第十八章 申し込み
桐島玲奈は、負ける事が嫌いな女なのだと思った。
正確に言えば
仮に負けた時の見せ方を知っている女だ。
不利になれば傷ついた顔をする。
批判されれば、静かに目を伏せる。
責められそうになる前に、自分を頑張っている側へ置く。
そして周囲が勝手に可哀想と思い彼女を庇う。
だから私は、彼女自身の口から出た言葉を積み上げていかななければならない。
玲奈のような女は、正面から責めても崩れない。
泣く。傷ついた顔をする。
「私も苦しかった」
「知りませんでした。」
「ごめんなさい」
「彼に愛されていると思った」
「奥様のことは知っていたけれど、夫婦関係は終わっていると聞いていた」
と言うのだろう。
きっと、言う。
そして周囲の何人かは、玲奈に同情するだろう。
だから私は、彼女自身の口から言わせる必要がある。
清楚に装い、
「奥さんに負けたくない」
と言った女を。
「面白い」
と笑った女を。
その言葉が、玲奈自身の声であることを、
誰もが知る場面を作らなければならない。
翌日の昼、麻衣の家で白い花のアイコンからの返信を確認した。
南條も、投稿時間、内容、会社での動き、過去のSNS反応を照合した結果
「同一人物の可能性はかなり高い」
と判断していた。
けれど、私たちはまだそれを断定したようには扱わなかった。断定は最後でいい。
今必要なのは、相手にこちらを安全な人間だと思わせること
麻衣は画面を見ながら言った。
「この女、自分からコメントしたね。」
「うん」
「でも、ここからが難しいね。浮気や不倫は簡単に言わないだろうし。」
「そこまで引き出すには、時間がいる」
私は高瀬律子として返信する文章を、ノートに下書きしていた。
「そう感じることがあったんですね。言葉にするだけで、少し整理できることもありますよね。」
「いい。距離がある」
「冷たい?」
「冷たくはない。逃げ道を残してる」
高瀬律子は、手を差し伸べる。でも、引っ張り上げない。
玲奈が自分で近づいてくるようにする。
それが大事だった。
私は返信として、その文章を送った。
すぐには返事は来なかった。それでいい。
玲奈にも生活がある。そしてその生活のどこかに、
私の夫が入り込んでいる。
その日の夕方、南條から新しい報告が届いた。
『展示会プロジェクトに関する聞き取り追加。
桐島玲奈は藤堂亮平氏の担当資料を優先的に処理している模様。他部署女性社員から不満あり。
藤堂氏の昇進推薦に展示会成果が影響する可能性高』
清掃スタッフに扮した協力者が拾った社内の会話
「桐島さん、藤堂課長の案件だけレス早すぎ」
「次長候補って噂あるよ」
「桐島さん、そういうの嗅ぎつけるの早いからね」
私はその文字を読んだ。
玲奈は、亮平を好きだから支えているのか。
それとも、出世する男を選んでいるのか。
たぶん、両方だ。
彼女は恋愛だけで動くほど幼くない。
亮平の昇進は、玲奈にとっても都合がいい。
上に行く男と一緒になる物語は、彼女のプライドを満たす。
老舗の娘。お嬢様大学卒。清楚で有能な企画担当。
未来の次長と結ばれる女その絵は、彼女にとって美しいのだろう。
その絵の外にいる妻と子どもは、不要な背景でしかない。
麻衣がメモを読んで、低く言った。
「この女、自分が主人公だと思ってるね」
「なら、最後まで演じてもらう」
「何を?」
「悲劇のヒロイン。その役が、どれだけ滑稽か見せるために」
その夜、亮平は上機嫌だった。
食卓で、彼はまた仕事の話をした。
「展示会のメイン資料、かなりいい感じになってきた」
「パパが作ったの?」
「パパも作ってるけど、企画の人と一緒にね」
私は味噌汁を口に運びながら聞いた。
「企画の人、優秀なんだね」
亮平は一瞬だけ、言葉を選ぶようにした。
「うん。部署として優秀なんだよ」
部署として。個人名を避けた。
この男は、やはり馬鹿ではない。
「今回うまくいけば、部長からの評価も変わると思う」
「昇進の話?」
「まだ決まってない。でも、そうなればいいなとは思ってる」
悠真が目を輝かせる。
「パパえらくなったら、ゲーム買って」
「なんでそうなる」
「えらい人はお金持ちでしょ」
