第十四章 白い花のアイコン
いい人の顔で人の家庭に入ってくる女がいるなら
私は、仮面を被りいい人の顔で彼女の内側に入る。
桐島玲奈は、外から見ればいい人だった。
白や淡い色の服を好み、笑う時は口元に少しだけ手を添える。
集合写真では前に出すぎず、
けれど端に埋もれもしない。
誰かが話している時には体ごとそちらへ向け、
相手を立てるように頷いている。
清楚。控えめ。感じがいい。仕事もできる。
客観的にみると感じの良い女性。
でも、清楚な服は、清い心を保証しない。
控えめな笑顔は、遠慮深さの証明ではない。
人当たりの良さと、他人を傷つけないことは、
まったく別の能力だ。
麻衣の家で、私たちは玲奈の匿名アカウントらしきものを見ていた。本名ではない。顔写真もない。
アイコンは、白い花を少しぼかした写真。
投稿数は多くないが、言葉の選び方に妙な統一感があった。
仕事のこと。自分らしさ。大切にされる恋。
誰にも言えない感情。
そのどれもが、はっきりした事実を避けながら、
読む者に想像させるように書かれていた。
私は投稿の時刻を確認していた。
平日の朝、出勤前と思われる時間。
昼休みに短い投稿。金曜の夜は遅い時間に感情的な一文。
日曜の午前には、妙に満たされたような投稿がある。
金曜のホテル。日曜朝のマンション。
南條の報告と、感情の浮き沈みが重なる。
人の気持ちは時刻に滲む。
「この投稿」
麻衣が指を刺す
誰かを好きになることが、誰かを傷つけることと
同じだなんて思いたくない。
でも、傷つけない恋だけが正しいとも思えない。
麻衣の眉がきつく寄る。
「何これ。酔ってる」
私は黙っていた。怒りで指先が冷たくなった。
傷つけない恋だけが正しいとも思えない。
では、傷つけられる側の人生はどうなるのか。
子どもたちの朝は。私の夜は。夫の帰りを待つ時間は。
その全部を、自分たちの恋の深さを測るための背景にするのか。
「奥さんとは終わってる」
「家庭はもう冷めている」
「子どものために形だけ続けている」
亮平からそんな言葉を聞かされ、自分の恋を
苦しくも美しいと位置づけている。
玲奈はきっと、自分を悪者にしないための言葉を
たくさん持っている女だ。
相手には家庭がある。でも心は自由。
誰かを好きになる気持ちは止められない。
正しさだけでは人は生きられない。
そうやって、自分の欲望に薄いヴェールをかける。
麻衣が小さく吐き捨てる。
「いい人ぶってる女の典型だね」
私は画面から目を離さなかった。
玲奈は悪意をむき出しにするタイプではない。
むしろ、自分を悪者にしないための言葉をたくさん持っている女だ。だからこそ始末が悪い。
だからこそ、彼女自身に語らせなければならない。
私は、そのヴェールを剥がしたかった。
力任せに破るのではなく彼女自身の言葉で。
「罠を置くなら、玲奈が自分から触りたくなる言葉じゃないとだめ」
私は言った。麻衣が顔を上げる。
「罠って、投稿?」
「うん。高瀬律子として」
「でも直接煽ったら危なくない?」
「だから煽らない。正論も言わない。
玲奈がこの人はわかってくれるかもしれないと思うようにする。」
私はノートを開き、候補の文章を読み上げた。
「誰かを好きになる気持ちは、正しさだけでは整理できない。でも、その恋で見えなくなっている人がいるなら、一度立ち止まった方がいい。」
「これは?」
「強すぎる。奥さん側っぽい」
次。
「大切にされているかどうかは、会える時間の長さではなく、相手がどれだけ時間を使ってくれるか」
「これは刺さるかも」
「まだ直接的すぎる」
高瀬律子は、玲奈を裁く人間として現れてはいけない。
最初は、彼女の中の迷いに寄り添う人間に見えなければならない。そうでなければ、玲奈は本音を出さない。
しばらく考えて、私は新しい文章を書いた。
秘密のある関係ほど、愛が深まる
でも本当に大事なのは、その心の奥で自分が何を見ないようにしているかだと思う。
麻衣がそれを読み、顔を上げた。
「これ、怖い」
「怖い?」
「責めてないのに、逃げ道を照らしてる感じ」
「律子っぽい?」
「うん。かなり」
私はその文章を見つめた。秘密のある関係。
見ないようにしているもの。
玲奈が反応するなら、そこだと思った。
自分の恋を美しく語りたい女。でも心のどこかで、
それが汚れていることも知っている女。
その矛盾に触れる。ただし、指先だけで。
投稿は、金曜の昼にした。夜ではない。
感情的な時間帯を狙いすぎると不自然になる。
仕事の合間に、誰かの言葉がふっと目に入るような時刻。
写真は、黒いコーヒーと閉じたノート。
暗すぎず、明るすぎず。場所は特定できない。
何度も読み返してから、投稿した。
「見ないの?」
「すぐには見ない」
「気にならない?」
「気になる。だから見ない」
罠は、仕掛けたあとに触りすぎてはいけない。
その日の夜、亮平はまた遅くなると言った。
「展示会の準備で、ちょっと残るかも」
「そう。ご飯は?」
「軽く食べてくる」
「わかった」
展示会。準備。残業。どれも、仕事の言葉だった。
けれど南條からの事前連絡で、私はすでに知っていた。
本日、亮平氏と桐島玲奈の退勤後接触可能性あり
