私を見る。
「問いかけ?」
「その人は、二人だけの時に言うことを、昼でも同じように選んでくれていますか」
玲奈の表情が、そこで初めてはっきり止まった。
ほんの数秒。
けれど私は、その数秒で十分だった。
届いたのではない。
抉ったのだ。
玲奈は小さく笑った。
「……難しいですね」
「難しいですか」
「はい。二人の時は、ちゃんと言ってくれるんです。でも、外では……そういうわけにいかないというか」
外では。
私はその言葉を心の中で拾った。
「外では、立場がある?」
玲奈は少し迷った。
そして、頷いた。
「あります」
『次。鎖へ。仕事か立場か、相手に結ばれている理由を聞いて。感情だけではないはず』
私は二枚目のカードへ視線を移した。
「二枚目は、鎖です」
玲奈は苦笑した。
「すごい言葉ばかり出ますね」
「鎖は、悪い意味だけではありません。つながりです。離れたくても離れられない理由。気持ちだけでなく、立場や役割、仕事、責任のようなものも含みます」
玲奈の肩が、わずかに落ちた。
「……仕事」
その一言が、自然に出た。
私は内心で息を止めた。
御影の声がすぐ入る。
『仕事で会う相手か確認。ただし直接聞かないで。そのつながりは日常の中にもあるのかと』
私はその通りに、律子の言葉で包んだ。
「そのつながりは、桐島さんの日常の中にもあるものですか。たとえば、会おうとしなくても接点があるような」
玲奈は紅茶を見つめたまま、しばらく黙った。
そして、ぽつりと言った。
「同じ会社なんです」
胸の奥で、怒りが音を立てた。
知っている。
知っているけれど、彼女の口から聞くと別の重さがあった。
同じ会社。
上司と部下。
仕事という看板の下に隠された関係。
私は表情を変えなかった。
「そうなんですね」
「だから、完全に離れることもできなくて。仕事では普通に話しますし、周りから見たら本当にただの同僚です」
ただの同僚。
私は心の中で笑った。
ホテルへ入る同僚。
日曜の朝に部屋へ招く同僚。
昇進後を待つ同僚。
便利な言葉だ。
『関係性。上下関係を探って』
御影の声がする。
私はカードを見ながら、自然に尋ねた。
「鎖のカードは、対等なつながりというより、どちらかに少し力がある関係で出ることもあります。桐島さんは、その方の立場を守ろうとしている感覚がありますか」
玲奈の顔が少し変わった。
「あります」
「相手の方は、会社で責任のある立場なんですね」
玲奈は唇を結び、やがて小さく頷いた。
「上司です」
上司
私の夫。
「仕事でも頼られているんですか」
「はい。今、大きな展示会の準備があって。彼にとってすごく大事な時期なんです」
彼。
「大事な時期とは?」
「うまくいけば、評価が変わるかもしれないって」
玲奈は言った。
「彼、本当に頑張っていて。だから今、変なことになったら困るんです」
変なこと。
私に知られることか。
会社に知られることか。
不倫が表に出ることか。
亮平が録音で言っていた言葉が蘇る。
昇進前に揉めたくない。
全部飛ぶ。
玲奈も同じことを知っている。
同じ不安を共有している。
この女は、亮平の昇進まで見据えて待っている。
『ここで責めない。相手のために待っている自分を認めさせる』
私は声を低く、ゆっくり整えた。
「桐島さんは、その人の大事な時期を壊したくないと思っているんですね」
玲奈はすぐ頷いた。
「はい」
「だから、自分の気持ちを後回しにしている」
玲奈の目が少し潤んだ。
「そうです」
本当に被害者の顔をする。
私は心の中で、冷たく見ていた。
後回しにしている?
あなたが?
後回しにされているのは、私たち家族だ。
亮平の都合で。
あなたの恋の都合で。
昇進という餌のために。
でも、私はまだ怒らない。
怒りは、後で使う。
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