第十章 浮気相手の身元
夫の浮気相手が誰なのか…
どこで知り合ったのか…
いつから始まったのか…
名前がわからないうちは、怒りさえ宙に浮いていた。
金曜の夜、亮平とホテルへ入った女。
日曜の朝、車で迎えに来て、
夫を自分の部屋らしき場所へ連れていった女。
私は女のその横顔も、歩き方も、夫を見つめる顔も
笑う時に少し首を傾ける癖も、もう知っている。
名前がないものは、責任を負わない。
こちらがどれだけ傷ついても、相手はただの誰かのままでいられる。その曖昧さが、私には耐えがたかった。
火曜日、正午前
薬局の休憩室で弁当を半分ほど食べたところで、
古いスマホが震えた。南條からだ。
南條
相手の身元がわかりました。連絡取れますか
周囲を見る。同僚の一人は給湯室に立っていて、
もう一人はスマホで動画を見ながらパンを食べている。
私の手元を気にする人はいない。
それでも、いつものスマホを開くふりをしてから、
テーブルの下で古い端末に短く返した。
紗季
15分後連絡します
その後の十五分が、妙に長かった。
弁当の唐揚げを口に入れても味がしない。
壁の時計の秒針だけが、耳障りなほど大きく聞こえる。
身元がわかる
それは前進のはずだった。
なのに、どこかで怖がっている自分もいた。
名前を知れば、もう知らないふりはできない。
女は輪郭を持ち、生活を持ち、亮平の嘘の中に具体的な居場所を持つことになる。
それでも私は、知らなければならなかった。
十二時四十三分、
私は休憩室を出た。薬局の裏にある非常階段。
コンクリートの壁、午前と午後の間の、少し眠たげな光。
その踊り場で着信を待つ。
十二時四十五分
古いスマホが震えた。
「藤堂さん、今大丈夫ですか」
「はい」
「では、報告します。先日確認した女性ですが、
身元はほぼ特定できました」
私は息を浅くした。
「名前は
桐島 玲奈
二十九歳 同社・営業企画部
その名前は、初めて聞いたはずなのに、
奇妙なくらいすんなりと胸の中に落ちてきた。
玲。
以前、食卓で亮平が言いかけた一音。
「玲……いや、連絡も多くて」
あの不自然な言い直し。あれは、この女の名前だったのだ。「……桐島玲奈」
私は口の中で、ゆっくり繰り返した。
名前を声に出すと、不思議なほど現実になる。
あの店の前で笑っていた女。
ホテルへ入る前に亮平を見上げた女。
日曜の朝、白い車を運転していた女。
それらがすべて、一人の人間へ収束していく。
「確認の根拠は?」
「複数あります。ご主人と同じオフィスビルへの出入り。
会社の公開資料に掲載されている顔写真。
展示会レポート、社員紹介記事、イベント告知ページ。
昨日と今朝の動きも確認しています。
外見、勤務先、行動範囲から見てまず間違いないでしょう」
私は目を閉じた。
やはり、会社の女だった。薄々そう思っていた。
金曜の夜の合流の自然さ。
日曜朝の時間の合わせ方。亮平の仕事の予定と、
彼女の生活が妙に噛み合いすぎていた。
職場で毎日顔を合わせ、誰にも気づかれないように
関係を育てていたのだろう。
「彼女は、亮平が既婚者だと知っていると思いますか」
私の声は、自分でも驚くほど低かった。
南條はすぐには答えなかった。
「断定は慎重にすべきですが、知らなかったと考える方が不自然ではあります」
「理由は」
「同じ会社で、ご主人は課長職。社内の人間関係も広い。
加えて、公開されている社員インタビューの中で、二児の父として家庭と仕事を両立したいという趣旨の発言をしています」
私は一瞬、言葉を失った。そんな記事があったのか。
「二児の父として、家庭と仕事を両立したい。チームの皆が安心して働ける環境をつくることが、今の自分の課題だと思っています」
会社採用ページ掲載、数年前のインタビュー記事より。
顔写真付き。
その男が、日曜の朝に女の車へ乗り込み、
金曜の夜にはホテルへ消えている。
会社の広報では家庭的な管理職を演じ、
家では良き父親を演じ、女の前では妻に満たされない男でも演じているのか。
どれだけ仮面を持てば気が済むのだろう。
「では、桐島も……」
「知っていた可能性は高いです。
ただし、法的にその点を主張するなら、
より裏付けが必要になる場合もあります。
ご主人が彼女に家庭の話をしている形跡、
社内で家族構成が周知されている状況、会話記録などです」
わかっている。
可能性と証明は違う。
それでも、心の中ではもう一つ決まっていた。
桐島玲奈は、少なくとも知らずに巻き込まれた無垢な女ではない。
妻子持ちの男と何度も会い、休日の朝に自宅へ迎え、
ホテルにも入っている。
そこに悪意がなかったとしても、無関係ではいられない。
「彼女は、私の顔を知っているでしょうか」
その質問をした時、南條の声がわずかに変わった。