「遅くなるなら、無理しないでね」
そう言うと、亮平は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「ありがとう。助かる」
助かる
何が助かるのだろう。妻が疑わないことか。
子どもたちを見ていてくれることか。
自分が女と会う間、家庭がいつも通り回っていることか。
いつかあなたは、この沈黙が優しさではなかったことを知る。
翌日の昼、麻衣の家で報告を確認した。
昨夜 亮平氏と桐島玲奈、退勤後に合流。
食事後、ホテル入室確認。退室も確認済み。詳細資料後送。
予想していた。
それでも、文字になると胸の底が重くなる。
麻衣も隣で画面を見た。
「また?」
「うん」
「展示会の準備じゃなくて?」
「玲奈との準備だったみたい」
自分で言って、少しだけ笑いそうになった。
笑えない冗談だった。
南條の添付写真を開く。夜の飲食店前。
玲奈が白いブラウスに淡いグレーのコートを羽織っている。清楚で、品がよく、誰かの恋人というより、
仕事帰りのきちんとした女性に見える。
亮平は彼女の少し後ろを歩いている。
人目を気にして距離を取っているのに、
視線だけは彼女を追っている。
次の写真
ホテルの入口。玲奈が先に入る。亮平が続く。
前と同じ。何度も見た構図。
それでも慣れることはなかった。
麻衣が低く言った。
「こんな顔して、清楚ぶってるんだ」
私は黙っていた。玲奈の写真を見て、ふと思う。
彼女はきっと、会社では気遣いのできる人なのだろう。
後輩の相談に乗り、上司には礼儀正しく、女性同士の場では共感力のある発言をする。
誰かが悩んでいれば、優しく大丈夫?と声をかけるのかもしれない。
けれどその同じ口で、亮平に何を言っているのだろう。
「奥さん、気づいてないんですか?」
「今日は大丈夫ですか?」
「いつか一緒になれますか?」
想像するだけで、怒りが込み上げてくる
その時、麻衣が声を上げた。
「紗季」
「何?」
「律子の投稿」
私は高瀬律子のアカウントを開いた。
昨夜投稿した言葉に、いくつか反応がついていた。
勉強会の主催アカウント。広報系の人。
そして
例の白い花のアイコン。
いいね。
それだけだった。けれど、私には十分だった。
麻衣が息を呑む。
「触ったね」
「うん」
「罠に?」
私は画面を見つめたまま言った。
「まだ罠じゃない。餌をまいただけ」
「怖いこと言うね」
「ここで釣り上げようとしたら失敗する」
私は画面を閉じた。今はまだ、いいねだけでいい。
玲奈はこの言葉を見た。少なくとも、視界に入れた。
そして反応した。秘密のある関係。
私の投稿で
彼女がそこに何を感じたのかはわからない。
けれど、完全に無関心ではなかった。
それだけで、次の一手が変わる。
麻衣がコーヒーを淹れ直しながら言った。
「ねえ、玲奈ってさ、外では本当にいい人なんだろうね」
「たぶん」
「そういう女、厄介だよね」
「悪人に見える悪人は、まだ楽だと思う。
周りも警戒するから」
「玲奈は?」
「周りから見れば、きっと被害者にもなれる女」
麻衣の顔が険しくなった。
「被害者?」「
「もし不倫がばれたら、彼に騙されていた奥さんとは終わってると聞いていた。私も苦しかったって言える。
「泣き方も知っていると思う」
「最悪」
「うん。だから、言わせたい」
「何を?」
私は少しだけ間を置いた。
「彼女自身の本音。亮平が悪いのはもちろん。
でもも玲奈が本当に、妻子のことをどう思っているのか。
どこまで知っていて、どこまで無視しているのか。
それを、彼女自身の言葉で出させたい」
「それが律子の役目?」
「そう」
私は高瀬律子のアカウント画面を再び開いた。
投稿の下に並ぶ、小さないいねの一覧。
その中にある、白い花のアイコン。まだ細い。
けれど、確かに糸はかかった。
「玲奈は、いい人の顔で人の家庭に入ってきた」
「なら私は、いい人の顔で彼女の内側に入る」
麻衣が私を見た。
「紗季、今の言い方、だいぶ怖い」
「怖くていい。怖いことをされてるのは、こっちだから」
その日の夜、家に帰ると、亮平はリビングで美月の宿題を見ていた。
「ここ、分数の計算間違ってる」
「わかってるってば」
「わかってる人は間違えない」
「パパうるさい」
二人のやり取りに、悠真が横から笑っている。
私はキッチンに立ち、その光景を見た。
父親の顔。清楚な愛人。何も知らない子どもたち。
そして、律子という仮面を育てる私。
家の中は、まるで普通だった。
だからこそ、ドロドロとしたものは見えない場所で深くなっていく。表面は穏やか。中身は腐り始めている。
私は鍋に火をつけた。亮平が顔を上げる。
「紗季、今日ちょっと雰囲気違う?」
一瞬、心臓が止まりそうになった。
「そう?」
「なんか、機嫌いい?」
私は少しだけ微笑んだ。
「麻衣と会って、久しぶりにゆっくり話したからかな」
「そっか。よかったじゃん」
「うん」
亮平はそれ以上疑わなかった。私が何を話してきたのか。
誰のアカウントを育てているのか。
昨夜のホテル写真を見たあとだということも。何も知らない。
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