第4話 沈黙の約束
夢の中。俺は、震える彼女の細い肩を力一杯抱き寄せた。
抱きしめた瞬間、冴姫の体がびくりと、弾かれたように震えた。
温もりを感じたのか、それともこの瞬間を待っていたのか。
やがて、彼女の細い腕がゆっくりと俺の背に回され、指先が白いワンピースの生地を弱々しく掴んだ。
「……ごめん。ごめんな、冴姫。気づいてあげられなくて」
「……ううん。優くんは、少しも悪くないよ」
俺の肩口に顔を埋めたまま、彼女の声がくぐもって響く。
シャツの生地が、じわりと温かい湿り気を帯びていく。彼女の涙だ。
「私が……弱かっただけ。本当のことを言ったら、優くんを困らせちゃうって思ったから。……怖かったから……っ」
嗚咽が漏れ、言葉が形を失っていく。
夢の中だというのに、彼女の背中から伝わる震えは、あまりにも生々しく、現実的だった。
「本当は……一人になるのが、怖いの。明日が来るのが……死んじゃうのが、怖いよ……っ」
しがみつく力が強くなる。
ずっと、あの中庭でも、通学路でも、彼女が心の奥底に鉄の蓋をして押し殺してきた本音が、堰を切ったように溢れ出した。
「でも、夢の中だけでも……こうして会えて、嬉しかった。本当に……」
彼女が顔を上げた。涙に濡れた瞳。無理に作ったような、けれどこの世の何よりも愛おしく、悲しい微笑み。
その瞬間、色鮮やかだった花畑の風景が、陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ始めた。
「待ってくれ、冴姫! まだ……!」
伸ばした俺の手が、空を掴む。
彼女の体温が、朝靄が晴れるように急速に薄れていく。
視界が涙で滲み、現実の「白」が、夢の「極彩色」を塗り潰していった。
(行くな、冴姫――!)
心の中で叫んだその声は、朝の光に砕け散った。
「っ……」
跳ね起きると、頬には乾いた涙の跡がこびりついていた。
心臓が嫌な速さで打っている。
隣に、彼女はいない。
あるのは、昨日の夜から変わらない、沈黙したままの自室。
窓の外を見れば、昨日と同じ、吸い込まれるような快晴。
世界はこんなに明るいのに、俺の部屋だけが取り残されたように暗い。
夢の中で聞いた、彼女の震える本音。
『病院には、来ないで』
その願いは、俺を想っての言葉だと分かっている。醜く変わっていく自分を見せたくないという、彼女の最後のプライドなのだ。
けれど、あんなに震えていた彼女を一人にできるわけがない。
俺はまだ、彼女に何も返せていない。
あの中庭で「またな」と手を振ったきり、俺たちの時間は止まったままだ。
俺は乱れたベッドから這い出し、昨日と同じ、病院への道へと足を向けた。
あの中庭で別れた時の、あの冷たい指先の感覚を、今度は俺が温めるために。
通学や通勤を急ぐ人波に逆らいながら、病院へと続く坂道を登る。
すれ違う人々は、今日という日が誰かの絶望の始まりだなんて知りもしない。その当たり前の平穏が、今の俺には酷く空々しく感じられた。
重い足取りで病院へ向かう道すがら、眩しい朝日の向こうに、見慣れた後ろ姿が揺れていた。
短く結い上げた茶色のショートポニーテール。いつもならトレーニングウェアを纏い、凛として前を見据えているはずのその背中が、今はどこか、所在なげに彷徨っているように見えた。
「……真凛」
俺が声をかけると、彼女は弾かれたように肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
俺の姿を認めた瞬間、真凛の瞳に驚きと、それ以上に「見つかってしまった」というような複雑な色が混ざり合う。
「……ゆう」
絞り出すような声。
彼女は俺のひどく窶れた顔を見て、すべてを悟ったようだった。
「冴姫のこと……おばさんから聞いたんだ。昨晩、倒れたって」
「……そんな。あの子、ほんとに……」
真凛はそれ以上言葉を続けず、視線を地面に落とした。その手は、使い込まれたスポーツバッグのストラップを白くなるほど強く握りしめている。
「真凛、お前……知ってたのか? 冴姫の具合が、あんなに悪いって」
俺の問いに、真凛は唇を噛み、苦しげに顔を歪めた。
「……詳しい病名までは聞いてないわよ。でも、大学に入ってから相談されてたの。『最近、体がずっと変なんだ』って。……もしかしたら、すごく重い病気かもしれないって。あの子、泣きそうな顔で……」
「……っ、なんでもっと早く言わなかったんだよ!」
思わず声を荒らげた俺を、真凛の鋭い視線が射抜いた。その瞳には、彼女自身の後悔と、やり場のない怒りが燃えていた。
「言えるわけないじゃない! あの子に口止めされてたのよ。『優くんにだけは、絶対に言わないで』って! 心配かけたくない、今の関係を壊したくないって……あの子がどれだけ必死だったか、アンタにわかる!? アタシだって……アタシだって、怖かったわよ!」
彼女の叫びが、閑散とした朝の道に響き渡る。
いつも強気で、誰よりも真っ直ぐだった彼女の声が、今は脆く震えている。
「アタシだって、今は大会前の大事な時期なのよ。余計なこと考えたくないのに……! なのに、なんで今なのよ。なんでこんな時に……!」
真凛の拳が、小刻みに震えていた。
その「なんで」という言葉は、運命への呪詛であると同時に、昨日のプールサイドで、自分だけの「これから」に期待を寄せてしまった自分自身への、激しい嫌悪のようだった。
一番近くで冴姫の異変を知りながら、親友との約束を守るために、そして自分の中に芽生えた私情を優先してしまったがゆえに、事実を心の奥底に封じ込めてきた真凛。
その「覚悟」が、冴姫が倒れたという最悪の現実を前に、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「……アタシ、あの子に……なんて言えばいいのよ」
不敵な笑みを浮かべていた昨日の彼女は、もうどこにもいない。
そこには、重すぎる秘密を抱えきれなくなった、一人の少女が立ち尽くしているだけだった。
見上げれば、巨大な要塞のようにそびえ立つ病院のビルが、朝日に白く輝いている。
俺と真凛は、どちらからともなく歩き出した。
「家族」という境界線に拒まれた者同士、ただ隣り合って、絶望の深淵へと足を踏み入れる。
その先に、どんな残酷な現実が待っているかも知らずに。




