第十九章 対面
勉強会当日の朝、亮平はいつもより機嫌がよかった。
「今日、午後から部長と少し話すことになってる」
朝食の席で、彼は何気ない調子で言った。
悠真が牛乳を飲みながら顔を上げる。
「パパ褒められるの?」
「ハハ。褒められたら嬉しいな。」
亮平は笑った。
けれど、その笑い方には期待が滲んでいた。
自分では隠しているつもりなのだろう。
「展示会の件?」
「うん。来期の体制の話も少し出るかも」
来期の体制
昇進とは言わない。
けれど本人の中では、もうその言葉が形を持っているのが
わかった。
「そっか。大事な話なんだね」
「まあね」
彼は味噌汁を飲み、少しだけ背筋を伸ばした。
「ここでちゃんと評価されれば、今後いろいろ変ってくるとと思う」
今後いろいろ。
その中に、私と子どもたちは入っているのだろうか。
それとも昇進して立場を固めたあと
都合の悪いものとして捨てる予定なのだろうか。
「いつも大変だね。頑張ってね」
亮平は安心したように笑った。
「ありがとう」
彼は知らない。
自分が会社で高く評価されるために積み上げている
展示会を共に支えている女
その女が今日、私の別の顔と同じ部屋に座ることを。
亮平は上へ行こうとしている。
玲奈はその隣に立とうとしている。
そして私は、その女の隣に立つ準備をしている。
朝の食卓は、いつも通り穏やかだった。
けれど私はもう、その穏やかさを信じていない。
昼過ぎ、私は麻衣の家へ向かった。
藤堂紗季として家を出た。
黒髪を後ろでまとめ、薄いメイク。
薬局へ行く時と変わらない服装。
誰が見ても、どこにでもいる母親の姿。
麻衣のマンションに入り、玄関の鍵が閉まった瞬間
私は深く息を吐いた。
「大丈夫?」
「今のところ」
「怖い?」
「怖い」
「やめる?」
「やめない」
麻衣はそれ以上言わず、客間のドアを開けた。
そこには、今日使うものがすべて並べられていた。
赤みを抑えたダークブラウンのミディアムウィッグ。
自然なブラウンのカラコン。
透明感のあるブラウンのセルフレーム眼鏡。
ブルーグレーのワンピース。
アイボリーのジャケット。
低めのヒール。
小ぶりの革バッグ。
モーヴピンクのリップ。
ウッディで、少し紅茶の甘さを含んだ香り。
そして、名刺入れ。
高瀬律子の名刺には、こう書いてある。
高瀬律子
企画編集・広報支援
言葉の整理/セルフコーチング
裏面の下には小さく一文だけ。
『カードを使った思考整理も行っています』
占い師とは書かない。
カードリーディングとも大きくは書かない。
未来を当てる人ではなく、
カードを通して相手の中にある考えを言語化する人。
そう見えるように整えた。
麻衣は名刺を一枚手に取り、何度も眺めた。
「これ、いいね。」
「本当?」
「うん。怪しすぎない。こう書かれると気になっちゃう」
「玲奈が聞くとしたら、ここ」
「自分から言うより自然だね」
「うん。こっちから見せるのは早い」
「聞かれたら?」
「答える。でも、その場で見ましょうかとは言わない」
麻衣は頷いた。
「今日の目的は?」
「認識されること。話しすぎないこと。
次に繋がる違和感を残すこと」
「玲奈が深い話をしてきたら?」
「初対面に近いから、深く受け止めすぎない」
「亮平さんの名前が出たら?」
「そこまで馬鹿じゃないでしょ。反応しない」
麻衣は私の肩に手を置いた。
「今日は会うだけ、会ってみるだけだよ」
私は頷いた。
「今日は、入口を作るだけ」
「そう」
麻衣は少しだけ笑った。
「行ってらっしゃい、高瀬さん」
変身には四十分かかった。
まずカラコンを入れる。
瞳の輪郭が柔らかくなり
普段の私の目つきが少し遠のいた。
ベースメイクを整える。
眉は柔らかいアーチ。
目元にはモーヴを薄く重ね目尻を横へ流す。
リップは落ち着いたモーヴピンク。
ウィッグを被ると、藤堂紗季は一気に後ろへ下がった。
黒髪を低い位置で結ぶ母親の私。
薬局の受付で笑う私。
子どもたちの宿題を見る私。
その輪郭が、鏡の中で少しずつ消えていく。
最後に眼鏡をかける。
透明感のあるブラウンのセルフレーム。
顔の印象を柔らかく散らす形。
手首に香りを一滴のせる。
高瀬律子が、鏡の前に立っていた。
麻衣が少し離れて確認する。
「大丈夫。紗季には見えない」
