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今日もキミと夢をみる  作者: ゆあ


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第2話 覚悟と、繋がらない声

プールの底から反射する青い光が、観覧席の俺をぼんやりと照らしていた。


 鉄柵に身を預け、眼下で完璧な芸術を描き続けていた桜城真凛の泳ぎを思い返す。あんな圧倒的なものを見せつけられた後で、声をかけるのは少しばかり勇気がいった。


 観覧席の冷たい鉄柵を握る手に、じわりと湿った熱がこもる。

 階下で激しく水面を叩いていた銀色の飛沫は、今や静かな波紋となってプールの壁へと消えていった。

 意を決して、俺は階下の彼女へ声を張り上げた。


「真凛! 調子はどうだ?」


 その瞬間、水面の支配者だった彼女が、一人の少女に戻る。

 勢いよく顔を上げた真凛は、俺の姿を認めるなり、あからさまに目を見開いた。


「……は? ちょっと、なんでアンタがここにいんのよ」


 プールサイドに腕をかけ、こちらを睨みつける視線は鋭い。

 だが、キャップを脱いだ彼女の茶色のショートポニーテールが揺れるたび、濡れた肌が熱を帯びていくのを俺は見逃さなかった。

 俺は苦笑しながら、先ほど冴姫に言われた言葉を思い出した。


「嬉しいくせに。……冴姫がな、大切な大会の前だからって心配してたぞ」


 真凛の長い眉がぴくりと跳ねた。


「べ、別に嬉しくなんかないし……!」


 タオルをばさっと肩にかけ、髪先をぎゅっと絞る彼女の足元に、滴る水滴が小さな円を描いては消えていった。


 だが、冴姫の名前が出た瞬間、真凛の表情がわずかに曇った。

 ほんのコンマ数秒、いつもの鋭い瞳が揺らいだように見えた。けれど、彼女はすぐにそれを不機嫌な仮面で覆い隠してしまう。


「……あの子が言ったの。相変わらずお節介だよね、冴姫は」


 言いながら、真凛はぽつりと続けた。


「無理なんかしてない。大会まであと二週間、ここからが勝負なの。……でも、まあ」


 ちらりと濡れた睫毛の奥から、視線がこちらに向けられる。

 そこには、いつもの勝気な光とは違う、どこか懐かしさに似た色が揺れていた。


「大会終わったらさ。……アンタに、大事な話があるんだけど」


 その声は、いつもの素っ気なさの中に、微かな覚悟のようなものが滲んでいた。


「何? 話って」


 俺が問い返すと、真凛は一瞬口を開きかけて――すぐに思い直したように唇を固く結んだ。


 顔を拭くタオルを、ゆっくりと顔から離す。濡れた睫毛の奥にある瞳が、逸らされることなく、まっすぐに俺へと向けられた。そこに宿っていたのは、照れや迷いではなく、静かで強い意志だった。彼女は唇を真一文字に結び、何かを吹っ切ったように、もう一度だけ小さく頷いた。


「……今は言わない。大会が終わってからって言ったでしょ」


 その言葉は、俺を拒絶するものではなく、自分自身に課した約束を守るための、確かな区切りだった。


「それより」


 話題を強引に打ち切るように、彼女はベンチのスポーツドリンクを手に取った。


「冴姫のこと、最近ちゃんと見てる? あの子……貧血で点滴してるって言ってたけど」


 その言葉の端に、何か冷たいものが引っかかる感覚があった。

 まるで、俺の知らない何かを知っていて、けれど自分の口からは言えない――そんなもどかしさが、彼女の横顔に影を落としている。


「……冴姫が話してないなら、アタシから言うことじゃないし」


 ドリンクのキャップをきつく締め直し、真凛は再び、青いプールへと向き直った。


「練習戻るから。……また、来てもいいけど」


 最後の一言だけ、水面に吸い込まれるように小さかった。


 プールの重い扉を閉めると、背後で塩素の匂いと喧騒がシャットアウトされた。

 外はいつの間にか、夕焼けが建物の影を長く引き延ばす時間になっていた。


 俺は歩きながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。

 先ほど真凛が見せた、あの「覚悟」を決めたような瞳。そして、冴姫の体調を巡る、含みのある言い方。


 胸の中にトゲのように刺さったざわつきを振り払いたくて、俺は無意識に、一番上の連絡先をタップしていた。


 呼び出し音が、鼓膜の奥で規則正しく鳴り続ける。


(……出ないのか?)


 五回、十回。

 いつもなら二回と鳴らずに弾んだ声が返ってくるはずなのに。

 虚しく繰り返される電子音は、次第に夕闇が濃くなっていく街並みに溶けて、消えていった。


「……寝てるのか。それとも、まだ講義中か」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 けれど、先ほど真凛が漏らした「あの子、貧血で点滴してるって言ってたけど」という言葉が、呪文のように頭から離れない。

「点滴」なんて、ただの貧血でそんなに頻繁にするものだろうか。


 大学の正門を抜け、見慣れた帰宅路を一人で歩く。

 二十年近く、当たり前のように隣にいた彼女。

 五月の風に透けてしまいそうだった、あの細い肩。

 冷たかった指先。


 ――それが、俺たちが享受した『日常』の、最後の一片になるともしらずに。


 中庭で別れ際に感じたあの「予感」が、冷たい質量を持って胃のあたりに沈み込んでくる。

 家の近くまで来ると、街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。


「……ただいま」


 玄関のドアを開けても、返ってくるのは静寂だけだ。

 いつもと変わらない、少しだけ古びたアパートの匂い。

 だが、部屋に入り、暗い部屋の照明をつけた瞬間。

 デスクの上に置かれた、昔三人で撮った写真立てが、妙に白々しく光を反射した。


 真凛の言っていた「大事な話」とは何なのか。

 そして、なぜ冴姫は、俺に何かを隠そうとしているのか。


 俺はもう一度だけ、スマートフォンを手に取った。

 履歴の一番上。まだ繋がらないままの彼女の名を、ただじっと見つめることしかできなかった。

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