第7話 ひび割れた祈り
スマートフォンの画面が、暗いロッカールームで不吉なほど明るく発光した。
表示されたのは、たった二文字。『ゆう』。
その名前を見た瞬間、真凛の指先は氷に触れたかのように凍りついた。
鳴り響く着信音が、湿った空気とコンクリートの壁に反響し、彼女の逃げ場を塞いでいく。一回、二回、三回……。
「……出られない」
濡れた髪から冷たい雫が床に落ち、小さな水溜りを作る。
やがて着信音が止まり、死んだような静寂が戻る。
『不在着信:ゆう(1件)』
画面を見つめたまま、真凛はずるずるとロッカーの前にしゃがみ込んだ。膝を抱え、冷たい金属の扉に額を押し当てる。
もし今、電話に出てしまったら。
きっと、一言話しただけで気づかれる。声の震えも、この動揺も、すべて。
「どうした?」と、あの不器用でまっすぐな声で聞かれたら、耐えきれずに全部を吐き出してしまいそうで。
「……ずるいよ、こんなの。なんで……っ」
冴姫を救える。その事実は、本来なら手を取り合って喜ぶべき福音のはずだった。
けれど、そうするためには、彼女が血の滲むような思いで繋いできた「水泳選手としての真凛」を、自らの手で殺さなければならない。奨学金も、特待生の立場も、幼い頃から積み上げてきたタイムの数々も。
その重みに、心が悲鳴を上げていた。
再び、スマートフォンが震えた。二度目の着信。
真凛の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねた。もはや着信音は、彼女を追い詰める断罪の鐘のように聞こえる。
四回目のコールで、震える指がようやく画面を滑った。
「……なに」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。慌てて咳払いをして、喉の奥にこびりついた「泣き出しそうな自分」を押し込める。
「練習終わったとこ。……シャワー浴びてたから、気づかなかっただけ。……で、なんか用? アタシ、これから補食だし、忙しいんだけど」
いつもの素っ気なさを必死に装う。けれど、言葉の端々に混じる不自然な間が、彼女の動揺を隠しきれずにいた。
『――冴姫の母さんから、電話があった』
電話越しの優の声は、どこか高揚していた。
『……適合したんだってな。真凛、お前の型が』
その瞬間、真凛の中の何かが、音を立てて壊れた。
「――ッ、なんで!!」
叫びがロッカールームに炸裂した。金属の壁が、その怒声を容赦なく跳ね返す。
「なんで……おばさんが、優に言うのよ……っ!」
声がひどく割れていた。それは優に向けられた怒りなのか、報告してしまった母親への恨みなのか、あるいは自分の運命に対する絶望なのか、もう本人にも分からなかった。
「アタシの問題でしょ!? アタシが決めることじゃない! なんで勝手……勝手に……っ!」
言葉が続かない。受話器の向こうの優にまで届くほどの、激しい荒い呼吸。
「……知ってるよ。適合したことなんて、さっきメールが来たから、知ってる」
絞り出された声は、もう怒鳴り声ではなかった。ただ、子供のように心細く、震えていた。
「でも、大会があるの……。アタシ、特待生なんだよ? 今ここで休んだら、全部……全部終わるの! 優には分からないよ、アタシがどれだけ……っ!」
嗚咽を噛み殺す、くぐもった音。
受話器を握る指先が白く染まる。
「……優に、こんな声、聞かれたくなかったのに……」
彼女が隠し通そうとしていたのは、検査結果だけではない。
「親友の命」よりも「自分の夢」を惜しんでしまう、醜い自分の本心だった。
「……ごめん。真凛、お前が自分で検査を受けたいって言ったから。てっきり……結果を喜んでるんだとばかり思ってた」
その無垢な言葉が、真凛の胸を深々と抉った。
「――喜ぶ?」
乾いた笑いか、あるいは嗚咽か。奇妙な音が電話口から漏れた。
「喜ぶわけ、ないじゃん……っ。そんなわけ、ないでしょ!」
真凛はロッカーに背中を預け、ずるずると床に座り込んだ。湿ったコンクリートの冷たさが腰に伝わる。仰いだ天井の蛍光灯が、涙で滲んで歪な光を放っていた。
「検査を受けたのは……冴姫の親友だからだよ。当たり前のこと。そうしなきゃ一生後悔すると思ったから。でも――」
喉の奥が熱く、言葉が詰まる。
「適合したって文字を見た時、アタシが最初に思ったのは『やった』じゃない。『なんでアタシなの』だった。……最低でしょ。親友の命が助かるって時に、自分のことばっかり……」
自嘲が滲んだ沈黙。
彼女は震える手で、顔を覆い天井を仰いだ。
「冴姫を助けたい。……本当だよ。でも、大会に出られなくなったら、アタシの特待も、奨学金も、全部なくなる。水泳に捧げてきたアタシの人生が、そこで消えるの。……ねえ、優。アタシ、どうすればいいの」
初めて聞く、真凛の剥き出しの弱さだった。
いつも前を走り、俺の手を引いていた彼女が、今はどこにもいない。
『――助けて……くれるんだよな?』
電話口から届いたその声は、真凛が知っている幼馴染の声ではなかった。
不器用で、いつも真っ直ぐだったはずの優が、今は崖っぷちで藁を掴むように、醜く言葉を震わせている。
それはお願いではなく、《《呪い》》に近かった。
「……っ」
真凛は唇を噛んだ。きつく、鉄の味が口内に広がるほどに。
「……ずるいよ。本当に、アンタはずるい」
呟きは、ほとんど吐息だった。
そんな声を、そんな「縋り方」をされたら、もう逃げ道なんてどこにもない。
親友を見捨てて自分の夢を取るのか、夢を殺して親友を救うのか。
優は、彼女にその「究極の選択」を強引に突きつけたのだ。
「……大会、一週間後なの。それまでは……絶対に動けない。練習だって休めない。アタシがドナーになったら、タイムはもう二度と戻らないかもしれないから。……だから」
受話器を握る指先が、白く硬直していく。
「大会が終わったら――ドナーになる。最終検査も移植手術も受けるから。……だから、それまで冴姫に持ちこたえさせて。一分一秒でもいいから、待たせておいてよ」
鼻を啜る音。真凛の声は震えていたが、そこには悲劇のヒロインではない、泥沼の中で覚悟を決めた女の強さがあった。
「……優。アタシの泳ぎ、最後に見に来てよ。大会……絶対に来なさいよ」
その声には、幼い頃――プールサイドで「見ててね」とはにかんでいた、あの少女の面影が微かに混じっていた。
それは、彼女が「自由な水泳選手」として泳ぐ、最後の夏への招待状だった。




