第6話 福音という名の、死刑宣告
会計を済ませて店を出ると、外は眩しいほどの快晴が続いていた。
アスファルトを焼くような夏の熱気が、ラーメン屋の湿った空気ごと俺たちを強引に包み込む。
並んで駅へ向かう道すがら、俺たちの間には、先ほどの沈黙の続きが横たわっていた。
「……ごめん。俺も、少し言葉が過ぎた」
歩幅を合わせて歩きながら低く謝ると、真凛は顔を上げないまま、パーカーの袖口で乱暴に目元を拭った。
「……別に。優はいつもそうでしょ。不器用なくせに、一番嫌なところ突いてくるんだから」
鼻をすすりながら、彼女の口元がわずかに緩んだ。泣き笑いのような、不格好で、けれどどこかあどけない表情。
先ほどまでの刺すような拒絶は、熱いスープと一緒に喉の奥へ流し込まれたようだった。
「……ラーメン、結局最後の方は伸びちゃってたじゃん。優のせいだからね、これ」
「ああ、悪い。次は伸びる前に食えよ」
「……バカ。次なんてあるわけないでしょ」
憎まれ口を叩きながらも、真凛の歩調は少しだけ軽くなったように見えた。自分の弱さを必死に噛み殺し、無理やり「いつもの自分」を取り戻そうとしている彼女の横顔は、見ていて胸が締め付けられるほどに痛々しい。
駅の改札が近づくと、真凛はスポーツバッグを肩に担ぎ直し、ショートポニーテールを揺らしてこちらを振り向いた。
「ありがと。……久しぶりに、誰かとご飯食べた気がする。最近、練習と大学の往復ばっかだったから」
ぽつりと、駅前の喧騒に紛れて消えてしまいそうなほど小さな声。
その瞳には、いつもの勝ち気な光が少しだけ戻っていた。
「……そういえばさ」
真凛が不意に足を止め、路上の自販機の前で指を止めた。
「何だよ」
「アンタ、昨日からずっとその格好? 襟、思いっきり立ってるし。……ダサすぎ」
真凛は呆れたように笑うと、俺のシャツの襟を乱暴に、けれど手慣れた仕草で直した。幼い頃から、俺が何かをやり損なうたびに彼女がこうして世話を焼いてきた。その距離の近さが、今はどこか、壊れそうなほど脆い平和の象徴のように感じられた。
「……余裕なかったんだよ。悪かったな」
「ふん。……ほら、飲みな。顔色、最悪だよ」
ガコン、と音を立てて落ちてきたのは、甘ったるいイチゴオレだった。彼女が自分用に買ったスポーツドリンクとは対照的な、子供染みたピンク色のパック。
「これ、俺の?」
「アンタ、疲れるとすぐ糖分欲しがるじゃん。……そういうところ、中学の頃からちっとも変わってないんだから」
真凛はストローを咥えながら、わざとらしく前を向いて歩き出した。
俺の好みを、俺以上に覚えている。
そんな些細なことが、今の俺にはどんな言葉よりも温かく、そして痛かった。
「……真凛。お前、水泳の練習は? キツイのか」
「……あー、もう。せっかくいい雰囲気でイチゴオレ飲ませてやってるのに、すぐ真面目な話に持っていく」
真凛は立ち止まり、空を仰いだ。ポニーテールから数本こぼれた髪が、夏の風に揺れている。
「……アタシ、水の中が好き。あそこは静かだし、誰もアタシに何も言ってこないから。……でも、最近は水の中にいても、冴姫の笑い声が聞こえてくる気がするんだよね」
「……」
「……ごめん、暗い話はやめ。……ほら、ぬるくなる前に飲みなよ。それ、結構高いんだからね」
彼女は無理に茶目っ気のある笑みを浮かべ、俺の背中をパチンと叩いた。
掌から伝わるその熱は、確かに「生きて」いる人間の温度だった。
「じゃあ……またね」
真凛はそれだけ言い残すと、一度も振り返らずに自動改札の向こうへと消えていった。