「本当に?」
「少なくとも、知らない人が見たら絶対わからない」
「声は?」
私は少し低く、ゆっくり言った。
「高瀬律子です。企画編集と、言葉の整理の仕事をしています」
麻衣は頷いた。
「いい。焦ってない」
私は小さく息を吐いた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
会場は、都心の古いビルを改装したイベントスペースだった。
参加者は数十人ほど。
全員女性。
受付で名前を告げる。
「高瀬律子です」
受付の女性が名簿を確認し、にこやかに名札を渡した。
「高瀬さんですね。SNSでも拝見しています」
心音が高まる
けれど私は、律子の顔で微笑む。
「ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
名札には、
高瀬律子/企画編集・広報支援
と印字されていた。
高瀬律子は、初めて画面の外へ出た。
勉強会は、思っていたより動きのある形式だった。
最初に主催者が説明した。
「今日は固定席ではありません。短いワークごとに席を移動して、いろいろな方と話していただきます。悩みを深掘りするというより、言葉にする練習だと思ってください」
私は内心で少し安心した。
固定席ではない。
それなら、玲奈と最初から同じテーブルでなくても
不自然ではない。
むしろ、何度か席替えがあった末に同じ席になる方が
自然だ。
会場で玲奈を探した。奥の方を見ると
淡い白のブラウス。
グレージュのスカート。
小さなパールのピアス。
髪は低い位置で柔らかくまとめている玲奈を見つけた。
清楚。
上品。
控えめ。
彼女は今日も、そう見えるように完璧に整えられていた。
受付の女性に笑顔で挨拶している。
「今日も楽しみにしていました」
その声は、録音で聞いたものより少し高い。
外向きの声。
誰かを安心させるため。
私はすぐに目を逸らした。
見すぎてはいけない。
高瀬律子は、玲奈を探しに来た女ではない。
一回目のワークでは、私は玲奈と別のテーブルだった。
テーマは
『最近、自分の中で言葉にしづらかったこと』
私のテーブルでは、転職に悩む女性、
親との関係に悩む女性、仕事の評価に納得できない女性
が話した。
私は控えめに頷き、時々短く言葉を返した。
「それは、迷っているというより、疲れているのかもしれませんね」
「答えを出す前に、何を守りたいのか見てもいいかもしれません」
「言葉にすると、少し距離ができますよね」
高瀬律子の言葉。
優しすぎず、冷たすぎない。
相手の感情を受け止めるが、抱え込まない。
玲奈は別のテーブルにいた。
遠くから、時々彼女の声が聞こえた。
「わかります。私も、期待に応えたいと思いすぎて疲れることがあります」
柔らかい声。
周囲の女性が頷いている。
玲奈は、自分を頑張っている人として置くのがうまい。
一回目は、30分ほど話をしてそれだけで終わった。
二回目のワークでは、席替えがあった。
主催者がカードを配る。
カードには一言ずつ書かれていた。
選択
期待
不安
役割
手放す
境界線
私は、境界線を引いた。
玲奈は隣のテーブルに移動していた。
二回目のテーマは、
『今の自分に必要な言葉』
私のテーブルで、一人の女性が言った。
「境界線って、冷たくすることみたいで苦手です」
私は少し間を置いて答えた。
「冷たくすることではなくて、相手と自分の両方を壊さないための線かもしれません」
その女性は、少し驚いたように私を見た。
「そういう考え方、初めてです」
「私も、仕事で人の話を聞くうちに少しずつそう思うようになりました」
その時、ふと視線を感じた。
顔を上げると、隣のテーブルの玲奈がこちらを見ていた。
すぐに視線は外れた。
ほんの一瞬。
でも彼女は、私の言葉を聞いていた。
境界線。
相手と自分を壊さないための線。
玲奈の中に、その言葉がどう落ちたのかはわからない。
けれど、白い服の女が一瞬だけこちらを見たことを
私は覚えておいた。
三回目のワークで、ついに玲奈と同じテーブルになった。
主催者が笑顔で言う。
「次が最後のグループです。今度は、まだ話していない方と同じ席になるように移動してください」
自然な流れだった。
私は立ち上がり、指定された小さな丸テーブルへ向かう。
