第二十章 一通のDM
玲奈と同じテーブルに座った夜
私はほとんど眠れなかった。
勉強会で交わした言葉が、何度も頭の中で再生される。
「高瀬さんの言葉って真っ直ぐですね」
「カードを使った思考整理って何ですか?」
「私、そういうの好きです。占いも大好きです」
まだ、玲奈は何も話していない。
亮平の名前も出していない。
既婚者という言葉も、不倫という言葉も
妻という言葉も、何ひとつ口にしていない。
それでも私にはわかる。
あの女は、私を見た。
そして、興味を持った。
高瀬律子という存在を、ただの勉強会の参加者ではなく
少し気になる相手として認識した。
自分を責めない人間。
自分の言葉を綺麗に受け止めてくれる人間。
優しいだけではなく、どこか奥の方まで
見てくれそうな人間。
玲奈は、そういう相手を探していたのだと思う。
都合のいい友人では物足りない。
はっきり悪いと言われるのは嫌。
でも、自分の抱えているものを誰かに聞いて欲しい。
特別な苦しみとして扱ってほしい。
本当に浅ましい人間
夫の愛人が、妻に救いを求めようとしている。
玲奈は知らない。
自分が近づいている相手が
今まさに自分が踏みにじっている
家庭の中にいる女だということを。
その滑稽さに、私は笑いそうになった。
そして同じくらい強い憤りを感じた。
亮平も、玲奈も、私をなんだと思っているのだろう。
家を守るだけの女。
何も考えていない能天気な女。
子どもの予定に追われて、夫の浮気など気づかない女。
自分たちの恋の邪魔になる、名前のない妻。
ふざけるな。
馬鹿にするな
私は布団の中で、隣に眠る亮平の背中を見ていた。
この男が、玲奈に何を言ったのか私は知っている。
「紗季とはもう終わっている」
「子どもがいるから」
「あいつは家のことで頭いっぱいだから」
家のこと。
その家であなたは眠っている。
その家で子どもたちは育っている。
その家で私は、あなたの嘘に気づかないふりをしている。
あなたが軽く見たものを、私は毎日抱えてきた。
だから壊すなら、静かに壊す。
あなたたちが上等な恋だと思い込んでいるものの下に
どれだけ醜い欲や犠牲が沈んでいるのか、
必ず本人たちの口で語らせてやる。
翌日の昼、麻衣の家で
私は高瀬律子の次の投稿を考えていた。
前日の勉強会で、玲奈は名刺の裏に書いた一文に反応した。
カードを使った思考整理も行っています。
なら、その導線を自然に育てる必要がある。
いきなりカードを見ますと書けば、不自然になる。
高瀬律子は占い師ではない。
未来を言い当てる女でもない。
彼女は、言葉を整える人。
相手の中にあるものを
その人自身が見つける手伝いをする人。
そこを崩さず、玲奈が自分から触れたくなる言葉を置く。
麻衣がノートを覗き込んだ。
「今日はカードの話?」
「うん。でも占いっぽくしすぎない」
「玲奈が見た時に、名刺に書いてあったやつだって思うくらい?」
「そう。それ以上はこっちから押さない」
私はいくつか書いた。
カードは未来を当てるものではなく
自分の内側を見るためのもの。
なんか説明っぽい。
迷った時、一枚の言葉が自分の本音に触れることがある。
少し綺麗にしすぎている。
カードは答えではなく問いだと思っています。
自分が何を見ないようにしているのか
静かに映してくれることがある。
麻衣がそこで指を止めた。
「これが良くない?」
「強すぎない?」
「強いけど、恋愛にも仕事にも読める。玲奈は勝手に自分を重ねるんじゃないかな?」
「なら、これでいこう」
写真は、麻衣の家のテーブルで撮った。
カードの絵柄は、はっきり写さない。
伏せたカードを数枚、ノートの端に置くだけ。
背景には何も入れない。
場所も時間も特定できない。
文章を添える。
カードは答えではなく、問いだと思っています。
自分が何を見ないようにしているのか
静かに映してくれることがある。
投稿ボタンを押した。
