第3話 届かない境界線
部屋に入ると、机の上の写真立てだけが月光を拾って白々しく光っている。
三人で撮った、あの日の写真。
真ん中で眩しそうに笑う冴姫と、そっぽを向き照れながら、指先で小さくピースサインを作る真凛。
ふと、部屋に冴姫の香りがした気がした。温かい紅茶のような、清潔な石鹸のような、彼女だけが纏う穏やかな残り香。それを追いかけるようにベッドに倒れ込むと、鉛のように重い瞼の裏側へ、意識が深く沈んでいった。
「……ごめんね、優くん」
暗闇の向こう側。白いワンピース姿の冴姫が、ぽつんと立っていた。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が滲んでいる。
「私ね……」
冴姫は震える手を伸ばし、けれど俺の頬に触れる寸前で、その指を止めた。その声は、薄氷を爪で弾いたように透き通っていて、あまりに脆い。
「何?聞こえない……どういうことだよ!? 冴姫!」
叫ぶ俺の問いかけに、彼女の唇が必死に動く。
何かを、一番大切な何かを伝えようとしている。けれどその言葉は水の底に沈むように歪み、気泡となって消えていく。一言も届かない。
涙を流しながら、彼女がもう一度伸ばした指先。それが俺の指に触れた瞬間――世界はガラス細工のように粉々に砕け散った。
「っ……!」
跳ね起きると、カーテンの隙間から残酷なほど明るい朝日が差し込み、俺の網膜を刺した。
頬に触れた冷たい感覚はもうない。ただ、枕がじっとりと濡れていることだけが、夢の残滓を物語っていた。
胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
焦る手でスマートフォンを確認したが、期待していた彼女からの着信はない。代わりに、深夜三時。見知らぬ番号からの一件の不在着信。
意を決して折り返すと、数回の呼び出し音の後、沈痛な女性の声が響いた。
『――白瀬の母でございます。優さん、ですね』
一拍の、震えるような沈黙。
『昨晩、冴姫が大学で倒れまして。今は……病院におります。優さん、直接お会いして、お伝えしなければならないことが……』
窓の外は、吸い込まれるような快晴。
空の青さが、ひどく、残酷に見えた。
電話を切った後の記憶は、ひどく断片的だった。
気がつくと、俺は文字通り着の身着のままで病院の廊下を走っていた。
鼻を突く消毒液の匂い。ゴム底の靴が床を叩く不快な音。視界に入るすべてが病的なまでに白く、目に痛い。
処置室の前で、力なく椅子に座り込む冴姫の母親を見つけた。
俺の足音に気づき、顔を上げた彼女の瞳は赤く腫れ上がり、絶望に濁っていた。
「優さん……来てくれたのね……」
「おばさん、冴姫は!? 何があったんですか、急に……!」
俺の問いに、彼女は震える唇を噛み締め、ポツリポツリと、悔恨を吐き出すように話し始めた。
『……大学の保健室から、連絡があったの。急に意識を失って倒れたって。搬送先の病院ですぐに血液検査をしたんだけど……数値が、信じられないほど異常で』
『今はまだ、詳しい型を調べるための精密検査の結果待ちだけど……先生からは、急性の白血病である可能性が高いって……』
震える声が、耳の奥に突き刺さる。
「……あの子、大学に入ってからずっと、体が重いって言っていたの。微熱も続いていたし、顔色も悪くて。でも、初めに行った病院では『環境が変わったことによるストレスか、軽い風邪でしょう』って……。あの子も、私も、それを信じてしまったの」
彼女の手が、膝の上で白くなるほど握りしめられる。
「先週、どうしても熱が引かないからって、もう少し大きな病院で診てもらったの。そうしたら、すぐに精密検査のできる病院へ行きなさいって言われて……。昨日、その予約をしていた矢先だったのよ。まさか、あんなところで倒れるなんて……っ」
「……そんな」
「もっと早く、私が無理にでも連れて行っていれば……あの子が『大丈夫』って笑うのを、鵜呑みにしなければ……!」
その言葉が、俺の胸に鋭いナイフとなって突き刺さる。
あの日、中庭で会った時。あの日、一緒に歩いた時。
