第十六章 音声
「あいつ、家のことで頭いっぱいだから」
十二年の結婚が、そのひと言で値付けされた。
月曜日の昼、南條から連絡が来た。
『金曜夜の件で、共有したいものがあります。文章ではなく、音声です。』
音声
その二文字を見た瞬間、私はドキッとした。
写真なら、もう何度も見た。
ホテルへ入る二人。玲奈の車に乗る亮平。
それだけでも十分すぎるほど残酷だった。
けれど、声は違う。
写真は距離を保ってくれる。
でも声は、逃げ場がない。
十二年聞いてきた夫の声で、私が知らない言葉を聞くことになる。
私は薬局の休憩室で、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。それでも返事を打った。
『会えます。わかりました。麻衣にも共有してください』
送信してから、深く息を吐いた。
もう、見るだけの段階では終わったのだ。
その日の午後、麻衣の家に三人で集まった。
南條はいつもより少し硬い表情をしていた。
テーブルの上に小さな端末を置く。
「先に言っておきます」
南條は私を見た。
「かなり不快な内容です。聞くかどうかは、
藤堂さんが決めてください」
麻衣が私の横に座り、そっと手を重ねた。
「無理しなくていい」
私は首を横に振った。
「聞きます。聞かせてください。」
南條は端末を操作した。
数秒、雑音が流れた。食器の音。誰かの笑い声。
店員の「お待たせしました」という声。遠くで流れる音楽。そして夫の声
「だから、今はまだ無理だって」
次に、玲奈の声。
思っていたより柔らかい声だった。
可愛らしい、と言ってもいい声だった。
責めているのに、甘さがある。
男に困ったなと思わせる声だった。
「今は、っていつまでですか?」
「ハハっ。またそれいう?」
「だって、日曜の朝だけじゃ足りないです。もっともっと一緒にいたいです。」
日曜の朝。私と子どもたちが眠っている時間。
亮平がジョギングと言って家を出る時間。
あの時間を、玲奈は自分のものとして数えている。
「金曜も会ってるだろ?俺は時間作ってるよ。俺だって会いたいからさ。あって玲奈を可愛がりたいさ」
「そうですけど。会ってるけど、帰るじゃないですか。結局、奥さんのところに」
奥さん。玲奈の口から初めて出た、私の呼び方。
そこに罪悪感はほとんどなかった。
むしろ、自分の恋を邪魔する置物のような響きだった。
「紗季とは、もうそういう関係じゃないよ。同居人みたいなものさ。」
私の名前。録音の中で夫が私を呼んだ。
けれどそれは、家で呼ぶ時の声ではなかった。
他の女を安心させるために使われる、ただの材料になっていた。
「でも、一緒に暮らしてるじゃないですか。それが嫌なんです。私といて欲しいんです。」
「しょうがないよ。子どもがいるからな。父親としては責任がある。でも、夫婦としてはもう終わってるし、女としてももう見てないよ。」
夫婦としてはもう終わってる
誰が決めたのだろう。
私たちは、いつその話をしたのだろう。
いつ夫婦の終わりを確認したのだろう。
私だけが知らないまま、夫婦は外で終わらされていた。
「奥さん、気づいてないんですか?」
「気づかないよ。あいつ、家のことで頭いっぱいだから、鈍感で助かるよ。」
あいつ、家のことで頭いっぱいだから
私は食事を作り、洗濯をし、子どもの宿題を見て、学校の予定を確認し、亮平のシャツを洗い、朝帰りの夫にコーヒーを出していた。
それが、彼の口ではこうなる。
家のことで頭いっぱいの、何も気づかない妻。
あいつ——十二年の結婚が、その一言で値付けされた。
麻衣が低く呟いた。
「最低……」
「でも、そういう奥さんって楽ですよね。仕事しなくて家庭だけ守ってればいいから亮平さんは安心して外に出られる」
楽ですよね
玲奈は、私を楽だと言った。夫が外で自分と会うための土台として、家庭を守る妻を見ている。
私が守っていたものを、二人は利用していた。
「言い方、まあ、それはそうだよ。家庭にいるから家庭のことはしっかりしてくれるし、まぁパートはしてるけど給料は俺の方が入れるんだからしょうがないわな。楽してる」
「楽ですよ。私は待ってるだけなのに。奥さんは何も知らずに隣にいられる。ずるいなって思う時あります」
麻衣が思わず立ち上がりそうになり、私は彼女の手を押さえた。違う。今、怒るのは私ではない。今は聞く。全部聞く。
「いつも玲奈には悪いと思ってる」
「本当に?」
「本当だよ。俺が好きなのは玲奈だよ。」
「じゃあ、いつか私を選んでくれますか?」
沈黙。店内の音が少し大きくなる。グラスの触れる音。
誰かの笑い声。その中で、亮平は小さく言った。
「タイミングが来たらね。」
「その言い方、ずるいです」
「わかってるよ。ずるいよな。でも待てるだろ」
「好きだから待っちゃうんですよね。私も馬鹿ですよね」
「馬鹿じゃないよ。お前は可愛いよ」
亮平は、私に最近そんな声を出したことがあっただろうか。この男は、私から奪った時間で、別の女を慰めている。
「奥さん、亮平さんのこと全然見えてないんでしょうね。だからこの関係もバレないんですね。ふふ」