高瀬律子は、また一歩、玲奈の視界の中へ進んだ。
その夜、玲奈からの反応はなかった。
私は何度も確認したい気持ちを押し込め
いつも通り夕飯を作った。
亮平は帰宅してすぐ、スマホを何度か見ていた。
「忙しそうだね」
私が言うと、彼は顔を上げた。
「展示会の確認。企画側から修正入ってて」
企画側。
玲奈のいる部署。
彼はもう、個人名を出さない。
以前のように小さな綻びを見せない。
この男は愚かではない。
だからこそ、余計に腹が立つ
何もわからずに浮ついている男なら
まだ軽蔑だけで済んだかもしれない。
でも亮平は違う。
家庭では妻を安心させる言葉を選び
会社では玲奈との距離を整え、外では恋人のように
振る舞い、昇進の話になれば立場を守る。
自分に必要なものを、全部手放さずに済むと思っている。
その欲深さを、私は絶対に許さない。
「大変だね」
私は味噌汁をよそいながら言った。
「まあ、あと少しだから」
あと少し。
亮平の声には期待が混じっていた。
昇進まで。
展示会まで。
玲奈が信じている未来まで。
私は微笑んだ。
「頑張ってね」
亮平は疑いもせずに笑った。
「ありがとう」
その顔を見た瞬間、胸の奥で怒りが硬く固まった。
ありがとう?
あなたが感謝している私は
もうあなたの味方ではない。
翌日の昼、薬局の休憩室で古いスマホを開くと
通知が来ていた。
白い花のアイコン。
玲奈からのDMだった。
指先が一瞬止まる。
画面を開く。
高瀬さん、先日はありがとうございました。
昨日のカードの投稿を拝見しました。
名刺にも書かれていたので少し気になっていて……。
もしご迷惑でなければ、少し見てもらう事出来ますか?
私は、ゆっくり息を吐いた。
来た。
玲奈は、扉の前に立った。
「一枚だけ占ってください」ではない。
「深刻な相談があります」でもない。
少し見てもらう事出来ますか?
控えめで、逃げ道を残した言い方。
断られても傷つかない形。
受け入れられたら、少しだけ特別な場所へ入れる形。
玲奈らしい。
自分から欲しがっているのに
欲しがっていないように見せる。
重い女だと思われたくない。
けれど、軽く扱われるのも嫌。
私はすぐには返さなかった。
占いなど、本当はできない。
カードの意味を少し調べ、それらしい言葉を返すことはできる。けれど玲奈のような女は、浅い言葉にすぐ飽きる。
彼女は人の顔色を読む。
自分に向けられた言葉が、慰めなのか、観察なのか
表面だけの優しさなのかを嗅ぎ分ける。
ここで薄いことを言えば終わる。
必要なのは、本物の読み手だった。
さて、ここからどうするか
その日の午後、南條に相談した。
玲奈からのDMを見せると、彼はしばらく黙っていた。
「この段階で来ましたか」
「はい」
「藤堂さんは、カードの読みはできないんですよね」
「できません」
正直に答えた。
南條は少し考えたあと、ひとりの名前を出した。
「御影千尋という人がいます」
「占い師ですか」
「本人はそう名乗りません。企業向けのマインドコーチです。管理職研修や女性向けキャリア講座もしています。
カードを使う事ができます。未来を当てるというより人の言葉の奥を拾う人です」
麻衣が隣で聞いていたら、きっと都合よすぎない?と言うだろう。
でも南條の説明には妙な現実味があった。
調査の世界では、人の本音を引き出す専門家が必要になることがある。
嘘を暴く人。
沈黙を見る人。
言葉にする前の反応を拾う人。
南條がそういう協力者を持っていることは、
不自然ではない。
「会えますか」
私が聞くと、南條は頷いた。
「連絡してみます。」
そこで私は、もう一つ言った。
「対面になった時の機器はこちらで心当たりがあります」
南條が顔を上げる。
「心当たり?」
「昔の同僚に機器に詳しい人がいます」
白い粉の件で連絡した相手。
余計なことを聞かず、事実だけを返す男。
私が結婚前にいた世界の、まだ消えていない繋がり。