家族が笑った。
私はその笑い声の中で、静かに亮平を見ていた。
この人は今、本当に未来を見ている。
家庭は壊れない。妻は気づかない。
子どもたちは自分を尊敬する。玲奈は待っている。
仕事も上向く。全部を持ったまま、上に行けると信じている。
上へ登る人間は、自分の足元を見ない。
上を見てるから踏みつけたものが何なのかを、見ようとしない。
登ればいい。もっと高く。
もっと人に見られる場所へ。
もっと失えないものが増えるところまで。
その時まで、私は笑っていられる。
翌日、高瀬律子としての新しい投稿をした。
返信した翌日だったので、内容は慎重に選んだ。
直接的に恋愛へ寄せすぎてはいけない。
けれど、玲奈が自分のこととして読める余白は残す。
何度も下書きを消して、最終的に残したのは、これだった。
『人は、見たい未来がある時ほど、今ある違和感に名前をつけたがらない。けれど、名前をつけない違和感は消えるのではなく、少しずつ形を変えて残っていく。』
投稿後、私はすぐにアプリを閉じた。
麻衣には昼にだけ共有した。
紗季
これでいく
12:04
麻衣
玲奈、読むかな?
12:05
紗季
読んでもらうために書いてる。
12:06
麻衣
律子、大分形になってきたね。
12:10
そう。それでいい。こちらから断罪しない。
まず、玲奈自身に自分の影を見せる。
嘘で着飾った清楚に見える白い服の裾に、泥がついていることを、本人に気づかせる。
午後、南條から連絡が入った。
『次回勉強会、桐島玲奈の申込確認。高瀬律子として参加するなら、今が自然です』
その文面を見た瞬間、胸の奥が大きく鳴った。
ついに来た。
これまで、何度も準備してきた。
ウィッグ。カラコン。眼鏡。服装。声。SNS。投稿。
玲奈との細い接点。けれど、実際に同じ空間へ入るとなると、体の奥に冷たい緊張が走る。
麻衣に電話すると、すぐに出た。
「申し込むの?」
「うん。行ってみる」
「本当に?」
「玲奈が来るなら」
「南條先輩には?」
「確認する。単独では動かない」
「わかった」
麻衣は少し安心したように息を吐いた。
「怖い?」
「やめる?」
「やめない」
麻衣は短く笑った。
「だと思った」
私はパソコンを開いた。
勉強会の申込ページを表示する。
テーマは、言葉にできない悩みを企画に変えるコミュニケーション設計。玲奈が好きそうな題目だった。
そして高瀬律子が参加しても、何の不自然もない題目だった。
名前
高瀬律子
職業
企画編集/広報支援
参加動機
普段、企業や個人の考えを言葉に整える仕事をしています。参加者の方々と、悩みや違和感をどう表現に変えていくかについて意見交換できればと思い、申し込みました。
送信ボタンの上で、指が止まった。
このボタンを押せば、高瀬律子は玲奈のいる場所へ向かう。もう、ネットの中だけの存在ではなくなる。
私は深く息を吸った。そして、送信した。
お申し込みを受け付けました。
その文字を見た瞬間、胃の奥が静かに沈んだ。
不安はある。
でも、ここまでやってきた。
その夜、亮平は風呂上がりにリビングでスマホを見ていた。口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
私は洗濯物を畳みながら、それを見ていた。
相手が玲奈なのかはわからない。
けれど、彼の顔には家族へ向けるものとは違う温度があった。
「何かあったの?楽しそうだね」
何気なく言う。
亮平は一瞬だけ顔を上げた。
「え? いや、仕事の連絡」
「そう」
「展示会のことでさ」
私は畳んだタオルを重ねた。
「忙しいね」
「あと少しだから」
あと少し。
昇進まで、あと少し。玲奈との未来まで、あと少し。
妻に気づかれずに進めるところまで、あと少し。
私は微笑んだ。
「頑張ってね」
亮平は安心したように笑った。
「ありがとう」
あと少し
その言葉が、私には別の意味に聞こえた。
あなたのあと少しと、私のあと少しは、
同じ距離を、まったく違う方向へ向いているのよ。
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