第九章 日曜日の行方
日曜日の朝、私はいつも通り眠ったふりをした。
もう、夫の寝息を聞いて安心することはなかった。
隣で規則正しく呼吸している男が、
金曜の夜には別の女とホテルに入り、
笑いながら嘘を重ねていた。
その事実を知ったあとでは、
同じベッドの上にいることさえ不快だった。
以前なら、亮平が少し寝返りを打つだけで
目が覚めても、私はまた眠りに戻れた。
けれど今は違う。
隣にいるのは夫ではなく、まだ全容の見えない人物だった。十二年一緒に暮らしてきた。
好物も、機嫌の悪い時の癖も、
洗面所でタオルを雑に使うことも知っている。
なのに私は、この人がどんな顔で嘘をつき、
どんな気持ちで家庭へ帰ってきていたのかを知らなかった。
知っているようで、何も知らなかったのかもしれない。
午前五時五十分
枕元で、亮平のスマホが一度だけ震えた。
いつものごとく着信音は鳴らない。
バイブレーションだけ。
けれど彼は、ほとんど間を置かず目を覚ました。
待っていたのだ。
私は呼吸の速度を変えず、まぶたも動かさなかった。
亮平は上体を起こし、スマホを手に取る。
画面を確認したのは二秒ほど。
すぐに置き直し、ベッドから降りた。
クローゼットを開ける音。ウェアを取る音。
洗面所へ向かう足音。
その一つひとつが、今では別の意味を持って聞こえる。
健康のためのジョギングではない。
家族の眠る朝に、女へ会いに行くための支度。
それでも亮平は、いつも通り丁寧だった。
私を起こさないよう静かに動き、子ども部屋をのぞき、
悠真の布団を直し、美月の枕元に落ちたぬいぐるみを拾ってやる。
その姿だけを見れば、誰も責められない。
良い父親。優しい夫。家族を大切にする男。
でも私はもう知っている。
人は、ひとつの顔だけで生きているわけではない。
亮平は父親でありながら、不倫相手に会う男でもある。
その二つを切り分け、どちらにも破綻を見せずに生きようとしている。
なんて傲慢なのだろう。
子どもの寝顔を見てから女に会いに行くことで、
何かが浄化されるとでも思っているのか。
私は心の中で、静かに切り捨てた。
もう、その演技に揺らされない。
六時四分
玄関のドアが閉まった。
私はすぐには動かなかった。十秒。二十秒。三十秒。
エレベーターが下りていく低い振動を待つ。
それが消えてから、布団を抜け出した。
今日、私自身は追わない。南條が動いている。
昨夜まで、その事実はどこか現実離れしていた。
けれど今、夫がジョギングへ出たこの瞬間、
あの人もどこかで亮平を見ている。
私の代わりに。私よりずっと遠くから、ずっと正確に。
私はリビングへ行き、カーテンを指一本分だけ開けた。
マンション前の歩道はまだ薄暗い。
空は曇っていて、街全体が灰色に沈んでいる。
六月の、湿った朝の匂いがした。
いつものように、亮平の姿は正面には現れなかった。
私はノートに書く。
六時四分、外出。正面歩道に姿なし。
そこまで記して、ペンを置いた。
今日は、その先を私が追う必要はない。
それがどれほど大きなことか、書いてから気づいた。
私はずっと一人で全部を抱えていた。
見ることも、判断することも、黙ることも、
すべて自分の役目だった。
けれど今日は違う。
どこかで、同じ時刻を記録している人間がいる。
それだけで、孤独の重さが少し変わった。
七時五十二分
亮平は帰ってきた。
「ただいま」
玄関から聞こえる声は、いつも通りだった。
私はキッチンでスクランブルエッグを作っていた。
フライパンの中で卵が固まり始めている。
珈琲の匂いと、焼けた卵の匂いが混ざる、
何でもない日曜の朝の匂い。
「おかえり」
振り返ると、亮平は首にタオルをかけていた。
額にはうっすら汗。呼吸は整っている。頬も少し赤い。
前なら、走ってきたのだと思っただろう。
