第8話 幻の海、最後の約束
大会前日。
大学の屋内プールは、夜を過ぎても熱気がこもっていた。一般開放が終わり、静まり返った水面に、真凛の激しい水飛沫だけが規則正しく刻まれている。
「……っ、は、ぁ……!」
ターンを決めて、彼女が再び水の下へ消える。
俺はプールサイドのベンチで、彼女が指定したタイムとラップを刻んだノートを握りしめていた。スポーツドリンクのボトル、アイシング用の氷、そして彼女の心を繋ぎ止めるための、ほんの少しの雑談。それが、今の俺にできる唯一の「サポート」だった。
「……真凛、今のラップ。自己ベストに近いぞ」
プールから上がってきた真凛の身体は、極限まで絞り込まれ、まるで研ぎ澄まされた刃物のようだった。肩で息をしながらも、彼女の瞳には鋭い闘志が宿っている。
「……当たり前、でしょ。アタシが負けるわけ、ないんだから」
彼女は俺から受け取ったタオルで顔を拭うと、ふらつく足取りでベンチに座った。
指先をよく見れば、塩素でふやけ、小刻みに震えている。
「無理しすぎるなよ。大会前に壊れたら元も子もない」
「……わかってる。でも、今、止まったら……全部怖くなりそうで」
真凛はそう言って、俺の肩に、ほんの一瞬だけ頭を預けてきた。
濡れた髪の冷たさと、それとは対照的な、爆ぜるような熱を持った身体の温度。
彼女はこの一週間、一度も冴姫の病状を尋ねてこなかった。その沈黙は、彼女なりの「覚悟」なのだと俺には分かった。
大会で結果を出し、すべての義務を果たしてから、冴姫を救いに行く。その一点だけを信じて、彼女は今、自分を追い込んでいる。
「……ねえ、優。アタシが勝ったら、何か奢ってよね。イチゴオレじゃなくて、もっと高いやつ」
「ああ、何でも奢ってやるよ。最高級の焼肉でも何でもな」
「……ふふ、馬鹿。そんなの、食べたら太っちゃうじゃん」
暗いプールサイドで、真凛が小さく笑った。
その笑顔は、明日への希望に満ちていて、この過酷な現実の中で唯一の救いのように見えた。
「――よし。あと一本、ラスト!」
彼女は再び、光り輝く水の中へと飛び込んでいった。
力強いストローク。水面を叩く音。
俺たちは、信じていた。この努力の先に、誰もが救われる未来があると。
だが、同じ夜。
その「光」から数百メートル離れた、巨大な白い塔の中では。
同じ頃――大学病院、無菌室。
外の夏を拒絶するように冷やされた白い部屋に、湿った、苦しげな吐息が漏れていた。
冴姫は身体を小さく折り曲げ、無機質なステンレスの容器に顔を埋めた。胃の底から裏返されるような激しい痙攣が、容赦なく彼女の細い喉をせり上がってくる。血管に流し込まれた抗がん剤が、身体中の細胞を焼き尽くしていくような感覚。
「……っ、は、ぁ……」
ようやく波が引いたとき、額に張り付いた髪を払おうとした彼女の手が、空中で止まった。
震える指の間から、力なく、黒い束がするりと滑り落ちた。
純白のシーツの上に散らばる、かつて優が「綺麗だね」と笑ってくれた、艶やかな黒髪。
「……嘘」
冴姫は自分の両手を見つめた。麻痺したような指先から、また数本、音もなく命の欠片が零れていく。
涙が視界を塞ぎ、声にすらならなかった。
――優くんにだけは、絶対に見せたくなかった。こんな、惨めな姿。
冴姫は枕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。密閉された透明な壁の向こう側には、誰の声も届かない。
無菌室のガラス越しに、モニターの電子音だけが規則正しい死のリズムを刻んでいる。
「ゆう……くん……」
掠れた声が白い天井に溶け、無機質な空調の音に吸い込まれていく。頬に食い込む酸素チューブの感触が、自分が今、機械に生かされている「個体」であることを痛烈に自覚させた。
「会いたい……よ……」
枕に散らばった黒髪を見ないように、固く目を閉じる。けれど、瞼の裏に浮かぶのは、あの花畑で抱き合えた「夢」の残像だけだった。温もりを思い出せば出すほど、現実のシーツが氷のように冷たく、彼女を凍えさせる。
