第十三章 SNS
人間のふりをしたアカウントは
たいていどこかが不自然になる。
私はそれを、昔の仕事で何度も見てきた。
高瀬律子を作る上で、私が一番気をつけたのは、
目立つことではなかった。
むしろ逆だった。
目立たないこと。
けれど、存在していること。
検索された時に空っぽではなく、かといって
作り込みすぎてもいないこと。
文章の癖。句読点の打ち方。投稿時間の偏り。
使う絵文字の種類。フォローする順番。興味の広がり方。
人は、自分では自然に演じているつもりでも、
必ず同じ場所を踏む。
私は昔、そういう足跡を見ていた。
だからこそ、自分が嘘を作る側に回るのは、
想像以上に怖かった。
麻衣の家のダイニングで、私はノートパソコンを開いていた。テーブルには律子用のノート、古いスマホ、麻衣が淹れてくれたコーヒー。
窓の外は曇っていて、午後なのに部屋の中は少し暗い。
麻衣は向かいに座り、私のノートを覗き込んだ。
「これ、全部投稿案?」
「うん」
「多くない?」
「多いくらいでちょうどいい。実際に使うのは一部だから」
ノートには、短い文章が何十個も並んでいた。
しばらく眺めてから、麻衣が眉を寄せた。
「これ、紗季っぽいのと律子っぽいのが混ざってる」
「どれ?」
麻衣が指で一文を示す。
疲れている人ほど、ちゃんとした言葉を選ぼうとする。
「これは紗季」
「そう?」
「うん。優しすぎる。律子はもう少し距離がある人なんでしょ?」
私は少し驚いた。
「麻衣、鋭いね」
「友達歴長いからね。あと、紗季は隠してるつもりでも、結構文章に出る」
「そんなに?」
「出る。紗季の文章は、誰かを庇う」
私はその言葉に、一瞬黙った。
誰かを庇う。
亮平を庇っていた。家庭を庇っていた。
子どもたちの日常を庇っていた。
そしてたぶん、自分の傷も庇っていた。
高瀬律子に、その癖を持ち込んではいけない。
律子は、優しい女ではない。
冷たい女でもない。
ただ、相手の話を整理する女だ。
踏み込みすぎず、離れすぎず、聞く。
相手が自分から言葉を差し出したくなる場所にいる。
私は該当の一文に線を引いた。
「これは使わない」
企画書を書く前に、相手がどこで迷うかを考える。
言葉はその後でいい。
「これは律子っぽい」
「理由は?」
「仕事の人っぽい。感情じゃなくて構造を見てる感じ」
私は小さく笑った。
「構造を見る女」
「そう。ちょっと嫌な女だけど、頼りになる感じ」
「嫌な女なんだ」
「褒めてるんだよ。」
麻衣が真顔で言うので、私は久しぶりに声を出して笑った。笑ったあと、自分でも少し驚いた。
こんな状況でも人は笑えるのだと思った。
人は壊れながらでも、準備をする。
傷つきながらでも、眠ることができるし食事も取れる。
コーヒーを飲み、友人と冗談を言う。
その矛盾が、今の私をかろうじて支えていた。
「昔の仕事でね」
私は画面を見ながら言った。
「偽アカウントを見る時、最初に投稿内容は見なかった」
「何を見るの?」
「時間」
「時間?」
「投稿される時間帯。平日の昼に多いのか、夜中に多いのか。毎日同じ時間に投稿されるのか、不自然に間隔が空くのか」
「本当に働いている人なら、投稿できる時間に揺れがある。仕事の合間だったり、移動中だったり、夜に少しだけだったり。逆に、誰かが目的のために作ったアカウントは、投稿時間が妙に整いすぎる」
「律子は?」
「整えすぎない。けど、だらしなくもしない。
投稿予約は使いすぎない。リアルタイムっぽさを少し残す」
麻衣は感心したように息を吐いた。
「そこまで考えるんだ」
「考えないとバレる」
私は静かに言った。
「玲奈に直接バレなくても、誰かが違和感を持つだけで危ない。高瀬律子は、目立つ必要はない。でも、不自然であってはいけない」
最初の投稿は、麻衣の家で撮った。
白いマグカップ。薄いグレーのノート。黒いペン。
背景には何も映らないようにした。