今は、見せるために整えた状態に見えた。
「今日は涼しくて走りやすかった」
「そうなんだ」
「川沿い、人少なくて気持ちよかったよ」
川沿い。私はその言葉をそのまま受け取ったふりをする。
「よかったね」
亮平は笑った。何も疑われていない男の笑顔だった。
朝食の席で、悠真が聞いた。
「パパ、今日も走ったの?」
「走ったよ」
「どこまで?」
「川の橋のところまで」
「すごいね」
悠真は本気で尊敬した顔をした。
その横で、美月が黙ってトーストをかじっていた。
何も言わない。
けれど彼女の視線が、
一度だけ亮平の靴下に落ちたのを私は見た。
大人の嘘は、子どもに見せない努力をしているつもりでも、少しずつ漏れていく。
そして子どもは、それを言葉にできないまま
受け取ってしまう。
絶対に、この子たちを長くこの嘘の中に置かない。
私はその時、はっきり決めた。
朝食後、亮平はソファで新聞アプリを見ていた。
悠真は床でブロックを広げ、
美月はダイニングで宿題をしている。
一見、静かな休日の朝。
私は洗濯物を干すふりでベランダへ出た。
人目につかない位置で、古いスマホを確認する。
通知はない。当然だった。
南條とは、原則としてご主人のいない時間帯に連絡を取ることになっている。
わかっている。
それでも、何か一言入っていないかと期待してしまう。
人は知っていることでも、確かめたくなる。
私はスマホを閉じた。報告は明日。
そう決めて、リビングへ戻った。
月曜日、午前十一時十八分
パート先の休憩室で、古いスマホが震えた。
南條からだった。
同僚が雑誌をめくりながら弁当を食べている横で、
私は一度スマホを伏せ、平静を保ったままお茶を飲んだ。
同僚が席を外したタイミングで、短く返す。
南條篤
昨日の行動確認、報告可能です。
今日、十二時半から短時間なら電話可。
難しければ文面で送ります
11:18
紗季
十二時半、電話可能です
11:24
送信したあと、胸の奥が重くなった。
昨日の二時間に、答えがつく。
昼休憩に入り、私は裏口近くの小さな非常階段へ移動した。
人が来ないことを確認してから、古いスマホを手に取る。
コンクリートの壁、遠くで走る車の音、薬局の裏口から段ボールを運ぶ音。
何も変わらない昼の音の中で、私だけが息を詰めていた。
十二時半ちょうどに、南條から着信があった。
「藤堂さん、今お話しできますか」
「はい」
「では昨日のご主人の行動を、確認できた範囲で
お伝えします」
「お願いします」
南條の声は落ち着いていた。感情を煽らない。
余計な形容もつけない。事実だけを、順番に置いていく。
「ご主人は六時四分にご自宅を出ています。
ランニングウェア姿でした。正面道路には出ず、
マンション裏手の通路を使って南側へ移動しました」
やはり。
「その後、どうしましたか」
「二百メートルほど歩いた後、短くジョギングのような動きを見せています。ただし継続はせず、住宅街の一角にある月極駐車場の近くで立ち止まりました」
月極駐車場。頭の中に、靴底の白い粉のことが浮かんだ。
「そこで、何を?」
「はい。六時十二分頃、女性が運転する白いコンパクトカーが到着。ご主人は周囲を一度確認した後、
その車の助手席に乗車しました」
「その女性は……」
「金曜夜にホテルへ入った女性と、外見上は同一人物に見えます。後ほど写真を共有します。
ただし最終的な同定は、もう少し材料を重ねます」
喉の奥が詰まった。やはり、あの女だった。
金曜の夜だけではない。日曜の朝も。
夫が家族の寝顔を見てから向かっていたのは、
あの女のところだった。
「車はどこへ?」
「ご自宅から車で約十五分。低層マンションの前で停車しました。女性が先に降り、ご主人が少し間を置いて続きました。二名は同じエントランスから建物内へ入っています」
