第十二章 高瀬律子
夫が女の部屋へ通うあいだ、
私は別人の顔を育てていた
怒りは燃料になる。けれど操縦桿にはならない。
高瀬律子という名前を決めたあとも、
私はすぐには何もしなかった。
始められなかったの方が正しいかもしれない
名前を決めることその人物として他人の前に立つことの間には想像以上に深い溝がある。
紙の上に設定を書くのは簡単だ。
けれど、その名前で呼ばれて振り向き、
その人物として自然に笑い、
その人物の人生を問われても一瞬で破綻しないところまで
作り込むのは、まったく別の話だった。
だから、まず考えた。
翌朝まで何も決めなかった。
焦って動く人間は必ずどこかで雑になる。
怒りは燃料になる。けれど操縦桿にはならない。
私はそのことをよく理解している。
翌朝になっても、考えは消えていなかった。
むしろ、より明確になっていた。
私が一番知りたいのはあの女が、
どんな顔で既婚者との関係を続けているのか。
亮平の言葉を、どこまで信じているのか。
妻と子どもを欺いたまま自分だけは純愛の中に
いるつもりなのだろうか。
そして、その言葉を最後まで覚えておきたい。
二人が断罪される時、
「そんなつもりじゃなかった」
「本気だった」
「家庭は壊れていると聞いていた」
と泣きながら並べる言い訳に、私は揺らがないために。
麻衣の自宅マンションは、
駅から徒歩八分ほどのところにある。
一人暮らしの彼女は、在宅勤務の日もあれば
会社へ行く日もある。
私は彼女の予定を聞き、
都合のいい昼だけを選んで訪ねることにした。
最初の日、麻衣は玄関を開けるなり言った。
「やっぱり、うちを使うのが一番いいよ」
「助かる。家じゃ絶対に無理だから」
「そりゃそうでしょ。子どもがいる家でウィッグ出してたら終わる」
「亮平に見られても困るし」
「実家もだめだよね」
「母は絶対聞く。何その髪?って」
麻衣は苦笑した。
「しかも心配して根掘り葉掘り」
「そう。ごまかしきれない」
「じゃあここ。好きに使って。クローゼットの上段、
空けとくから。服でもメイク道具でも置いていい」
「そこまでしてくれるの?」
「紗季が今やろうとしてること、私はもう他人事にできないから」
麻衣はキッチンで湯を沸かしながら、
いつもより少し低い声で言った。
「それに、変装するなら一度きりじゃないでしょ。慣れるまで何度も練習するんだよね?」
「うん。そのつもり」
「だったら毎回持ち歩く方が危ない。必要なものはうちに置いて、紗季はここで律子になって、ここで紗季に戻ればいい」
藤堂紗季で入って、
高瀬律子を試して、
また藤堂紗季に戻って出る場所。
その線引きがあるだけで、少し落ち着いた。
外見を変えるための準備は、
南條の指示を受けながら慎重に進めた。
彼が最初に言ったことは、今も頭に残っている。
「大事なのは、きれいに化けることではありません。
藤堂さんを知っている人間が偶然写真を見ても、
すぐに結びつけないことです。
玲奈さん本人だけにわからなければいい、では弱い」
交流会に参加すれば、集合写真を撮られる可能性がある。
主催者がSNSに載せるかもしれない。
玲奈が何気なく誰かに見せるかもしれない。
もしそれを、私を知る誰かが見たら
「紗季さんに似てる人がいたよ」
そんな軽い一言が、どこかで亮平の耳に入るだけで危険だった。だから変えるなら中途半端ではだめだ。
ウィッグ 試 着
麻衣の家の客間で、三つのウィッグを順番に試した。
一つ目は、明るいベージュブラウンの肩上ボブ。
若々しく見えたが、少し華やかすぎる。
玲奈が通うような落ち着いた交流会では浮くかもしれない。
二つ目は、暗めの栗色のセミロング。
自然ではあるけれど、普段の私の髪の長さに近く、
写真によっては連想される余地が残る。
三つ目は、赤みをほとんど感じさせないダークブラウンのミディアム。顎より少し下で揺れ、前髪はやや厚め。