文章を最初に書いたのは、
予定を詰め込みすぎない日ほど、考えの優先順位が見えることがある。
麻衣は首を傾げた。
「最初に書いたやつより、こっちの方が律子」
「冷たい?」
「冷たいんじゃなくて、整理してる感じ」
私は投稿ボタンを押した。高瀬律子の最初の言葉が、ネット上に置かれた。反応はない。当然だ。
フォロワーはまだほとんどいない。
誰にも見られていない投稿。けれど、それでよかった。
最初の痕跡は、誰にも見られない場所に置くくらいでちょうどいい。
その夜、亮平は二十二時前に帰ってきた。
「遅くなってごめん。ちょっと部下の相談が長引いてさ」
亮平はネクタイを緩めながら、疲れたように笑った。
その顔は、本当に仕事帰りの男に見えた。
《十九時十三分——亮平氏、桐島玲奈と会社最寄り駅近くのカフェに入店。同席約四十分。その後、別方向へ移動。》
亮平が言う部下の相談の相手が玲奈なのだとしたら、
嘘は半分だけ真実を混ぜていることになる。
それが一番たちが悪い。完全な嘘より、部分的な真実を含んだ嘘の方が強い。
問い詰められても、逃げ道が残るからだ。
「大変だったね」
「まあね」
亮平は椅子に座り、私の出した味噌汁を受け取った。
「ありがとう」
そのありがとうが、どうしようもなく薄く聞こえた。
高瀬律子がネット上に初めて痕跡を残した日に、亮平はまた玲奈と会っていた。
こちらが慎重に一歩進めるたび、二人は何も知らずに関係を重ねていく。
その対比が、私の中の怒りを静かに研いでいった。
投稿は続けた。
言葉を選ぶ時、いちばん最初に考えるのは正しいかではなく「届く形になっているか」。
相談を受ける時、相手が最初に話す悩みと、
本当に抱えている悩みは少し違うことがある。
静かなカフェで、来週の資料を整理。
言葉にする前の違和感を、急いで消さないようにしたい。
写真は毎回変えた。本。ノート。カフェのカップ。
手元だけ。後ろ姿はまだ載せない。顔も出さない。
高瀬律子は、顔を売る人ではない。
言葉と雰囲気で、少しずつ存在を作る人だ。
ある金曜の夜、亮平はまた遅くなった。
「取引先と軽く食事してくる。そんなに遅くならないと思う」
「大変だね」
「先に寝てていいから」
先に寝てていい。その言葉を聞くたびに、心がぎゅっとなる。
彼にとってそれは、帰宅時間の自由を確保するための合図だった。
金曜夜、亮平氏と桐島玲奈の接触確認。
二十時前
会社付近で合流。
食事後、前回とは別のホテルへ入室。
二十二時五十六分
退室確認。別々の方向へ移動。
写真が添付されていた。店を出る二人。
ホテルの入口へ入る二人。
退室後、少し距離を取って歩く二人。
亮平は、私の前で見せる疲れた父親の顔ではなかった。
玲奈の隣では、肩の力が抜けている。
その横顔が、私の知っている夫よりずっと若く見えた。
怒りは、もう爆発しなかった。
ただ、沈殿していく。底の方へ、重く、濁らず、冷たく。
その夜、亮平は何食わぬ顔で帰宅した。
「ただいま」
「おかえり」
「飲みすぎたかも」
「水、飲む?」
「うん、もらう」
私はグラスに水を注いだ。
その手つきは、いつも通りだった。
ホテルから戻った男に水を出す妻。
その妻は、もうホテルの写真を持っている。
亮平は知らない。
投稿が五つを超えた頃、高瀬律子のアカウントに少しずつ反応がつき始めた。広報系のアカウントから、いいねが一つ。
女性向けキャリアメディアの編集者らしき人から、フォローが一つ。
勉強会の主催アカウントが、投稿の一つに反応した。
麻衣はそれを見て、目を丸くした。
「なんか、本当に存在してきたね」
「まだ薄いけどね」
「でもゼロじゃない」
「そう。ゼロじゃないことが大事」
昔の仕事で、私は急に完成された人間を疑っていた。
投稿が少ないのに自己紹介だけがやたら立派なアカウント。
フォロー先が不自然に目的へ寄りすぎているアカウント。
