第10話 最期の飛沫
「女子100メートル自由形、決勝。……Take your marks.」
静寂がプールを支配する。
スターティングブロックに指をかけた真凛の背中には、一切の無駄な肉がない。研ぎ澄まされたその筋肉が、弾かれた弦のように緊張している。
俺は観客席の最前列で、手すりを壊さんばかりに握りしめていた。
――ブザーが鳴る。
真凛の身体が、美しい弧を描いて水面へと吸い込まれた。
完璧な入水。周囲が激しい水飛沫を上げる中、彼女だけが一本の槍のように、抵抗なく水の底へと突き進んでいく。
(……静かだ)
真凛は水の中で、自分と水が溶け合う音を聞いていた。
腕を伸ばすたびに、肩にのしかかる重圧が、心地よい痛みに変わる。
幼い頃から、数え切れないほど繰り返してきた動作。
コンマ一秒を削るために、青春のすべてを、肌を焼く塩素の匂いと、この青い沈黙に捧げてきた。
(優。……見てる?)
ターン。壁を蹴る衝撃が、全身を駆け抜ける。
残り五十メートル。
そこから、彼女の泳ぎが豹変した。
これまで蓄えていたすべてのエネルギーを爆発させるかのような、猛烈なキック。
水面を叩く腕の回転が上がる。一掻きごとに、彼女は自分の「未来」を削り取っているようだった。
ここで勝てば、特待生として大学で泳ぎ続けれる。強化選手に選ばれれば全国での優勝の道だって見えてくる。
けれど、このレースが終われば、彼女はドナーとなる。
「……あと、少し」
水を掻く腕が、鉛のように重い。けれどそれ以上に、彼女の心を圧迫していたのは、「現実」の重みだった。
あの時病院でドナーの適合検査をした当初は、手術後の一ヶ月だけ休めばいいと思っていた。けれど現実は、そんなに甘くはなかった。
ドナー候補として最終検査に入れば、そこから数ヶ月は、激しいトレーニングを制限される。
適合試験、精密検査、そして自らの血液を数回に分けて保存する「貯血」。
それら全てのプロセスにおいて、トップアスリートとしての肉体を維持することは不可能だ。
特待生として大学の絶対条件は、大会での実績だけではない。その後の「継続的な活動」と「向上」が義務付けられている。
骨髄採取という肉体的負担、そして長期にわたる戦線離脱。
それを告げれば、強化指定からは外され、約束されていた奨学金も、競技での居場所も、すべてが泡となって消える。
(この数ヶ月の『空白』は、アタシの資格を取り消すには十分すぎる……)
仲間たちと競い、笑い、切磋琢磨するはずだったこれからの大学生活。
その輝かしい「青春」の予定表が、真っ白に塗り潰されていく。
水泳のない自分に、何が残るのか。
(――でも。あいつがいない世界で泳ぎ続けて、何の意味があるの?)
苦しいのは、自分だけじゃない。
あいつはもっと、暗い暗い無菌室の中で、たった一人で「日常」を奪われて戦っている。
あいつが失った「青春」に比べれば、アタシがこれから失うものなんて、きっと――。
(――ううん。やっぱり、怖いよ。……怖いけど……!)
(……それでも、いい)
「――っ、あああああぁぁ!!」
無意識に、水中で叫びが漏れる。
隣のコースの選手が、徐々に引き離されていく。
真凛の泳ぎは、もはや「勝利」のためだけのものではなかった。
それは、友を救うための、そして自分の夢を弔うための、苛烈な儀式だった。
最後、十メートルの死闘。
真凛は顔を上げることも、呼吸をすることも止め、ひたすら前へと手を伸ばした。
指先が、目標の壁を叩く。
電子掲示板の最上段に。
『1位 桜城 真凛』
そして、これまでの大会記録を塗り替える、驚異的なタイムが表示された。
会場が割れんばかりの歓声に包まれる。
だが、真凛はプールの壁を掴んだまま、すぐには動かなかった。
荒い呼吸。肩を上下させ、ただ一点――空中に舞う水飛沫の先を見つめている。
「……勝ったよ、冴姫。……勝ったんだから、アンタも負けんな」
彼女がプールから上がるとき、その足取りは生まれたての小鹿のように震えていた。
けれど、俺の方を向いた彼女の瞳には、かつてないほど誇り高く、そして、すべてを出し尽くした者の「喪失」という名の美しさが宿っていた。
タオルを受け取る間もなく、真凛は俺のもとへ歩み寄る。
周囲の祝福の声も、拍手も、彼女の耳には届いていないようだった。
「……優」
彼女の濡れた髪から、水滴がコンクリートに落ちる。
真凛は深く、重い溜息をつくと、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「……約束。……話、聞いてくれる?」
真凛が俺のシャツの袖を掴もうと、震える手を伸ばした。
その瞬間、彼女の膝がガクリと折れる。
「真凛!」
俺は咄嗟にその細い肩を抱き寄せた。
腕の中に伝わる身体の熱は、平熱を超え、爆ぜるような心拍が服越しに掌を打つ。彼女の顔は土気色で、唇からは血の気が失せていた。
「……っ、ハァ、ハァ……っ。アタシ……っ」
「いいから、喋るな。酷い酸欠だぞ」
彼女の意識は、激しすぎるラストスパートと精神的な重圧によって、今にも闇に呑み込まれそうだった。
視界が激しく回転しているのか、真凛は俺の胸に額を預けたまま、苦しげに目を閉じている。
「……でも、今……言わなきゃ。……アタシ……」
「わかってる。わかってるから」
俺は彼女の背中を、落ち着かせるようにゆっくりと叩いた。
今、この極限状態で彼女に「人生を左右する決断」を言葉にさせてはいけない。それは、あまりに酷なことだ。
「まずは表彰式だ。新記録なんだぞ、ちゃんと胸を張って賞状を受け取ってこい。……話は、その後にしよう」
「……あと、で?」
「ああ。全部終わって、お前がちゃんと呼吸を整えてからだ。俺はどこにも行かない。ずっとここで待ってるから」
真凛は俺の胸に顔を埋めたまま、何度か深く、重い呼吸を繰り返した。
やがて、彼女は力を振り絞るようにして俺の身体から離れ、微かに震える足で立ち上がる。
「……逃げたら、殺すからね。……バカ優」
いつもの憎まれ口。けれど、その声にはもう、俺を突き放すような鋭さはなかった。
彼女は係員に促され、ふらつきながらも、表彰台が用意された表彰エリアへと歩き出す。
観客席から降り注ぐ、惜しみない拍手。
その眩い光の中に立つ真凛の背中は、どんな金メダルよりも気高く、そして、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。
俺は拳を握りしめ、その背中を見守り続けた。
表彰式が終われば、彼女は「選手」から、一人の「少女」に戻る。
そして、親友の命を背負うための、あまりに重い言葉を口にするはずだ。
その時を待つ俺のポケットの中で、スマホが一度だけ、短く震えた。
病院からの通知か、それとも――。




