第5話 命の天秤、逃避の味
自動ドアが開いた瞬間に肺を満たした冷たい空気は、外の眩しい夏を忘れさせるほどに無味乾燥としていた。
昨日と同じ、消毒液とワックスの匂いが混ざり合った独特の悪臭。俺の後ろをついてくる真凛の足音が、リノリウムの床に不規則に反響している。
待合室の隅、疲れ切った背中で椅子に深く沈み込んでいた冴姫の両親が、俺たちの姿に気づいて顔を上げた。
「……優さん。真凛ちゃんも、わざわざありがとう」
冴姫の母親が、力なく微笑む。その瞳はひどく充血しており、彼女たちが過ごした夜の過酷さを物語っていた。
隣に立つ父親は、眼鏡を外して深く溜息をつくと、重い口を開いた。
「昨夜から『寛解導入療法』……最初の抗がん剤治療を始めた。だが、あの子には少し、薬が強すぎたようだ。高熱と激しい嘔吐に襲われていて、今は……誰とも会える状態ではないんだ」
「会えない……って、顔を見ることもできないんですか?」
俺の問いに、父親は沈痛な面持ちで首を振った。
「無菌室での隔離が必要なんだ。それに……あの子自身が、誰にも今の姿を見せたくないと、強く拒んでいてね。……本当に、頑固な子だ」
母親がハンカチで目元を強く押さえる。
その言葉を聞いた瞬間、俺の隣で真凛の肩が小さく震えた。昨日のプールサイドで見せたあの凛々しさは影を潜め、彼女は幽霊でも見るかのような虚ろな目で床の一点を見つめている。
「……これから、冴姫はどうなるんですか? 医者からは、なんて」
絞り出すような俺の声に、父親は覚悟を決めたように真っ直ぐ俺の目を見つめ返した。
「……主治医の話では、抗がん剤による化学療法だけでは限界があるそうだ。根治を目指すには――骨髄移植が必要だと」
「骨髄、移植……」
「白血球の型(HLA型)が合うドナーを見つけなければならない。だが……」
父親はそこで言葉を切り、震える手で顔を覆った。隣で母親が、絞り出すような掠れた声を引き継ぐ。
「……私たち夫婦、どちらの型も……冴姫とは合いませんでした。一人娘だから、兄弟もいなくて。親戚にも当たっていますが、まだ望みのある返事は……」
「そんな……。じゃあ、俺たちの型を調べてください! 俺の型が、冴姫と合うかもしれない!」
俺が縋り付くように叫ぶと、父親は悲しげに首を振った。
「……ありがとう、優さん。でも、血縁のない第三者の場合、原則として骨髄バンクを通さなければならないんだ。特定の個人を指名してドナーになることは、今の日本の制度では認められていない。……君の善意は、今の冴姫には直接届かないんだよ」
「っ、そんなの……!」
やり場のない怒りに拳を握りしめた、その時だった。
隣で石像のように固まっていた真凛が、消え入りそうな声で口を開いた。
「……おじさん。アタシは……アタシなら、できるよね?」
父親がハッとして顔を上げる。
「真凛ちゃん……。そうか、君と冴姫は……」
「アタシの親と、冴姫のお父さんがいとこ同士。……遠いけど、一応は親族(血縁)でしょ? アタシがドナーになるなら、バンクを通さない『親族間移植』として扱えるはず」
真凛の言葉に、待合室の空気が微かに震えた。
俺は知らなかった。二人が、そこまで深い縁で結ばれていたなんて。
「でも、真凛ちゃん。君は今、水泳で大事な時期だろう? 移植となれば、身体への負担は避けられない。それに、親御さんだってなんて言うか……」
「そんなの、後。まずは検査させて。型が合うかどうかも分からないのに、悩んでる時間がもったいない」
真凛の視線は、真っ直ぐに父親を射抜いていた。
だが、その力強い言葉とは裏腹に、スポーツバッグを握る彼女の指先は、隠しようもなく震えている。
彼女は理解しているのだ。自分が「ただの親友」から、「冴姫の命を左右する唯一の当事者」に変わってしまったことを。
「……お願い。アタシに、検査を受けさせて」
その気迫に押されるように、父親は静かに頷き、主治医を呼びに席を立った。
案内された採血室へ向かう廊下。真凛は一言も発さなかった。
ただ、彼女の腕の筋肉が、まるで何かに怯えるように小刻みに波打っているのがわかった。
採血台に座り、看護師が準備する太い針を見つめる。
隣のブースに座った真凛は、いつもの勝気な表情をどこかに置き忘れたまま、静かに腕を差し出した。日焼けした健康的な肌。大会に向けて極限まで鍛え抜かれたその腕を、看護師が慣れた手つきで手際よくアルコール消毒していく。
「……あら、凄くいい筋肉。何か本格的にスポーツをされているんですか?」
作業をしながらの、看護師の何気ない世間話。