そこに、玲奈が座っていた。
彼女は私を見て、柔らかく微笑んだ。
「初めまして、桐島です。よろしくお願いします」
この女が夫の浮気相手であり、私と子供を夫と一緒に
騙している女。
一瞬顔が引き攣りそうになるのをやっとの気持ちで抑えた。
「初めまして、高瀬律子です。」
「高瀬律子さん?SNSしてますか?」
「はい」
「私、みてます。そうなんですね。こんな所で会えるなんて嬉しいです」
「そうなんですか?ありがとうございます」
私は律子として、静かに笑った。
玲奈の目が少し明るくなった。
同じテーブルには、ほかに二人いた。
主催者が最後のテーマを告げた。
選んだはずなのに、迷い続けていること
私は心の中で、静かに息を吐いた。
玲奈には、今、現実味のあるテーマだろう。
最初に別の参加者が話した。
仕事を辞めるかどうか。
親元を離れるかどうか。
そして玲奈の番になった。
彼女はカードを見つめ、少し考えるように目を伏せた。
「私は……選んだはずなのに、まだ正しかったのか考えてしまうことがあります」
声は柔らかい。
「仕事でも、人間関係でも。自分で決めたことなのに、誰かを傷つけているんじゃないかとか、でも自分の気持ちを無視するのも違うんじゃないかとか」
他の参加者は、真剣に頷いている。
不倫とはわからない。
恋愛とも言っていない。
けれど、聞く者によっては
何にでも読める言い方だった。
玲奈は言葉の選び方がうまい。
自分を責めているようで、責めきらない。
悪いことをしているとは言わず、
苦しんでいる女として立つ。
私はそれを、静かに聞いた。
主催者が言った。
「自分の気持ちを大事にすることと、誰かを傷つけるかもしれない怖さが両方あるんですね」
玲奈は小さく頷いた。
「はい。でも、誰かを傷つけたいわけじゃないんです」
その言葉に、胸の奥で冷たいものが動いた。
傷つけたいわけじゃない。
そう言えば、傷つけた事実が軽くなるとでも
思っているのか。
でも高瀬律子は、怒らない。
私は少しだけ間を置いて言った。
「傷つけたいわけではなくても、結果として誰かの場所を奪ってしまうことはありますよね」
玲奈の指が、カードの端で止まった。
私は続けた。
「だから、気持ちが本物かどうかだけではなくて、その気持ちのために誰が何を失うのかを見ておくことも、大事なのかもしれません」
空気が、一瞬だけ静かになった。
他の参加者は、深い言葉として受け取ったようだった。
主催者も頷いている。
けれど玲奈だけは、微かに表情を固めた。
本当に微かな変化。
でも私は見逃さなかった。
彼女は、自分の話がどこかで触られたことに気づいた。
しかし、私が何かを知っているとは思わない。
この場のテーマに沿った一般論として聞こえるからだ。
それが必要だった。
玲奈は数秒後、柔らかく笑った。
「高瀬さんの言葉って、真っ直ぐですね」
私は穏やかに返した。
「そうですか?私自身の考えなので」
玲奈は黙った。
そして、小さく頷いた。
勉強会が終わる頃には、参加者同士の名刺交換が始まった。
私からは玲奈へ近づかなかった。
まず、同じテーブルの別の女性と名刺を交換した。
主催者に挨拶し、簡単に感想を伝えた。
玲奈も同じように、周囲へ丁寧に挨拶している。
「今日はありがとうございました」
「すごく考えるきっかけになりました」
「またお会いできたら嬉しいです」
外面は完璧だった。完璧すぎるほど
誰も、彼女を悪い女だとは思わない。
清楚で、礼儀正しく、話を聞くのが上手い。
優しく見える女。
けれど私は、録音の中の声を知っている。
奥さんに負けたくない。
会ってもわからないですよね。
そういうの、ちょっと面白い。
その同じ女が、今ここで丁寧に頭を下げている。
やがて玲奈の方から、私へ近づいてきた。
「高瀬さん」
「はい」
「名刺、いただいてもいいですか?」
「もちろんです」
私は高瀬律子の名刺を差し出した。
玲奈も名刺を出す。
桐島玲奈
営業企画部
夫の不倫相手の名前が、正式な紙の上で私の手に乗った。
私は表情を変えず、丁寧に受け取った。
「ありがとうございます」
玲奈は私の名刺を見つめていた。
表面。
そして裏面。
彼女の視線が、小さな一文で止まった。
カードを使った思考整理も行っています
