第十一章 もう1人の私
私は今後どうしたらいいか悩んだ。
今集めている証拠を出せば浮気を認めるかもしれない。
だが、上手く逃げられるかもしれない。
復讐に必要なのは、ただの証拠ではなく確固たる証拠だ。
それに、今の証拠だけでは、夫も愛人も私の事をどう思っていたのか真実さえわからない。
私は真実が知りたい。
だから考えた。
玲奈に近づくために、私はまず自分を消す事を。
桐島玲奈は、私の顔を知らない。
その事実に気づいた夜、私はすぐに何かを始めなかった。
むしろ、何もしないことを選んだ。
興奮して動く人間は、必ずどこかで雑になる。
思いついた復讐に酔い、手順を飛ばし、
自分だけは大丈夫だと思い込む。
私は、そういう人間を昔の仕事で何人も見てきた。
怒りは燃料になる。
けれど操縦桿にはならない。
だからまず、横になった。当然眠れたわけではない。
ただ、ベッドに入り、目を閉じ、
翌朝まで何も決めなかった。
玲奈に近づく
その考えが一時の衝動なのか、
時間を置いても変わらない意志なのか、確かめる必要があった。
翌朝になっても、考えは消えていなかった。
むしろ、より明確になっていた。
私は知りたい。
あの女が、どんな顔で既婚者との関係を続けているのか。
亮平の言葉を、どこまで信じているのか。
妻と子どもがいる事を知っていながら自分だけは純愛の中にいるつもりなのか。
そして、その言葉を最後まで覚えておきたい。
二人が断罪される時、
「そんなつもりじゃなかった」
「本気だった」
「家庭は壊れていると聞いていた」
と泣きながら並べる言い訳に、私は揺らがないために。
麻衣には、その日の昼に話した。
駅前のカフェ。平日の午後で、店内は比較的空いていた。
窓際にはパソコンを開いた女性が一人、
奥の席では年配の夫婦が静かにケーキを分けている。
珈琲の匂いと、外から差し込む午後の光。
どこにでもある昼下がりの中で、私は友人に
「玲奈にちかづいてみる。別人にろうと思う」と告げた。
私が言うと、麻衣はコーヒーカップを持ったまま止まった。「妻だと知られない形で?」
「うん」
「目的は?」
「本人の状況を知りたい。亮平から何を聞かされているのか。既婚だと知っていながら、どう自分の中で正当化しているのか」
麻衣はすぐには返事をしなかった。目線だけを落とし、
カップの中の氷を見ている。
「……紗季。それ、かなり危ないこと考えてる自覚ある?」
「ある」
「玲奈にバレるだけじゃない。亮平さんに繋がるかもしれない。調査そのものを警戒される可能性だってある」
「わかってる」
「じゃあ、どうして」
私は一度だけ息を整えた。
「証拠だけで終わらせたくない」
麻衣が目を上げる。
「証拠は必要。南條さんに頼む。そこは任せる。
私は亮平の言葉だけで形を変えられた妻として、玲奈の中に存在している。だったら、一度くらい、その女の目の前に立ちたい」
「妻として?」
「違う。妻として立てば、玲奈は構える。本音は絶対に出さない」
「だから別人で」
「うん」
「紗季、それは危険だよ」
実際、やろうとしていることはリスクが大きい。相手の警戒心を刺激せず、相手が安心して話せる場所まで近づき、自分の正体を明かさずに会話を重ねる。生半可な気持ちでやるものではない。
「南條さんには相談する」
「相談じゃなくて、止められたら止まるくらいの覚悟で聞いて」
「……わかった」
「絶対?」
「絶対」
麻衣はそれを聞いて、ようやく少し肩の力を抜いた。
「じゃあ私も同席する。これは一人で決めていい話じゃない」
南條に相談したのは、その二日後だった。
前回と同じ喫茶店。平日の午前。
亮平は会社、子どもたちは学校。
連絡はすべて古いスマホ。
会う時間も、亮平に知られようのない範囲に収めている。
南條は私の話を聞き終えると、すぐには答えなかった。
テーブルの上に置いたペンを一度持ち上げ、また戻す。
それから、ゆっくり口を開いた。
「可能か不可能かで言えば、可能です」
麻衣が小さく息を吸った。
「ただし」
と南條は続ける。
「思いつきで動けば、ほぼ失敗します」
「玲奈さんは、ご主人と関係を続けながら今まで表面化させていない。つまり、少なくとも日常の振る舞いは慎重な方です。おかしな偶然には気づく可能性がある」
「では、どうすれば」
「相手が自然だと感じる文脈の中に入る必要があります。
急に近づいてくる誰かではなく、玲奈さんの生活線上に、
最初からいても不思議ではない人物になる」
偽名を作るだけでは足りない。
服を変えるだけでも足りない。
玲奈にとって、その人と出会うこと自体が
自然に見えなければならない。
「SNSで直接メッセージを送るのは?」
南條は首を横に振った。
「現時点では避けた方がいい。突然の接触は記録が残りすぎますし、玲奈さん側が調べる理由にもなる。
むしろ、先に薄い存在感を作る。
もし玲奈さんが何かしらのコミュニティやイベントに出入りしているなら、そこで一度目の接触を作る方が自然です」
「会う前に、存在を作る」
「そうです」
南條はメモを取りながら続けた。
「仮の人物を設計するなら、最低限必要なのは四つです」
名前
外見
会った瞬間に別人だと認識されない程度ではなく、
調べられた時に一致しない程度まで。
話しても破綻しない経歴
嘘だけで作るより、自分が扱える領域に寄せた方が崩れにくい。
ネット上に薄く存在する痕跡
何も出なさすぎると、逆に不自然になる。