横顔の輪郭が普段の私とかなり変わった。
麻衣がスマホで正面、斜め、少し下からと何枚か撮り、
私に見せた。
鏡で見るより、写真の方が別人に見えた。
前髪で額の見え方が変わり、
髪の色で肌の印象まで違っている。
普段の私は黒髪を低い位置でまとめる。
その記憶と、この写真は簡単には結びつかない。
「これにする」
続いて目元。カラコンは過剰な色を避け、グレージュに近い自然な色を選んだ。瞳の輪郭だけを柔らかく見せ、
視線の印象を薄く変えるもの。
初めて装着した時、鏡の中の自分が少しだけ遠くなった。
「変?」
「変じゃない。でも、紗季の目じゃない感じがする」
「それでいい」
眼鏡も足した。普段の私は眼鏡をかけない。
そこで、細いゴールドのメタルフレームを選んだ。
丸すぎず、四角すぎず、顔の印象を優しく散らす形。
ウィッグ、カラコン、眼鏡
三つが揃うだけで、藤堂紗季はかなり遠のいた。
それでも、まだ足りなかった。
メイクはさらに細かく調整した。
普段の直線的な眉を、柔らかいアーチへ。
アイシャドウはくすんだローズベージュを目尻側へ流す。
アイラインは普段より一ミリ長くたった一ミリなのに、
目の横幅が変わって見える。
チークは顔の重心をずらすための位置へ。
リップは落ち着いたモーヴピンク。
薬局に行く時には選ばない色だった。
「どう?」
完成した顔で麻衣を見ると、
彼女はしばらく何も言わなかった。
「……変わるね」
「どのくらい?」
「友達だからわかる。でも、知らない人が見たら完全に別人に分類すると思う」
その言い方に、少しだけ安心した。
服装も、律子の人格の一部だった。
高瀬律子は、生活に追われて動く女には見えない方がいい。落ち着いたブルーグレーのワンピース。
丈は膝下。その上に淡いアイボリーの短めのジャケット。
靴は、ヒールの低いスエード調のパンプス。
バッグは小ぶりの革製ショルダー。
子どものウェットティッシュも、予備のハンカチも、
折り畳み傘も入らない。
けれど、高瀬律子にはそれでいい。
彼女は誰かのための荷物を持ち歩かない。
アクセサリーは、細いゴールドのピアスと、
同系色の華奢なリングだけ。
結婚指輪は当然外す。
指輪を抜いた瞬間、私は一瞬だけ手を止めた。
左手の薬指には、長年そこにあったものの跡が薄く残っている。亮平との結婚を象徴していた輪。
いま私がそれを外すのは、玲奈に近づくための準備にすぎない。けれど、胸の奥で何かが静かに区切られた気がした。
麻衣は何も言わなかった。
ただ、私の手元を見て、それから別の話題を口にした。
「香水どうする?」
香水は、本人の記憶のスイッチになる。
高瀬律子でいる間だけ使う香りを決めておけば、
声や姿勢まで切り替えやすくなる。
南條からも同じ助言があった。
選んだのは、ほんのりウッディで、少しだけ紅茶のような甘さを含む香りだった。
清潔で、落ち着いている。
近づかなければわからない程度。
手首に一滴、耳の後ろにごく少し。
それだけで、自分の中の普段の私が一歩退く気がした。
その準備を進めている間も、亮平と玲奈の密会は続いていた。南條からの報告は、いつも平日の昼に届いた。
私は薬局の休憩時間、もしくは麻衣の家にいる時にだけ確認した。
《日曜朝の行動、前回とほぼ同一。六時過ぎ外出、裏手から移動、同一車両に乗車、前回確認した低層マンションへ。滞在約一時間十分》
写真が添付されていた。亮平が、玲奈の白い車の助手席へ乗り込むところ。前回より周囲を確認する仕草が短い。
慣れている。
私は画面を見たまま、指先が冷えていくのを感じた。
これで日曜朝は偶然ではなくなった。
家族がまだ眠る時間に、夫は女のところへ通っている。
《ご主人、退勤後に桐島玲奈と合流。前回とは別店舗で食事後、徒歩でホテルへ移動。
入室二十一時九分。退室二十三時四十六分確認》
