第11話 人魚の落涙、残酷な約束
ポケットの中で震えたスマホを取り出し、画面を凝視する。
通知は病院の冴姫の母親からだった。
『――心肺機能が安定しました。峠を越えましたって……意識も戻ってきたって……』
その文字を見た瞬間、肺に溜まっていた熱い塊が、一気に涙となって溢れ出しそうになった。
「よかった……。本当によかった……っ」
膝の力が抜け、壁に背を預けてずるずると座り込む。
真凛の叫びが届いたのか、あるいは俺の身勝手な愛の告白が彼女を繋ぎ止めたのか。理由は分からない。けれど、冴姫はまだ、この世界に留まることを選んでくれたのだ。
それから数十分後。
表彰式を終え、重いスポーツバッグを肩にかけた真凛が、ロビーに現れた。
新記録の金メダルはバッグの奥に仕舞い込まれている。彼女の顔には、先ほどの土気色は消えていたが、代わりにすべてを出し切った後のような、静かな虚脱感が漂っていた。
「……待たせたね」
「いや。……行こうか」
俺たちは無言で会場を後にした。
外はすでに夕暮れ時で、街は燃えるような茜色に染まっている。
駅へと続く緩やかな坂道。影が長く伸びる中、俺たちは歩幅を合わせて歩いた。
「……冴姫のこと、連絡あったんでしょ」
真凛が前を向いたまま、静かに口を開いた。
「ああ。……峠を越えたって。意識も戻ったそうだ」
真凛の足が、一瞬だけ止まる。
彼女は深く、深く息を吐き出すと、空を仰いだ。その目元が赤く潤んでいるのを、俺は見逃さなかった。
「……そ。……ちゃんと待っててくれたんだ」
ぶっきらぼうな物言い。けれど、その声は安堵に震えていた。
しばらく歩き、人通りの少ない公園の脇を通りかかったとき、真凛が立ち止まった。
「ねえ、優。……さっきの続き、話していい?」
彼女は街路樹の影に寄りかかり、遠くの街並みを見つめた。
夕日に照らされた彼女の横顔は、凛としていて、けれどどこか悲しげだった。
「アタシ、さっきのレースで確信した。……アタシ、やっぱり水泳が大好き。あそこで新記録を出せたとき、本当に幸せだった。……だから、これを捨てるのは、死ぬほど怖いし、本当は嫌だよ」
真凛は隠すことなく、自分のエゴを、弱さを言葉にした。
それが彼女の誠実さなのだと、俺には分かった。
「でもね、それ以上に怖かったの。……もしアタシが、自分の四年間を守るために、冴姫を見捨てるような選択をしたら。アタシ、この先一生、どんなに速く泳げても、自分のことを許せなくなる」
彼女はゆっくりと視線を動かし、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「ねえ、優。……アタシがなんで、今まで水泳を続けてきたか、知ってる?」
不意の問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。
「才能があったからだろ? それに、負けず嫌いだし」
「……違うよ」
真凛は小さく首を振ると、自嘲気味に、けれど愛おしそうに目を細めた。
「……覚えてないかな。アタシたちがまだ、小学校に上がる前。近所の市民プールで、アンタが初めて顔を水につけられたときのこと」
遠い記憶の扉が、ゆっくりと開いていく。
水飛沫と、塩素の匂い。青いタイル。
そこには、今よりもずっと短かった髪を揺らして、誇らしげに笑う幼い真凛の姿があった。
「あんた、言ったんだよ。……『真凛は水の中にいるときが一番、人魚みたいで綺麗だね』って」
「……え」
「あはは、覚えてないでしょ。……でもね、アタシには、それが世界のすべてだった。優にまた『綺麗だ』って言ってほしくて。人魚みたいに泳げば、あんたがずっと、アタシのことを見ててくれる気がして」
真凛は、自分の細い指先をじっと見つめた。
数え切れないほど水を掻き、タイムを削り、傷だらけになっても守り続けてきた、彼女の「人魚」としてのアイデンティティ。
「アタシにとって、水泳は『優と繋がっているための場所』だった。……だから、あそこで新記録を出して、金メダルを獲って。……それで、ようやく満足できたの。アタシ、ちゃんと人魚になれたよね、って」
真凛が顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、一分一秒を争うアスリートの険しさはなく、ただ恋を自覚した一人の少女の、震えるような輝きだけが宿っていた。
「……だから、もういいんだよ。人魚は、今日で終わり」
真凛は、俺のシャツの裾をギュッと握りしめる。
夕闇に溶けそうなほど、掠れた声。
真凛は俺のシャツの裾を握る手にぐっと力を込めると、弾かれたように顔を上げ、俺の胸元を突き放すように睨みつけた。
その瞳には、先ほどまでの静かな決意とは違う、もっと暗くて、熱い、剥き出しの感情が渦巻いている。
「……ねえ、優。わかってるよね? アタシがこれを捨てるってことは、アタシにはもう、何も残らないってことなんだよ」
「真凛……」
「水泳がなくなったアタシに、何があるの? 奨学金も、特待も、今まで積み上げてきたもの全部。全部あんたの『助けて』っていう一言のために、アタシはドブに捨てるんだよ」
真凛の言葉は、まるで鋭いナイフのように俺の胸を切り裂いた。
彼女は俺に歩み寄り、逃げ場を奪うように至近距離で俺の目を覗き込む。その瞳は、泣いているようにも、狂おしいほど笑っているようにも見えた。
「だから……責任、取ってよね」
「責任……?」
「そう。……アタシと、結婚して」
その言葉の重みに、俺の心臓が跳ねた。冗談で言っているような顔じゃない。彼女は本気で、自分の「水泳選手としての死」を、俺への一生の契約として突きつけてきている。
「冴姫を助ける。ドナーにもなる。……その代わり、あんたのこれからの人生、全部アタシに頂戴。あんたが言ったんだよ。アタシが人魚みたいだって。あんたがアタシを水に縛り付けて、今度はあんたがアタシを陸に引き揚げたんだから」
真凛の指先が、震えながら俺の頬を撫でる。
「アタシのこと、一生、離さないって約束しなさいよ。水泳をやめた責任、一生かけてあんたに押し付けてあげる。……いいよね?」
真凛の言葉は鋭く、俺を刺し貫くような響きを持っていた。
けれど、俺のシャツを握る彼女の指先は、今にも壊れてしまいそうなほど激しく震えていた。
(……ああ、そうか)
彼女は、俺を困らせたいわけじゃない。
水泳という唯一の居場所を捨て、空っぽになってしまう自分。明日から何を目指して歩けばいいのか分からなくなる孤独。その暗闇に独り取り残されるのが、死ぬほど怖いのだ。
だから、こんな残酷な言い方でしか、俺に縋ることができなかった。
「……ああ。わかった。責任……取るよ。」
俺が静かに告げると、真凛の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
俺を縛り付けるための「呪い」の言葉は、彼女が自分自身の心を繋ぎ止めるための、精一杯の悲鳴だったのだ。
「……バカ。……本当に、バカ優……っ。……ごめん、なさい……」
真凛は俺の胸に顔を埋め、謝罪と独占欲が混ざり合った嗚咽を漏らした。
夕闇が二人を包み込み、境界線を曖昧にしていく。
冴姫を救うための「光」の約束と、真凛の孤独を埋めるための「影」の約束。
その両方を背負って、俺たちは夜へと歩き出した。