それからの一週間、俺の時間は止まったままだった。
大学の講義に出ていても、教授の言葉は鼓膜を滑り落ちていく。バイト先で機械的に皿を洗っていても、頭の片隅には常に、あの病室の白さと、冴姫の横顔、そして採血室で見た真凛の震える指先が、消えない染みのように張り付いている。
ポケットの中でスマホが震えるたびに、震える手で通知画面を確認し、それが病院とは無関係な広告メールや友人からの誘いだと分かると、心底から安堵する。
だがその直後、安堵した自分に対して、「冴姫の生死に関わる結果」を先延ばしにしたいという身勝手な卑怯さを感じ、激しい自己嫌悪と落胆に襲われる。
その繰り返しだった。
夜、暗い部屋でスマホを枕元に置く。暗闇の中で光る液晶画面は、まるで不吉な予言を隠した鏡のようで、目を逸らすことさえできなかった。
朝が来るたびに、まだ彼女がこの世界のどこかで息をしていることに感謝し、同時に、今日こそ「審判」が下るのだと自分を追い詰める。
精神をじりじりと削り取るような、出口のない停滞。
そんな、針のむしろに座らされているような日々に終止符が打たれたのは、採血から八日目の昼過ぎだった。
ポケットの中で、スマホが今までで一番重く、冷たく震えた。
——同じ頃。
塩素の匂いが鼻を突く、湿った屋内プールのロッカールーム。
練習を終えたばかりの真凛の身体からは、湯気が立ち上っていた。インターバルを挟まない過酷なメニューを自分に課し、思考を止めていた一時間。けれど、ベンチに置いたスマートフォンが短く震えた瞬間、彼女の動きは凍りついた。
震える指先で画面をスワイプする。
一通のメール。そこに記された一文を見た瞬間、彼女の顔から潮が引くように血の気が失せていった。
『検査結果:HLA型適合』
それは、暗闇を彷徨っていた彼女たちに差し込んだ、唯一の光だった。
自分の血が、骨髄が、死の淵に立つ冴姫をこの世に繋ぎ止めることができる。親友の命を救えるという、神様からの福音。
「……あ、った……」
喜びが、喉の奥からせり上がってくる。
適合する確率は、親族であっても決して高くはない。その奇跡を引き当てた。これで冴姫を助けられる。そう確信した次の瞬間、メールの下部に記された詳細な注意事項が、彼女の瞳を射抜いた。
『――移植手術にあたっては、事前の体調管理、および採取後約一ヶ月間の激しい運動、並びに身体への負荷を伴う活動を厳禁とします』
一ヶ月。
あまりに短く、そして、あまりに長すぎる時間。
関東大会まで、あと一週間。
そしてその先にある、彼女が人生のすべてを賭けてきた全国大会の予選までは、2ヵ月も残されていない。
「……っ、そんなの……」
スマートフォンを握りしめる力が強くなり、画面がみしりと鳴った。
今ここで「はい」と答えれば、彼女がこれまで血の滲むような思いで削り出してきた、アスリートとしての真凛は死ぬ。
特待生としての権利も、奨学金も、これまで積み上げてきたすべてのタイムも。一度戦線から離れれば、その席が他者に奪われるのは、この勝負の世界では一瞬の出来事だ。
冴姫が助かる。けれど、私は終わる。
「……なんで、今なの……っ」
真凛は崩れ落ちるようにロッカーの冷たい扉に額を押し当てた。
金属の無機質な冷たさが、熱を帯びた身体を突き刺す。
自分の夢と、親友の命。
神様が用意した天秤は、あまりにも残酷で、あまりにも重かった。
「嘘だ……嘘だよ……。誰か、嘘だって言ってよ……!」
誰もいないロッカールームに、彼女の震える声が反響する。
換気扇の回る音だけが、彼女の「これから」を嘲笑うように鳴り響いていた。