退室まで押さえられた。同じ女と。継続して。
南條の添付した写真には、ホテルを出る二人の姿が写っていた。亮平は少し離れて歩いている。
玲奈も距離を取っている。
けれど、そのわずかな間に漂う親密さは、隠しきれていない。その夜、亮平から私へ届いたのは
「まだ少しかかりそう。先に寝てて」
そのメッセージと、ホテルを出る写真を並べて見ると、
吐き気がした。嘘をつくことに慣れている。
私を待たせることにも。家庭へ戻る時間を、自分の都合で調整することにも。
私はもう、泣かなかった。ただ、記録した。
愛情がなくなったあと、
人はこんなに静かに怒れるのだと知った。
「まだ迷ってる?」
ある日、麻衣の家でメイクを落としたあと、彼女が聞いた。
「何を?」
「玲奈に近づくこと」
「迷ってはいない。でも、急ぎたくない」
「うん」
「南條さんの証拠は揃ってきてる。普通なら、もう弁護士に相談して進めてもいい段階なのかもしれない」
「でも紗季は、それだけじゃ終わらせたくない」
「そう」
「亮平が何を言ってるのか。玲奈が何を信じてるのか。どうして自分たちだけは許されると思ってるのか。そこを知らないまま手続きを始めても、私はきっと後で引っかかる」
「知ったら、もっと怒るだけかもしれないよ」
「うん。それでもいい」
「じゃあ私は、途中で止める役もやる」
「止める?」
「紗季が感情で踏み込みすぎたら止める。逆に怖くなってやめたくなったら、ちゃんと理由を聞く」
「どっちも?」
「どっちも。味方だから」
その言葉に、私は少しだけ救われた。
ある日の夕方、亮平がいつものように帰宅した。
「ただいま」
「おかえり」
私はキッチンで味噌汁を温めていた。
亮平は上着を脱ぎながら、どこか機嫌がよさそうだった。
足取りが軽い。
南條から、昼に報告が来ている。
その日、亮平は昼休みに玲奈と会社近くのカフェで二十分ほど二人きりだった。
その店に入る直前、玲奈が亮平の袖を軽く引き、彼が笑って振り返る写真が添付されていた。
私は、その写真を見たあとに、
今この人の夕飯を用意している。
不思議だった。
怒りで手元が狂うこともない。
味噌汁の濃さもいつも通り。
子どもたちには笑顔で手を洗ってと言える。
自分が冷たくなったのではない。
たぶん、覚悟が少しずつ固まっているのだと思う。
「今日、何かいいことあった?」
私は何気なく聞いた。
「いや? なんで?」
「ちょっと機嫌よさそうだったから」
「そう? 仕事がひとつ片づいたからかな」
「そっか。よかったね」
それ以上は聞かなかった。亮平は私の言葉を信じた。
私は亮平の言葉を信じたふりをした。
そのやり取りの裏に、昼のカフェの写真が一枚、
静かに置かれている。
いつかこの写真を見せた時、彼は何と言うだろう。
「仕事の打ち合わせだった」と言うのだろうか。
「袖を引かれただけ」と笑うのだろうか。
いい。今はまだ、答えなくていい。
私には、その時までに集めるものがある。
その夜、麻衣から短いメッセージが届いた。
麻衣
次、いつ練習する?
21:03
紗季
木曜の昼なら行ける
21:08
麻衣
了解。今度は服まで全部合わせて見よう
21:09
紗季
お願い
21:09
麻衣
律子、だいぶ育ってきたね
21:11
私は画面を見つめた。育ってきた。たしかにその通りだった。まだ誰にも会っていない。
SNSも始めていない。
玲奈の前に立つ日も決まっていない。
それでも、高瀬律子はもう、ただの名前ではなくなってきている。
夫は今日も女の部屋へ通い、
私は今日も母親の顔で食卓に座った。
通う夫。迎える女。嘘を受け取る妻。
そして、その妻の手の中で育っていく別人。
まだ扉は開けない。
けれど鍵穴の向こうで、
桐島玲奈の姿は
もうはっきりと見えていた。
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