玲奈が顔を上げる。
「カードを使った思考整理……って、何ですか?」
自然だった。
こちらから言い出したわけでもない。
名刺に小さく書いてある言葉を、玲奈が自分で見つけた。
私は微笑んだ。
「占いのように見えるかもしれませんが、未来を当てるものではないです」
「違うんですか?」
「はい。カードに書かれた絵や言葉をきっかけに、自分が何に引っかかっているのかを整理する感じです。セルフコーチングに近いですね」
玲奈の目に、興味が灯った。
「面白そうです」
「答えを外からもらうというより、自分の中にある答えを見つけるための道具です」
「私、そういうの好きです。占いも大好きです。」
そうだろうと思った。
玲奈のような女は、自分の選択を運命や直感に
置き換える言葉が好きだ。
自分が誰かの家庭へ踏み込んでいるという事実を
もっと綺麗なものへと変換できるから。
「私も見てもらいたいです」
玲奈が言った。
ここで食いついてはいけない。
私は穏やかに返した。
「機会があれば」
「本当に?」
「ええ。でも、カードは答えを決めるものではないので
少し考えを整理するくらいです」
「それでもいいです」
玲奈は名刺を大切そうにしまった。
「高瀬さんって、決めつけない感じがします」
「そう見えますか?」
「はい。今日の言葉も、優しいだけじゃないのに
責められている感じはしませんでした」
私は少しだけ笑った。
「責めるために言葉を使うと、相手は閉じてしまいますから」
玲奈は、静かに頷いた。
「そういう人、周りにあまりいないです」
その一言は、誘い水だった。
私には話を聞いてくれる人がいない
そう言いたいのかもしれない。
でも私は、まだ踏み込まない。
「そう感じる時があるんですね」
それだけ返した。
玲奈は少し物足りなそうに、でも安心したように微笑んだ。
「はい」
会場を出たあと、緊張感からなのか疲れ果てていた。
私はすぐ麻衣に連絡しなかった。
駅のトイレに入り、鏡を見た。
高瀬律子がそこにいた。
玲奈と同じテーブルに座り、玲奈から名刺を受け取り
玲奈にカードの存在を知られた女。
私は鏡の中の律子を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
今日の目的は、秘密を聞き出すことではなかった。
玲奈に次に話す理由を持たせることだった。
私は麻衣の家に戻ってから、紗季に戻った。
ウィッグを外す。
カラコンを外す。
眼鏡を置く。
リップを落とす。
香りを拭き取る。
鏡の中に、藤堂紗季が戻ってくる。
麻衣は私の話を聞き終えると、深く頷いた。
「今回の流れ、いい方向に進んだね。」
「本当?そう思う?」
「うん。同じ勉強会の中で何回か席替えがあって、最後に同じ席。そこから名刺交換。名刺でカードに気づく。これは変じゃない」
「玲奈の方に話してみたいって思わせる段階だね」
私はテーブルに玲奈の名刺を置いた。
桐島玲奈。
その名前を見て、胸の奥に冷たいものが沈む。
「次は、向こうから来るのを待つ」
麻衣が聞いた。
「来ると思う?」
私は少し考えて
「来る」
「どうして?」
「玲奈は、自分を責めない言葉が欲しい。でも、ただ慰めるだけの人には飽きる。律子は、少し痛いところを突く。でも裁かない。ああいう女には、その距離が一番効く」
その夜、家に戻ると、亮平はリビングでスマホを見ていた。
口元が、ほんの少し緩んでいる。
「おかえり」
私が言うと、亮平は顔を上げた。
「どこ行ってたんだっけ?」
「麻衣のところ。少し話してた」
「そっか」
彼はそれ以上聞かなかった。
スマホの画面には、玲奈からのメッセージがあるのかもしれない。
今日、カードで思考整理する人に会いました。
少し不思議で、でも話しやすい人でした
もしそう送っていたとしても、亮平は気づかない。
その高瀬律子が
自分の妻だということに。
私はキッチンへ向かいながら、静かに思った。
玲奈。
あなたはまだ、何も話していない。
それでいい。
秘密は、急にこじ開けるものではない。
あなたが自分から差し出したくなるまで、
私はその箱の前で、静かに待っている。
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