「……水泳、です。大会が、近いので」
「そうなのね。じゃあ、今日は激しいトレーニングは控えてくださいね。針を刺したところが青くなったり、激しい運動で負担がかかるといけませんから。いいわね?」
「……はい」
短く応えた真凛の身体が、その瞬間、目に見えて強張った。
練習を休む。それは、ストイックな彼女にとって、単なる安静以上の意味を持つ。
そしてもし、この血液が冴姫との「適合」を示してしまったら――。
そんな予感が、白く無機質な採血室の中に静かに満ちていった。
チクリとした痛みが走ると同時に、真空管に赤黒い血が吸い込まれていく。
それが冴姫の命を繋ぐ「希望」になるのか。それとも、ただの徒労に終わるのか。
採血を終え、再びあの無機質な廊下を歩く帰り道。
真凛が、ぽつりと呟いた。
「……結果、いつ出るんだろ」
その横顔には、俺がこれまで一度も見たことのない、冷たい「拒絶」に似た何かが滲んでいた。
それは、親友を救いたいという願いか。
それとも、自分の身体に他者が介入することへの、根源的な恐怖だったのか。
俺には、その時の彼女の心が、どの色に染まっているのか分からなかった。
窓の向こうの青空は、やはり昨日と同じように、ただ残酷に透き通っている。
「……どうせ今日は練習休みなんだろ。どっか、寄ってかないか」
病院の門を出たところで、俺は真凛の背中に声をかけた。
彼女は一瞬だけ足を止め、横目で俺を見上げた。その瞳には驚きと、一瞬だけ警戒を解いたような安堵の色が混じる。
「……なに、急に。アンタ、そんなキャラだっけ」
素っ気ない声。けれど、歩みを止めたのは拒否ではない証拠だった。
駅近くの古びたラーメン屋。昼どきを過ぎた店内に、脂の匂いと湿った熱気がこもっている。真凛は迷わず味噌ラーメンの大盛りを注文し、割り箸をパチンと威勢よく割った。その手つきだけは、いつも通りの彼女だった。
「……アタシさ」
湯気の向こうで、真凛がぽつりと呟いた。麺をすする箸の動きが、どこか機械的だ。
「特待生で入ってるからさ。次の大会で結果出さなきゃ、奨学金切られるの。だから――今は水泳のことだけ考えてなきゃいけない。練習の一日だって、本当は無駄にできないんだよね」
ふいに出された、彼女の背負っている「現実」。
「……優もさ、自分の人生、ちゃんと大事にしなよ。冴姫のことばっかりじゃなくて、自分の講義とか、将来のこととかさ」
それは幼馴染としての忠告だったが、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。自分を犠牲にしようとする俺を見るのが、彼女には耐えられないのだ。俺が「冴姫のために」と動けば動くほど、自分の「私情」が醜いエゴのように思えてしまうから。
「……お前、本当にそう思ってるのか? 冴姫はお前にとっても、大事な幼馴染だろ」
俺が低く問い返すと、真凛の箸を持つ手に力がこもった。
「っ……」
真凛は唇を強く噛み、俯いた。器から立ち上る湯気が、その表情を強引に隠していく。
カウンターに置かれたコップの水が、換気扇の振動で微かに震えていた。
「……わかってるよ、そんなの。言われなくたって……!」
絞り出すような声だった。
「冴姫は、アタシにとって一番の親友だよ。ずっと、これからも。……でも、アタシには水泳しかないの。特待生として、結果を出し続けるしかない。それを捨てたら、アタシには何も残らない。大学だって、居場所だって……」
「……」
「本当にそう思ってるかって……? 自分の人生大事にしろなんて、本気で言ってるかって聞いてんの?」
顔を上げた真凛の瞳は、熱い膜を張ったように赤く潤んでいた。けれど、彼女は決して涙を零さない。今泣いてしまえば、自分が積み上げてきた「水泳選手としての自分」が崩れてしまうと知っているから。
「思ってないに……決まってんじゃん……バカ」
ぽつり、と。
味噌スープの茶色い海に、一粒の雫が落ちて波紋を作った。
「……アンタが無理してボロボロになるの、見てらんないだけだよ。アンタまで壊れたら……アタシ、もうどうすればいいか分かんない」
真凛はそう吐き捨てると、残りの麺を強引に口に放り込み、立ち上がった。
俺の顔を見ようとはしなかった。
会計を済ませて店を出ると、外は眩しいほどの快晴が続いていた。
俺たちは並んで歩きながらも、決して視線を合わせることはなかった。
数日後に出る「検査結果」が、この危うい均衡を粉々に砕いてしまうことを、俺たちはまだ、認めたくなかった。