「そのマンションは……女性の自宅ですか」
「現段階では断定できません。ただ、女性が鍵を使って入ったことは確認しています。
住居、または本人が自由に出入りできる場所である可能性は高いです」
私は目を閉じた。どこか一つの室内へ、
繰り返し出入りしている。
「滞在時間は?」
「六時二十五分頃に入室。七時二十九分頃に退室。
約一時間です」
一時間…短い。そんな短い時間でも会いたいのか
「退室後、二名は再び同じ車へ。
ご主人は自宅近くの裏道で降車しました。
七時四十一分頃です」
南條はそこで少し間を置いた。
「その後、ご主人は数分だけ小走りで移動し、自宅へ戻っています」
私は、何も言えなかった。
だからか。
帰宅時、額にうっすら汗があり、頬が赤く、走ってきたように見えたのは。
本当に少しだけ走っていたのだ。家へ戻る直前だけ。
それは健康のためでも、気分転換でもない。
妻を騙すための数分だった。
石膏系の白い粉
屋外土砂ではない、屋内由来の粉体。
室内用のカーペット繊維、濃紺、ウール系。
洗濯直後なのに体温のなかったタオル、水で作った汗。
帰宅時だけ乱れていた呼吸、裏道で数分、走った。
すべてが、ひとつの場所へ向かって収束していた。
「藤堂さん」
「大丈夫ですか」
「……はい」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「今の報告を聞いて、予想と違う部分はありましたか」
「いえ。むしろ、いくつか腑に落ちました」
「靴や衣類の件ですか」
「はい」
「でしたら、昨日の動きは今後の調査にかなり役立ちます。金曜夜はホテル、日曜朝は特定の建物。会う場所を複数使い分けている。つまり関係は一時的なものではなく、ある程度固定化している可能性が高い」
固定化。
その言葉が、胸の内側を硬く叩いた。
一度の過ちではない。
酔った勢いでもない。生活の中に組み込まれた不倫。
金曜日の夜。日曜日の朝。
家族の予定を壊さないように見せかけながら、
家庭の隙間に女を置いていた。
どれだけ用意周到なのだろう。
そして、どれだけ私たちを軽んじているのだろう。
怒りで視界が白くなる、というのはこういうことかもしれない。
声は出なかった。涙も出なかった。
ただ、全身の血が一度冷えて、それから静かに煮え始めた。
通話を終えたあと、私はしばらく非常階段に立っていた。
遠くで車の走る音がする。
薬局の裏口から、段ボールを運ぶ音が聞こえる。
何も変わらない昼だった。
けれど、私の世界はまた一段変わった。
しばらくして、南條から写真が届いた。
月極駐車場に停まる白いコンパクトカー。
助手席へ乗り込む亮平の後ろ姿。
低層マンションのエントランスへ向かう二人。
女が鍵を開ける瞬間。少し距離を空けて続く亮平。
自宅近くの裏道で車を降りる夫の姿。
写真の中の亮平は、どこか安心した顔をしていた。
自分の嘘が、今日も成功したと思っている顔だった。
私は画面を閉じた。
もう十分だ。夫は、ただ不倫をしているのではない。
家族の生活時間を計算し、子どもの寝息のすぐ隣で、
別の女との習慣を育てている。
その事実は、どんな謝罪でも薄まらない。
麻衣
見たよ。これはもう、確信犯だね。
13:12
紗季
うん。私もそう思う
13:14
麻衣
ここからが正念場だよ。
13:15
紗季
わかってる。
13:16
薬局へ戻った。休憩時間は終わる。
患者は来る。処方箋は積まれる。
私はいつも通り受付に立つ。笑顔を作る。
「お待たせしました」
何も変わっていない顔で、
何も変わっていない午後を過ごす。
けれど、もう以前の私ではない。
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