彼女が吐いた小さな溜息も、わずかな足取りの乱れも、俺は「いつものこと」だと見過ごしてはいなかったか。
処置室の重い扉が開き、青い手術着を着た医師と、数人の看護師が慌ただしく姿を現した。
「……白瀬冴姫さんのご家族ですね」
医師の鋭い視線が、駆けつけた冴姫の両親を捉える。
「はい」と、絞り出すような声で応える母親。
「容態は非常に切迫しています。今から血液内科のクリーンルーム……無菌室へ移動し、即時、治療を開始します。一刻を争います。ご家族の方は、こちらへ。同意書への署名を」
「冴姫! 冴姫はどこだ!」
俺が一歩前に踏み出そうとした瞬間、看護師の青い手袋をはめた手が、冷たく、けれど毅然とした動作で俺の胸を押し止めた。
「申し訳ありません。ここから先は、ご家族のみとなります」
「でも、俺は……っ、幼馴染で!」
「……立ち入りは、許可できません。今は命に関わる瀬戸際なんです。待合室でお待ちください」
扉が、音もなく閉まる。
その向こう側へ、冴姫を乗せたストレッチャーが、そして「家族」という特権を持った人々が消えていく。
ただの幼馴染。ただの、想い人。
そんな形のない絆は、この白壁の世界では、何の通行証にもならなかった。
俺は、誰もいなくなった廊下の真ん中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
空気に混じった強いアルコール臭に、吐き気がする。
窓の外を見れば、昨日と同じ、吸い込まれるような快晴。
空の青さが、ひどく、残酷に見えた。
俺の知っている日常は、もう、どこにもなかった ―――――
どれくらい時間が経ったか感覚がない。
病院の白壁に拒絶され、俺は逃げるように自宅へと戻った。
玄関のドアを閉めると、重い沈黙だけが部屋を支配していた。照明もつけず、カーテンの隙間から漏れる月光が、デスクの上の写真立てをぼんやりと照らし出している。
三人で笑う写真。その中にある日常は、今や遠い異世界の出来事のように思えた。
「家族」というたった二文字の通行証を持たない俺には、彼女の苦しみに寄り添う資格さえない。
泥のような疲労感と、胸を掻きむしるような無力感に、俺は抗うこともできずベッドへ沈み込んだ。
意識が、暗闇の底へと溶けていく――。
気がつくと、俺は見渡す限りの花畑の中に立っていた。
風が吹き抜けるたび、色とりどりの花びらが波のように揺れる。その中心に、彼女がいた。
「……来てくれたんだ」
白いワンピースの裾を風に遊ばせ、冴姫が立っていた。
けれど、今日の彼女はどこか透き通っていて、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
彼女はゆっくりと近づき、そっと俺の手を取った。
夢の中の指先は、あんなに冷たかった現実が嘘のように、ひどく温かい。
「優くん、聞いて」
冴姫は俺の目を見つめ、震える声で言葉を紡ぎ出した。
「もうすぐね、治療が始まるの。そうしたら……髪も抜けて、白血球も減っちゃう。誰にも触れられなくなって、どんどんボロボロになっていく。……そんな姿、優くんにだけは見せたくないの」
彼女の手が、俺の指を強く握りしめる。その温もりが、かえって俺の胸を痛く締め付けた。
「だから――お願い。病院には、もう来ないで」
「何を……っ、そんなことできるわけないだろ!」
叫ぼうとしても、喉が塞がったように声が出ない。
冴姫の瞳からは、大粒の涙が溢れ、その頬を伝い落ちた。
「ごめんね。わがままだって分かってる。でも、一番綺麗な私を……優くんの中に残しておいてほしいの」
彼女は泣きながら、優しく微笑んだ。
そして、その顔を俺の胸にうずめる。
「……でも、不思議だね。夢の中なら。こうして、ちゃんと触れるんだね」
胸に伝わる、彼女の柔らかな重みと、確かな体温。
現実では決して許されないその温もりが、あまりに切実で、俺はただ彼女の細い肩を抱きしめることしかできなかった。
――――窓の外では、残酷なほど美しい月が、静かに夜を照らし続けていた。