「彼は電子機器にも強い。現場映像を共有できる眼鏡型の機材や、音声のバックアップ、小型のイヤホンの相談ができるかもしれません」
南條は静かに頷いた。
「では、そちらは藤堂さんから」
「はい」
私はその場で古いスマホを開いた。
鷺沼宛に短く送る。
森下紗季です。
個人的な件で、映像共有可能な眼鏡型機器と
小型イヤホンについて相談したいです。
詳細は直接話します。可能ですか。
送信したあと、指先が少し震えた。
普通の妻だった頃の私は、こんな連絡をしなかった。
でも亮平が、その普通を壊した。
私をここまで追い詰めた。
私を昔の場所へ引き戻したのは、亮平だ。
なら、そこで身につけたものを使うことを
私はもうためらわない。
御影千尋に会ったのは、その翌日だった。
場所は、南條の事務所近くの小さな会議室。
入ってきた彼女は、私が想像していた人とは
まったく違った。
黒髪を後ろで低くまとめ、白いシャツに黒のパンツ。
首元に細いシルバーのネックレス。
爪は短く、色もほとんどない。
香水の匂いもしない。
派手さがない。
神秘的でもない。
けれど、部屋に入った瞬間、空気が少しだけ引き締まった。
南條が紹介する。
「御影千尋さんです」
御影は軽く会釈した。
「御影です」
私は緊張しながら言った。
「藤堂紗季です」
御影は、私の顔をまっすぐ見た。
同情でも、興味本位でもない目だった。
「大まかな話は南條さんから聞いています」
「占いは、正直あまり信じていません」
思わずそう言っていた。
御影は少し笑った。
「信じなくていいです。信じる人の方が、見たいものしか見なくなることがあります」
その一言で、私は少し警戒が緩んだ。
御影は席に座ると、玲奈からのDMを読んだ。
そして、しばらく黙った。
「この人は、罪悪感を消したいわけではありませんね」
最初にそう言った。
「どういうことですか」
麻衣がいれば、きっとそう聞いただろう。
実際に聞いたのは私だった。
御影は画面を指で示した。
「罪悪感を持っている自分を、美しく扱ってほしい人です」
御影は続けた。
「悪いことをしている自覚はある。でも、自分を悪人として見られるのは耐えられない。だから苦しんでいる私という場所を探している」
「DMだけで、そこまでわかるんですか」
「文面そのものより、逃げ方です」
御影は淡々と言った。
「少し見てもらう事出来ますか?
この人は、最初から深刻な相談とは言わない。軽く見せている。でも軽く扱われたいわけではない。断られた時に自分を守る余白を残しながら、受け入れられたら特別に扱われたい」
私は何も言えなかった。
玲奈の輪郭が、さらに濃くなっていく。
清楚なお嬢様。
会社では有能で控えめな女性。
女性社員からは嫌われ、男性社員からは庇われる女。
亮平には奥さんに負けたくないと甘え、私には少し見てもらう事出来ますか?と控えめに近づく女。
どこまで自分に都合のいい顔を持っているのだろう。
怒りで拳をグッと握った。
玲奈。
あなたは苦しんでいる女ではない。
苦しんでいる自分を利用して、人の家庭へ入り込んだ女だ。
それを、私は必ずあなた自身の言葉で出させる。
御影は小さなカードの束を取り出した。
「まず、DM上では深く入りすぎない方がいいです」
「はい」
「相手は少しと言っています。なら、こちらも少しだけ見せる。重くしない。ただし、次を望む程度には残す」
御影はカードを混ぜ、一枚を引いた。
黒い仮面を持った手の絵。
下に小さく、
仮面
と書かれている。
私は息を止めた。
御影は表情を変えなかった。
「この人には合いますね」
「それを伝えるんですか」
「そのままでは強すぎます。少し柔らかくします」
御影はゆっくり言葉を組み立てた。
「今の桐島さんは、自分がどう見られるかを守ろうとしている気配があります。ちゃんとしている人でいたい。悪い人には見られたくない。その気持ちは自分を守るものでもありますが、本音を少し遠ざけることもあります」
