第9話 剥き出しの愛と無音の宣誓
俺はたまらず、ベッドから這い出した。
スマホを掴み、病院に電話をかけようとして指が止まる。もし今、本当の「最悪」を聞かされたら? その確認をすることが、彼女の死を確定させてしまうのではないか。
「……クソッ!」
俺は着替えもそこそこに、部屋を飛び出した。
階段を駆け降り、駐輪場へ向かう。自転車の鍵を開ける手さえ、自分のものではないように震えていた。
冷たい夜風を切り裂きながら、俺はまだ暗い国道を病院へとひた走った。
真凛とのノートは、バッグの中で重く揺れている。
真凛は今、数時間後に控えた大会のために、束の間の眠りについているはずだ。彼女は信じている。自分が大会で勝ち、ドナーになるまで、冴姫は待っていてくれると。
(待ってろ、冴姫……。まだ、行くな……!)
坂道を一気に駆け上がり、視界が開ける。
闇の中にそびえ立つ、巨大な大学病院のシルエット。その数多の窓の中で、冴姫がいる階の、あのあたりにだけ、吸い込まれるような白光が灯っているのが見えた。
守衛に止められることも構わず、俺はエントランスへと滑り込む。
消毒液の匂いが、夢の中の石鹸の香りを無慈悲に塗りつぶしていく。
エレベーターを待つ時間が惜しくて、俺は非常階段に手をかけた。
一歩、また一歩。
一段飛ばしで駆け上がるたびに、真凛のひたむきな努力と、冴姫の絶望的な孤独が、俺の胸の中で激しく衝突する。
屋上の手前、重い扉を突き破るようにして、俺は血液内科のフロアへと飛び出した。
「……ハァ、ハァ……っ!」
廊下の突き当たり。ナースステーションの周りが、異様に騒がしい。
走り回る看護師たちの足音。低く響く、モニターの警告音。
そして、その中心にある無菌室のガラス越しに。
俺は、崩れ落ちるように泣き叫ぶ冴姫の母親の背中を見た。
「ダメです、入らないでください!」
「どいてくれ、頼む……! 冴姫! 冴姫――!!」
駆け寄る看護師の制止を強引に振り切り、俺は無菌室の強化ガラスに、砕けんばかりの勢いで縋りついた。
その向こう側にいたのは、俺の知っている冴姫ではなかった。
真っ白なベッドの上で、無数の管に繋がれ、苦しげに喘ぐ小さな影。かつて俺が愛した美しい黒髪は消え、無惨に剥き出しになった頭が、死の淵に立たされていることを残酷に物語っている。
酸素マスクの中で、唇は紫色に変色し、見開かれた瞳はどこにも焦点を結んでいない。
「……あ、あ……」
一瞬、絶望に膝が折れそうになった。あまりにも無慈悲な現実に、脳が拒絶反応を起こす。
だが、その時。モニターの警告音が、さらに激しさを増した。
「冴姫、聞こえるか! 俺だ、優だ!!」
ガラスを拳で叩き、俺は喉が裂けるほどの声を上げた。看護師たちが俺の腕を掴み、引き離そうとする。
「離せ! 冴姫に、伝えなきゃいけないことがあるんだ!!」
俺は必死に踏ん張り、歪んだ視界の中で冴姫の名前を呼び続けた。
変わり果てた姿になっても、ボロボロになっても、そこにいるのは俺が人生で唯一愛した女性だ。その事実だけが、俺の心を突き動かしていた。
「冴姫! 愛してる! 世界で誰よりも、お前を愛してるんだ!!」
俺の叫びに反応したのか、一瞬、モニターの波形が跳ねた。
彼女の指先が、シーツの上で微かに動く。
「だから、まだ行くな! 待ってろ! 今、真凛が……真凛が、お前を助けるために戦ってるんだ! あいつ、自分を極限まで追い込んで、全部を懸けて泳いでるんだよ!」
俺はガラスに額を押し当て、熱い涙を流しながら叫び続けた。
「真凛の型が適合したんだ! あいつが、お前に自分の骨髄を分けるって言ってる! 大会が終わったら、すぐにお前のところへ行くって……! だから、あいつの努力を無駄にするな! 今死んだら真凛は……っ!」
「やめてください!」
ついに数人のスタッフに抱えられ、俺の身体は廊下へと引きずり出されていく。
視界から、白い部屋が遠ざかる。
「冴姫――!! 生きろ!! 真凛を信じろ!!」
遠ざかる意識の端で、俺は見た気がした。
ガラスの向こう。
死の影に覆われた冴姫の瞳から、一筋の涙が、こめかみへと伝っていくのを。
俺は廊下の床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
俺にできるのは、この地獄のような現実の中で、二人の奇跡を祈ることだけだった。
―――――――――――――――――――
病院からそのまま駆けつけた俺は、朝の冷たい空気が残る大会会場の入り口に立っていた。
一睡もしていない。喉は枯れ果て、目の奥は焼けるように熱い。けれど、冴姫のあの涙を見た後では、立ち止まることなんて許されなかった。
会場内は、全国への切符を狙う選手たちの熱気と、独特の塩素の匂いで満ちている。
人混みをかき分け、選手控室の近くで俺は彼女を待った。
「……優」
不意に名前を呼ばれ、振り返る。
そこにいたのは、ジャージに身を包んだ真凛だった。
髪は短くまとめられ、その表情には一切の迷いがない。けれど、俺の顔を見た瞬間、彼女の眉が微かに動いた。俺の酷い顔を見て、何かを察したのかもしれない。
「……真凛」
「言わなくていいよ。……今は、何も」
真凛は俺の言葉を制するように、掌をこちらに向けた。
彼女の目は、恐ろしいほど澄んでいる。
「全部、終わってから聞く。冴姫のことも、あんたが今、何を言いたいのかも」
彼女は一歩、俺に歩み寄った。
その身体からは、すでに戦闘準備を終えたアスリート特有の、研ぎ澄まされたオーラが放たれている。
この一戦に、彼女は水泳選手としての全人生を懸けている。そしてその直後には、親友の命を救うための「ドナー」としての過酷な道が待っている。
彼女が背負っているものの重さに、俺は胸が詰まった。
「……真凛。俺は――」
「応援、しなくていい。見ててくれるだけでいいから」
真凛はそう言うと、踵を返してプールサイドへと続く通路に向き直った。
だが、その背中が止まる。
彼女は振り返らずに、けれど、はっきりとした声でこう告げた。
「……このレースが終わったら、話があるの。アタシの本当の気持ち、全部。……だから、絶対に逃げないで聞きなさいよ」
その言葉を最後に、真凛は光の射すプールサイドへと消えていった。
会場に、レース開始を告げる無機質なブザーが鳴り響く。
それが、彼女たちの運命を決定づける最後の戦いの合図だった。




