第一話 最後の一片の日常
――あの時、彼女の指が冷たい理由を、もっと深く考えていればよかった
大学のキャンパスを横切る五月の風は、驚くほど軽やかだった。
新緑がまぶしい中庭。その片隅にある古びたベンチに、彼女は座っていた。
膝の上に数冊の専門書を抱え、遠くの空を仰いでいる横顔。その輪郭があまりに透き通っていて、俺は一瞬、声をかけるのを躊躇った。
「……冴姫?」
俺の呟きに、彼女はゆっくりと視線を落とした。
「……あ。優くん? わぁ、こんなところで会えるなんて、なんだか運命みたいね」
「運命」なんて言葉を照れずに使うところが、いかにも子供好きで優しい彼女らしい。
だが、その穏やかな微笑みの裏側。少しだけ生気を欠いたような唇の色が、俺の胸に微かなざわつきを残した。
「そんな大げさな。……少し疲れてないか? 顔色が悪いぞ」
「いけませんよ。女の子の顔色をそんなに凝視するなんて」
彼女は先生のように人差し指を立てて、悪戯っぽく笑った。
幼馴染という長い助走を経て、ようやく「恋人」という名前がついたばかりの春。
駆けてきた彼女が俺の腕に触れたとき、その指先が五月の陽気に反して、少しだけ冷たかったような気がした。
大学に入学してすぐの頃から、彼女は時折こうして体調を崩すことがあった。
「ふふ、心配性さんね。大丈夫よ、ちょっと貧血気味だけど点滴してもらったから」
冴姫はそう言って、俺の不安を器用に笑い飛ばした。
「大学って、思ったより大変なんだね。講義も、実習の準備も……高校までとは全然違うんだもん」
困ったように笑いながら、彼女は自分の体調不良を「環境の変化」のせいにした。
二十年近く一緒にいた俺は、彼女が元々こんなに体が弱いわけじゃないことを知っている。けれど、確かに大学生活は過酷だ。教育学部のカリキュラムの重さを考えれば、彼女が少しバテているという説明には、十分すぎるほどの説得力があった。
「またお医者さんに、ちゃんと鉄分摂りなさいって怒られちゃった」
軽く舌を出して笑う彼女の仕草は、半年前に同じことを言った時と何ら変わりない。
だから、差し出された本の表紙にある『教育心理学入門』の文字を見て、俺は彼女が来年、再来年も当たり前にこのキャンパスで夢を追っている姿を疑いもしなかった。
「……でも、無理はするなよ。入学してから、もう何度も倒れてるんだから」
「もう、大げさですよ、優くん。……でも、ありがとう。心配してくれて」
「それよりね、優くん。最近……真凛ちゃんと、ちゃんと話してる?」
ふわりと風が吹き、冴姫の黒髪が踊る。
その隙間に覗いた彼女の瞳は、悪戯っぽさを消し、どこか祈るような、真剣な光を帯びていた。
「あの子、大事な大会が近いでしょう? 私のお見舞いに時間を使ってくれるのは嬉しいけど……昔みたいに、真凛ちゃんのことも気にかけてあげてほしいな」
冴姫はそう言って、俺の腕にそっと手を添えた。
その瞳はどこまでも澄んでいて、濁り一つない善意だけがそこにあるように見えた。
「わかったよ。……でも、まずは冴姫の体が一番だろ? 無理はするなよ」
俺が彼女の頭を軽く撫でると、冴姫は「子供扱いしないでください」と、また先生みたいな口調で小さく笑った。その笑い声があまりに軽やかで、俺の胸の中にあった微かなざわつきは、五月の風に流されるように消えていった。
「じゃあ、私、そろそろ次の講義の準備があるから。……またね、優くん」
「ああ、また後でな」
数冊の本を胸に抱え、ゆっくりと歩き出す彼女の後ろ姿。
陽光に溶けてしまいそうなほど細い肩が、一瞬だけ、ひどく頼りなく見えた。
――それが、俺たちが享受した『日常』の、最後の一片になるともしらずに。
俺は彼女から託された言葉を胸に、そのまま水泳部の部室がある、スポーツ棟の方へと足を向けた。
大学の屋内プールに足を踏み入れると、特有の塩素の匂いと、反響する水の跳ねる音が鼓膜を叩いた。
観覧席の最前列から見下ろすと、コースを一人、黙々と往復する影があった。
桜城真凛――その泳ぎは、もはや「運動」ではなく「芸術」に近い。
水面を鋭く切り裂くストロークには一切の迷いがなく、ターンのたびに激しく舞い上がる飛沫は、天井の蛍光灯を反射して銀細工のようにきらめく。俺はただその圧倒的な生命力に見惚れていた。
やがて、真凛がゴールに手をつき、勢いよく顔を上げた。
額に押し上げられたゴーグルの下、鋭い視線が観覧席の俺を捉える。
「……は?」
真凛はあからさまに目を見開いた。それからすぐに眉をひそめ、プールサイドに腕をかけて身を乗り出す。
「ちょっと、なんでアンタがここにいんのよ」
声はどこまでも素っ気ない。けれど、濡れた頬がうっすらと朱に染まっているのは、激しい運動の直後だからだけではないように見えた。
キャップを取ると茶色のショートポニーテールから滴る水滴が、鎖骨を伝い、競技用の水着へと吸い込まれていく。
「……別に、来るなとは言ってないけど。……練習に集中できないでしょ」
真凛はぷいと視線を逸らし、小さく呟いた。
その不器用な態度に、俺は苦笑しながら、先ほど冴姫に言われた「あの子のことを気にかけてあげて」という言葉を思い出していた。