私は黙って聞いた。
玲奈に届く言葉だった。
ただし、逃げ場を全部塞ぐほどではない。
むしろ、玲奈がわかってもらえたと感じる余白がある。
高瀬律子として、私は返信した。
桐島さん、ご連絡ありがとうございます。
よければ、少しだけ見てみますね。
ただ、カードは未来を決めるものではなく、今どこに気持ちが引っかかっているかを見るためのものだと思ってください。生年月日を教えてください。
数分後玲奈から返事が送られてきた。
少し置いて、もう一通送る。
カードを引いた結果
今回出てきた言葉は「仮面」でした。
もしかすると今の桐島さんは、誰かにどう見られるか、ちゃんとしている人でいられているかを、とても気にしているのかもしれません。
その仮面は自分を守るものでもありますが、本音を少し遠ざけることもあります。
送信した。
部屋が静かになる。
五分。
十分。
返信はない。
私は画面を見つめたまま、呼吸を浅くしないようにした。
麻衣がいれば、きっと強すぎたかなと言っただろう。
でも御影は落ち着いていた。
「考えているだけです」
十五分後、白い花から返信が来た。
びっくりしました。
まさに今、そこに引っかかっている気がします。
私、ちゃんとしている人でいたいんです。
でも、本当は全然ちゃんとしていないのかもしれません。
私は画面を見つめた。
玲奈が、一歩出た。
ちゃんとしている人でいたい。
でも、本当は全然ちゃんとしていないのかもしれない。
その通りだ。
あなたはちゃんとしていない。
妻子ある男とホテルへ行き、日曜の朝に部屋へ招き
昇進を待ち、妻に勝ちたいと言った。
でも今は、その言葉を飲み込む。
高瀬律子は、ここで裁かない。
御影が短く言った。
「追わないでください」
私は頷いた。
返信する。
そう感じること自体が、ご自分を見ようとしている
証拠だと思います。すぐに答えを出そうとせず
少し時間を置いてみてください。
すぐに返事が来た。
ありがとうございます。
高瀬さんの言葉、すごく落ち着きます。
もしご迷惑でなければ、今度会ってもう少しちゃんと見ていただくことはできますか?
南條は黙って画面を見た。
御影はカードを伏せたまま、静かに言った。
「来ましたね」
私は、しばらく動けなかった。
今度もう少しちゃんと見ていただくことはできますか。
玲奈は、自分から対面の扉を開いた。
私はすぐには返事をしなかった。
頭の中に、一つの光景が浮かぶ。
ホテルのラウンジか、静かなカフェ。
向かい合って座る二人の女。
一人は、夫の愛人。
一人は、その夫の妻。
けれど周りから見れば、ただの知人同士にしか見えない。
仕事で知り合った若い女と、それを穏やかに受け止める年上の女。
紅茶を飲みながら、カードを見て静かに言葉を交わす二人。
その図が、あまりにも滑稽だった。
夫を挟んで同じ男を見ている二人が
何も知らない顔で同じテーブルに座る。
いや、知らないのは玲奈だけだ。
私は知っている。
玲奈が何をしてきたのか。
どんな声で奥さんに負けたくないと言ったのか。
私の家庭をどんなふうに見下していたのか。
亮平がどんな顔で嘘を重ねているのか。
そのすべてを知った上で、私は高瀬律子として
微笑むことになる。
胸の奥で、怒りがゆっくり形を変えた。
熱ではない。
刃物のような冷たさだった。
私は返信を打った。
もちろん大丈夫です。
ただ、少し深く見ていく場合は、
落ち着いた場所の方がいいと思います。
ご都合の合う日をいくつか教えていただけますか。
送信。
数分後、玲奈から候補日が届いた。
私はそれを見て、静かに息を吐いた。
秘密の箱は、もう開きかけている。
次に会う時、玲奈はきっと恋人の話をする。
その恋人が、私の夫だとも知らずに。
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