突然、氷のような恐怖が、爪を立てて身体の芯から這い上がってきた。
「怖いよ……っ!」
叫びは激しい嗚咽に呑み込まれた。点滴のラインが絡みつく腕で顔を覆い、彼女は子供のように声を上げて泣いた。二十歳の誕生日を、未来を、優と歩くはずだった道を、すべて奪い去ろうとする病(死)という名の怪物。
「死にたくない……! 誰か……誰か、助けて……っ!」
ナースコールの赤いランプが、闇の中で虚しく点滅を繰り返す。
駆けつけた看護師がガラス越しに見たのは、真っ白なシーツを握りしめ、かつての自分の「一部」だった黒髪の中で震え続ける、あまりにも小さく、壊れそうな少女の背中だった。
(真凛の練習が終わり、優が帰宅して眠りについた深夜――)
意識が深い闇の底へと沈み、やがて視界が白く開けていく。
そこは、いつか見たあの花畑ではなかった。
波音ひとつしない、鏡のように穏やかな夜の海。銀色の月光が水面を叩き、二人の足元を淡く照らしている。
「――ゆうくん」
背後から届いた声に振り返ると、そこには冴姫が立っていた。
病院の寝巻きではない、あの日買いに行ったお気に入りの白いワンピース。潮風に揺れる髪は、あの艶やかな黒い輝きを取り戻している。
「冴姫……。ここは?」
「うふふ、内緒。……ねえ、優くん。今日は私と、デートしてくれないかな?」
冴姫は少しだけ悪戯っぽく微笑んで、俺の手をそっと握った。
現実では触れるどころか会う事も叶わない俺にとって、その掌の温もりは、奇跡を通り越して胸を締め付ける痛みだった。
「デートって、どこに行くんだ?」
「どこでもいいの。優くんと並んで歩けるなら。……だって、私、もうすぐ遠くに行かなきゃいけない気がするから」
「……遠くって、どこだよ。そんなこと言うな。真凛が今、お前のために……」
言いかけた言葉を、冴姫の冷たい指先が優しく遮った。
彼女は悲しいくらい綺麗な瞳で、俺を見つめている。夢の中の彼女は、自分の命の灯火が消えかけていることを、本能的に悟っているようだった。
「いいの。今は、私だけを見て。……優くんの横顔、世界で一番好きなの」
俺たちは音のない海辺を、ゆっくりと歩いた。
彼女は今まで一度も口にしたことのない、将来の夢や、行きたかった場所、子供の名前……。叶うはずのない「もしも」の話を、宝石を並べるように、大切に、一つずつ語ってくれた。
「ねえ、優くん。……もし、私が明日いなくなっても。私のこと、たまにでいいから思い出してくれる?」
「……いなくなるわけないだろ。約束したじゃないか、一緒に花火を見るって」
「うん、そうだね。……約束、だもんね」
冴姫は立ち止まり、俺の胸に顔を埋めた。
その身体からは、消毒液の匂いではなく、彼女が愛用していた石鹸の、懐かしい香りがした。
「優くん、大好きだよ。……私を、見つけてくれてありがとう」
彼女の姿が、足元から少しずつ、月の光に溶け出していく。
「待てよ、冴姫! まだ、話したいことが……!」
「さよなら、優くん。……真凛ちゃんのこと、よろしくね」
最後にこぼれた彼女の微笑みは、この世のものとは思えないほど美しく、そして絶望的なまでに静かだった。
「冴姫――!!」
俺が叫んで手を伸ばした瞬間、銀色の海が弾け、意識は強制的に現実へと引き戻された。
跳ね起きた俺の喉は、砂を噛んだように乾ききっていた。
寝巻きのTシャツは嫌な汗で張り付き、心臓は狂ったような鼓動を刻んでいる。
「……っ、は、あ……」
ただの夢だ。そう自分に言い聞かせようとして、俺は愕然とした。
部屋の空気の中に、まだあの石鹸の香りが微かに残っているような気がしたからだ。
――『さよなら、優くん』
耳元で、彼女の声がリフレインする。
それは脳が見せた幻覚にしては、あまりにも静謐で、完成された別れの言葉だった。
時計を見る。午前四時。
夜明け前の街は、死んだように静まり返っている。