麻衣が眉を上げた。
「何も出ないと逆に怪しい?」
「場合によりますが、玲奈さんが交流会などで会った相手をSNSで探すタイプなら、まったく存在しない人は少し不自然です。逆に、情報が多すぎると整合性の管理が難しくなる。薄く、自然に」
私はその言葉を心の中で繰り返した。
薄く、自然に。
亮平の嘘は、装飾が多すぎた。
本屋。懇親会。二次会。取引先。私はその逆を行く。
嘘を増やさない。必要な輪郭だけを作る。
「外見は、どの程度変えるべきですか」
南條は一瞬考えてから答えた。
外 見 設 計
髪
地毛を染めると家庭内で変化が目立つ。
ウィッグが現実的。暗めの栗色か、やや赤みのあるブラウン。長さも変える。前髪の有無も重要。
眉
眉で印象がかなり変わる。ナチュラルで直線的な眉なら、
仮の人物では柔らかいアーチに。
目元
カラコンは検討していい。
眼鏡は補助。眼鏡だけで隠れると思わないこと。
服装
普段の私が選ばないもの。色、素材、靴、バッグ。
全身で別人に見えるように。
声と話し方
外見より、会話で違和感を持たれることがある。
少し低い声で、ゆっくり、相手の発言を待つ。
演じすぎると逆に浮く。その人として自然であること。
麻衣が笑う
「なんだか本当に別人になるね」
「その必要があります」
私はそう答えていた。自分でも、声が少し変わっているのを感じた。もう迷っていない声だった。
「大事なのは、演じすぎないことです」
「別人らしさを出そうとして作り込みすぎると、逆に浮く。あくまでその人として自然であること」
そこまで話してから、南條は別の資料を取り出した。
桐島玲奈の公開情報を簡潔にまとめたものだった。
イベント名。開催場所。過去の参加者写真。
玲奈らしき人物が写る集合写真。
「玲奈さんは、月に一度程度、女性向けのキャリア交流会に参加している可能性があります」
「そこに行く」
私が呟くと、南條はすぐに制した。
「まだです」
「まず、その場にいて不自然でない人物像を固めます。次回開催は数週間後だと思います。日にちはまた調査します。SNSアカウントも、その場へ行く前に育てる必要がある」
「育てる」
「はい。直前に作られたアカウントは、調べる人には不自然です。少なくとも数週間前から存在していたように見える必要がある。テーマは一貫させる。女性の働き方、企画、広報、言葉の選び方。玲奈さんが興味を持ってもおかしくない内容です」
交流会。
そこに行けば桐島玲奈に会える。
まずは外見を作る。SNSの痕跡を作る。
話し方を整える。交流会の参加動機を組み立てる。
玲奈と会った時、何を話し、何を話さないかを決める。
そして、焦らない。最初から不倫の話になど行かない。
むしろ、最初は印象だけを残す。
「名前は」
南條が尋ねた。私は少しだけ間を置いた。
高 瀬 律 子
フリーランス・企画編集
元・広告制作会社勤務 三十代前半
麻衣が小さく繰り返す。
「高瀬律子」
南條は資料にその名を書き留めた。
「職業設定は?」
「フリーの企画編集。企業広報の外注案件や、女性向けメディアの構成を手伝っている。以前は広告代理店系の制作会社にいた、という程度でどうでしょう」
「話せる範囲に近いですね」
「はい。嘘だけで作るより、自分が扱える領域に寄せた方が破綻しにくい」
「いいと思います」
麻衣が私を見る。
「高瀬律子、ちゃんと生きられる?」
私は少しだけ笑った。
その日の帰り、私は駅ビルの化粧品売り場へ寄った。
買い物をするためではない。まず見るためだ。
自分の顔を、どこまで変えられるのか。
どんな色が普段の私から離れ、なおかつ不自然ではないのか。
鏡の前で立ち止まり、顔を見た。
藤堂紗季。
三十七歳。
二児の母。薬局の事務。
裏切られた妻。
見慣れた顔なのに、今は少し他人のようだった。
ここから、私は一人の女を消す。
完全ではない。私自身は消えない。
けれど、玲奈の前に現れる時だけは、
藤堂紗季であってはいけない。
美容部員が
「何かお探しですか」と近づいてきた。
「少し見ているだけです」
と答えながら、私はファンデーションのサンプルに指を触れた。普段より一段明るい色。
普段より少し艶のある質感。藤堂紗季が選ばない色だった。
それでいい。それがいい。
家に帰ると、亮平はまだ戻っていなかった。
子どもたちは宿題を終え、テレビを見ていた。
私は夕飯を作り、風呂を沸かし、いつもの母親を続けた。
美月が
「今日のおかず何?」
悠真が
「パパ今日遅い?」
と聞いてくる。私はどちらにも笑顔で答えながら、
頭の中では高瀬律子の輪郭を少しずつ整えていた。
表の私は、今日も母親だった。
子どもの声に応じ、夕飯を作り、風呂を沸かす。
けれど、その奥で、
誰も知らない女が静かに産声を上げていた。
夜、子どもたちが寝たあと、
古いスマホに南條からメッセージが届いた。
南條
次回交流会の資料を送ります。高瀬律子のSNS設計案も簡単にまとめます。実際の運用は慎重に。投稿開始は来週月曜からが自然です
私は画面を見つめた。もう、設計は始まっている。
高瀬律子。
その名前はまだ、誰の記憶にもない。
玲奈に近づくために、私はまず自分を消す。
夫の愛人の前に立つために、
妻でも母でもない、存在しなかった女を育てていく。
桐島玲奈は
その女を自分のスマホに保存することになる。
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