「それについては、今のところ知る材料はありません。
ただ、ご主人の公開記事にもご家族の顔写真はありませんし、会社の家族イベントなどに奥様が頻繁に出ていた記録も確認できていません」
「私はほとんど行っていません。会社関係の集まりは、
子どもが小さい頃に一度だけ」
「でしたら、知らない可能性は十分あります」
知らない。
その言葉が、胸の中で静かに広がった。
桐島玲奈は、亮平が既婚者であることは知っている。
子どもがいることも、たぶん知っている。けれど
妻がどんな顔をしているのかは、知らない。
その事実に気づいた瞬間、
目の前の世界が少しだけ違って見えた。
彼女は私を、存在しないものとして扱っている。
夫の口から語られる妻という記号でしか知らない。
どんな声で話すのか。
どんな服を着るのか。
どんな表情で子どもたちを送り出しているのか。
何を考えながら亮平のシャツを洗い、弁当を作り、
夜を待っているのか。
何も知らない。そして、知らないからこそ
近づける。
桐島玲奈は、私を知らない。
ならば私は、彼女が警戒しない
別の誰かとして、彼女の前に立てるかもしれない。
亮平が私を彼女の世界に入れなかった理由はわかる。
私は家の側の存在。日常を管理する妻。
子どもたちの母親。亮平の生活を整えておく人。
桐島玲奈の前に私を見せる必要などなかったのだろう。
見えなければ、罪悪感も薄まる。
妻を抽象的な存在にしておけば、自分たちの関係を正当化しやすい。
「家庭はもう冷めている」
「子どものために形だけ続けている」
「妻は俺に関心がない」
亮平がどんな言葉で私を説明しているのか、
まだわからない。でも、ひとつだけ確かなことがある。
桐島玲奈が信じている妻は、私ではない。
「藤堂さん?」
「……いえ。大丈夫です」
「何か引っかかりましたか」
「少し、考えたいことができました」
南條は深く踏み込まず、淡々と告げた。
「わかりました。現時点で共有できる資料は、
麻衣さんにも送っておきます。
今後の方針としては、桐島玲奈の居住実態確認と、
ご主人との接触の継続証拠を優先します」
「お願いします」
「焦らず進めましょう。ご主人も相手女性も、
今はまだ警戒していない。その状態が、いちばん価値があります」
通話を終えても、私はしばらくその場を動けなかった。
非常階段のコンクリートの壁。
午前と午後の間の、少し眠たげな光。
何も変わらない昼の、何も変わらない場所で、
私の復讐に、ひとつの別の道が生まれていた。
休憩時間が終わる直前、麻衣からメッセージが届いた。
麻衣
資料見た。桐島玲奈、会社の女だったね
13:02
紗季
うん。思ってた通り
13:04
麻衣
大丈夫?
13:04
紗季
大丈夫。ただ、考えたいことがある
13:05
麻衣
何?
13:05
紗季
ちょっと整理する。
13:06
麻衣
……紗季、何考えてる?
13:07
その問いに、私はすぐには答えなかった。
何を考えているのか。
自分でも、まだ完全には形になっていない。
ただ、証拠を集めるだけでは足りない気がしていた。
ホテルへ入る写真。日曜朝のマンション。
探偵の報告書。それらを積み上げれば、
亮平と桐島玲奈を法的に追い詰めることはできる。
でもそれだけじゃ足りない。
亮平が私をどんな妻に仕立てているのか。
桐島玲奈がどんな言葉で、その不倫を自分の中で正当化しているのか。
二人が、家庭を踏みにじる行為をどんな甘い物語に変換しているのか。
それを知らないまま断罪することに、
私はどこかで納得しきれなかった。
紗季
まだ考えだけ。後で話す
13:09
麻衣
変なこと一人で決めないでよ
13:09
紗季より
わかってる
13:10
麻衣
絶対ね
13:10
スマホを伏せ、私は仕事へ戻った。
受付カウンターに立ち、処方箋を受け取り、
患者の名前を確認する。
いつも通りの午後が流れていく。声を出す。
お辞儀をする。何も変わっていない顔で、
何も変わっていない時間を過ごす。
けれど、頭の奥ではひとつの扉が開いたままだった。
桐島玲奈は、私を知らない。
夫の妻である私を。子どもたちの母親である私を。
不倫の代償を引き受ける側に置かれている私を。
ならば私は、彼女に会うことができる。
妻としてではなく。被害者としてでもなく。
彼女が警戒しない、別の誰かとして。
その夜、亮平はいつも通り帰宅した。
「ただいま」
「おかえり」
笑顔で迎えながら、私はその顔をまっすぐ見た。
この人はまだ知らない。
自分が隠していた女の名前を、
私がもう知っていることを。
そしてその女が、
私の顔を知らないという事実が、
これから何を呼び込むのかを。
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