高瀬律子は、そうしてはいけない。
彼女には、小さな反応と、少しの迷いと、
無理のない発信が必要だった。
コメントを返す時も短くした。
ありがとうございますだけでは事務的すぎる。
長く語ると距離が近すぎる。
ありがとうございます。私もまだ考え途中ですが、言葉にしてみました。
麻衣はそのやり取りを見て言った。
「律子、ちょっと感じいいね」
「紗季は?」
「紗季はもっと気を遣う」
「やっぱり違う?」
「違う。律子は感じいいけど、背中を預けすぎない感じ」
「今はまだそれでいい」
律子は、親切であっても親密すぎてはいけない。
玲奈が近づきたいと思う余白を残す。
けれど、こちらから欲しがっているようには見せない。
その週の日曜の朝、亮平はまたジョギングに出た。
もう何度目かの、同じ朝。スマホが短く震える。
亮平が起きる。着替える。子ども部屋を覗く。
玄関から出る。私は眠ったふりを続けた。
以前なら、その一連の動きを見て胸が痛んだ。
今は違う。私は、夫の行動を感情で見なくなっていた。
日曜朝、同一行動確認。
桐島玲奈の車に乗車。同一マンションへ入室。
滞在約一時間。
帰宅前に短距離ランニング行動あり。
添付された写真には、白い車の助手席に乗り込む亮平が写っていた。
彼はもう、周囲をほとんど確認していなかった。
慣れてきているのだ。
家族を欺くことに慣れるな。
子どもの寝顔を見た足で、女の部屋へ行くことに慣れるな。妻の前で父親の顔をすることに慣れるな。
その日の午後、私は投稿を一つ書いた。
同じ行動が繰り返される時、そこには必ず理由がある。
偶然ではなく、選ばれているパターンを見る。
麻衣に見せると、彼女は少し黙り、私を見た。
「これ、今の亮平さんのこと?」
「律子としても自然だと思う」
「自然だけど、紗季の怒りが少し出てる」
同じ相談が繰り返される時、必要なのは新しい答えより、変えられない前提を見つけることかもしれない。
「こっちの方がいいかな」
麻衣は頷いた。
「こっちの方が律子」
私は投稿した。怒りをそのまま書かない。
それもまた、訓練だった。
投稿数が十を超えた頃、勉強会の主催アカウントが私の投稿を一つリポストした。内容は、
相談を受ける時、相手が最初に話す悩みと、本当に抱えている悩みは少し違うことがある。
麻衣がそれを見て、声を上げた。
「来たじゃん」
私は画面を見つめた。心臓が、静かに速くなる。
主催アカウントが反応したということは、
その勉強会に参加する人たちの目に触れる可能性がある。
その中に、玲奈がいるかもしれない。
「焦らない」
私は小さく言った。
翌日の昼、古いスマホに麻衣からメッセージが入った。
麻衣
主催アカウントのリポストに、桐島玲奈っぽいアカウントがいいねしてる
12:33
私は薬局の休憩室で、その文面を見た。息が一瞬止まった。
麻衣
本名じゃない。でも南條先輩が見てた候補の一つ。アイコンは顔なし。投稿内容が玲奈の関心と近い
12:35
高瀬律子の言葉が、
玲奈の視界に入ったかもしれない。
まだ接触ではない。会話もしていない。
相手が確実に玲奈だという確定もない。
でも、初めて細い糸が伸びた。私はすぐに画面を閉じた。
職場でこれ以上見てはいけない。
けれど心臓は、もう先に走り出していた。
紗季
夜は確認しない。明日、そっちで見る
12:41
麻衣
了解。焦らない
12:42
亮平と玲奈は、まだ隠せていると思っている。
日曜の朝も、金曜の夜も、平日の短い時間さえも、
私の目には届いていないと思っている。
その間に、高瀬律子は育っていく。
誰にも見えないところで。けれど確実に。
夫の嘘が続くあいだに、
私はその嘘の内側へ入るための顔を、
ひとつずつ整えていた。
ここからどんな風になっていくか
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