「まあな。家じゃ俺もいい旦那してるからな。気づかないだろ」
「家での亮平さん気になる〜。どんな顔して奥さん騙してるのか」
「ハハっやめろよ。」
玲奈は、自分を責めていない。既婚者を好きになってしまった可哀想な女ではない。妻に満たされない男を理解してあげている女の顔をして、私を馬鹿にしている。
亮平も同じだ。それだけで十分だった。
録音は、そこで一度切れた。南條が静かに停止ボタンを押した。部屋に沈黙が落ちる。
麻衣の目には涙が浮かんでいた。
けれど私は泣かない。指先にグッと力がこもる。
今は泣くところではない。
涙が出る場所はもう通り過ぎていた。
「続きがあります」
「聞きます」
私は即答した。
今度は、少し時間が進んでいるようだった。
店員の声が近い。
『失礼しました、お水こぼれてしまって……』
「大丈夫です。全然気にしないでください。
お仕事中にすみません」
先ほどの声とは違い驚くほど優しい声だった。感じがいい。相手を責めない。外から見れば、いい人そのもの。
店員が何度も謝り、玲奈は丁寧に笑っている。
「本当に大丈夫です。ありがとうございます」
そのやり取りだけ聞けば、誰も彼女を悪い女だとは思わないだろう。録音の中で、店員が去る。数秒後
「最悪。こういうの、ほんと面倒。服、濡れちゃった」
「おまえさっき大丈夫って言ってただろ」
「言いますよ。感じ悪くしたらこっちが悪者になるじゃないですか」
桐島玲奈という女
玲奈はいい人なのではない。
いい人に見える振る舞いを選べる女なのだ。
外では感じ悪くしたら損。だから笑う。
相手を責めない。店員にも後輩にも、丁寧で親切な女に見える。
内側では面倒、悪者になるじゃないですか。
損得で言葉を選ぶ。自分が綺麗な場所に立てる角度を、
常に計算している。
その器用さで、きっと亮平にも近づいたのだろう。
人を不快にしない。相手の欲しい言葉を選ぶ。
自分が被害者にも理解者にも見える位置を取る。
そして家庭ある男を奪っても、なお自分を綺麗な場所に置こうとする。
「亮平さん。私、奥さんにも会ったら普通に挨拶できると思いますよ。」
「やめろよ、怖いこと言うなよ。」
「だって顔知らないし。向こうも私のこと知らないんですよね?今度見に行っちゃおうかな。奥さんのこと気になるし」
「おまえのことは知らないけど変に勘付かられたらめんどくさいだろ」
「じゃあ、会ってもわからないですよね。
そういうの、ちょっと面白い。旦那の浮気相手が素知らぬ顔して妻に近づいて挨拶するとか笑えません?」
そういうの、ちょっと面白い
私の顔を知らないことを。妻とすれ違っても気づかれないことを彼女は、面白い、笑える言った。
玲奈にとって、私はゲームの中の見えない駒だった。
南條が録音を止めた。
「ここまでです」
部屋の中は、息苦しいほど静かだった。
麻衣が震える声で言った。
「紗季……この女マジで笑えない」
私は、自分の手元を見た。
不思議なほど、震えていなかった。
「ありがとうございます。南條さん」
声が出た。自分でも驚くくらい、落ち着いていた。
「これは、証拠として使えますか」
「直接的な法的証拠として扱うかは慎重な判断が必要です。ただ、桐島玲奈がご主人の既婚を認識していること、奥様の存在を知っていること、関係を継続する意思があることは、この会話から読み取れます」
「十分です」
「十分って……」
「今は、十分」
私はスマホを取り出した。高瀬律子のアカウントを開く。
白い花のアイコンからのコメントが、まだそこにあった。
欲しい言葉をくれる人がいると、それだけで救われた気持ちになってしまいますよね。
私はその文をもう一度読んだ。欲しい言葉。
救われた気持ち。その裏側で彼女は、妻を楽だと言い、会ってもわからないことを面白い、笑えると言った。
なら、こちらも返す言葉を選ぶ必要がある。
麻衣が気づいて、慌てて言った。
「コメント今返すの?」
「うん」
「大丈夫?」
「今だから返せる」
私は高瀬律子として、ゆっくり文字を打った。
コメントありがとうございます。
そうですね。欲しい言葉は、弱っている時ほど深く入ってきますよね。
ただ、その言葉が自分を大切にしてくれているのか、それとも自分にとっての都合のいい言葉なのか、時々見直したいなと思います。
打ち終えて、読み返す。責めていない。
断罪していない。けれど、逃げ道に灯りを置いている。
送信した。
玲奈は今、亮平の言葉で救われた気持ちになっている。
でも私は知っている。
亮平の彼女への言葉の原資は、
私が守り続けてきた家庭だということを。
数分後、白い花のアイコンから返信が来た。
「そうなんです。相手の言葉が本当なのか自分にとって都合のいい言葉なのか考える時ありますよね。」
麻衣が息を呑んだ。南條も黙って画面を見ていた。
私は、スマホを置いた。
桐島玲奈は、まだ知らない。
自分が反応している相手が
楽な奥さん、面白い笑えると呼んだその妻本人だということを。
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