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今日もキミと夢をみる  作者: ゆあ


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第12話 九月の残影、臆病な婚約者

 カレンダーをめくると、9月の文字が目に飛び込んできた。


 5月に冴姫の異変に気づいてから、もう4ヶ月。


 かつては永遠に続くと思われたあの眩しい夏は、真凛がプールの壁を叩いたあの瞬間に、音を立てて幕を下ろした。


 街にはまだ入道雲が顔を出し、セミの声が最後の力を振り絞るように響いている。


 けれど、夕暮れ時にふと吹き抜ける風は、少しずつ湿り気を失い、乾いた秋の匂いを運んでくるようになっていた。


「……あ。また、あいつら走ってる」


 大学へ続く坂道の途中。真凛が足を止め、グラウンドの方を見つめた。


 そこでは、水泳部の部員たちが、新体制での練習メニューをこなすために威勢よく駆け出していた。


 一ヶ月前まで、あの中にいたはずの真凛。


 今は、特待生の資格を失い、重いスポーツバッグではなく、文庫本が数冊入っただけの薄いトートバッグを肩にかけている。


「……真凛。行くか」


「……うん。別に、羨ましいとかじゃないよ。……ただ、塩素の匂いがしない自分の服に、まだちょっと慣れないだけ」


 彼女は無理に口角を上げて笑ったが、その瞳はどこか遠くを見つめていた。


 水泳を辞めた彼女の毎日は、今、冴姫へのドナー準備という「医療のスケジュール」に支配されている。


 定期的な自己血貯血。

 数日おきに行われる、身体の隅々まで調べる精密な検査。


 アスリートとして鍛え上げた彼女の身体は今、冴姫に命を分けるための「器」として、静かに、けれど確実に削られていた。


「……貯血、結構しんどいんだね。今日も、階段を上がるだけで少し息が切れる」


「無理するな。今日はもう帰って休めよ」


「……ダメ。今日、冴姫の主治医から話があるって言われてるから。……移植まで、あと一ヶ月半でしょ。……いよいよなんだなって、実感が湧いてきちゃって」


 病院の白いロビーに入ると、冷房の効いた空気が肌を刺した。


 9月の外気とは対照的な、無機質な静寂。


 冴姫はこの4ヶ月、この建物の中で、一度も外の空気を吸うことなく戦い続けてきた。


 移植前の「地固め療法」によって、彼女の身体は極限まで衰弱している。悪い細胞を消し去るために、自分の健康な細胞までをも焼き払う、孤独で過酷なプロセス。


 真凛が「人魚」であることを捨てて準備をしている間、冴姫は「自分」という存在を一度空っぽにして、真凛を受け入れるための空白を作っているのだ。


 ナースステーションの脇を通るとき、ガラス越しに、面会謝絶のプレートがかかった冴姫の病室が見えた。


 直接会うことはできない。けれど、スマホの画面越しに届く冴姫のメッセージは、日に日に短くなっている。


『――きょう、ご、はん……すこし、たべれた。……まりんちゃんの、おまもり、ずっと……もってるよ』


 真凛は、そのメッセージを見つめながら、自分の腕をそっとさすった。

 その腕の血管には、冴姫に届けるための血が、そして骨髄が、静かに脈打っている。


「……優」


「ん?」


「……アタシ、時々怖くなるんだ。……冴姫の中にアタシの一部が入って、あいつが元気になったとき。……あいつ、アタシに感謝なんてしなくていいから、ただ、普通に笑ってくれるかな。」


 真凛が、俺のシャツの袖を小さく掴んだ。


 夕暮れの病棟。窓から差し込むオレンジ色の光が、彼女の横顔を寂しく照らしている。


 10月半ば、あるいは11月初旬。

 木々が枯れ落ち、本格的な冬が来る前に、二人の少女の命は一つに繋がる。


「……行こう。主治医が待ってる」


 俺たちは、止まったままの時間を動かすために、白い廊下の奥へと歩き出した。


「……冴姫さんは、本当によく頑張っていますよ」


 白衣を着た主治医は、カルテを見つめながら静かに言った。


 移植に向けた前処置は、想像を絶する苦痛を伴う。それでも彼女は、一度も「辞めたい」とは口にしていないという。


「真凛さんの検査結果も良好です。予定通り、来月半ばには採取に移れるでしょう。……二人とも、本当に強いですね」


 主治医の言葉を、真凛は隣で無言で聞いていた。


「強い」と言われるたびに、彼女の肩が微かに強張るのを俺は見逃さなかった。


 病院を出ると、九月のねっとりとした残暑が二人を包み込んだ。


 街灯には羽虫が群がり、遠くから聞こえる電車の音が、やけに重く響いている。


「……ねえ、優」


 駅へと向かう道すがら、真凛がふと立ち止まった。


「……帰りたくない。……まだ、一人になりたくないの」


 振り返ると、彼女は街路樹の影に半分隠れるようにして、自分の腕を抱きしめていた。


 水泳のない放課後。練習に明け暮れていた頃には気づかなかった、夕暮れから夜に変わる時間の「静けさ」が、今の彼女には耐え難い孤独に感じられるのだろう。


「どこか、寄っていくか? 腹減ってるなら、何か食べていくか」


「……ううん。ただ、歩きたい。……どこでもいいから、あんたと一緒にいたいだけ」


 真凛はそう言うと、無理やり明るいトーンを作って、俺の隣に並んだ。

 そして、わざとらしく俺の顔を覗き込む。


「……何よ。一応、アタシたち『婚約者』でしょ? これくらいのワガママ、いいじゃない」


「……ああ。そうだな」


 彼女の冗談めかした言葉に、胸の奥がチリりと痛む。


 あの夕暮れに交わした「責任を取る」という約束。彼女はそれを盾にして、俺を自分の側に引き寄せようとしている。


 夜の公園。ベンチに座ると、真凛は俺の肩に頭を預けてきた。

 夏の終わりの、少し汗ばんだ彼女の体温。


(……アタシ、最低だ)


 真凛は心の中で、自分を呪っていた。


 冴姫があの白い部屋で死ぬ思いで頑張っているのに、自分はこうして、彼女が何よりも欲しがっていた「優の隣」を、独り占めしている。


 ドナーになる。親友を助ける。

 それは偽りのない本心だ。


 けれど、その代償として「優との未来」を要求してしまった自分の醜さが、彼女自身を蝕んでいた。


(冴姫が元気になったら、アタシはどうすればいいの?)


 優を返すべきだ。そう分かっている。


 けれど、水泳を失い、何もなくなった自分から優まで取り上げられたら、自分は本当に消えてしまうのではないか。


 冴姫を救いたい気持ちと、冴姫から優を奪い去りたい欲望。


 その矛盾が、真凛の心を真っ二つに引き裂いている。


「……アタシが本当は、どれだけ臆病で、ズルい奴か……あんたは、まだ何も知らないんだから」


 真凛は俺の腕を、折れんばかりの力で握りしめた。


 その震えは、迫りくる手術への恐怖なのか、それとも、いつか訪れる「審判」の日への怯えなのか。


 九月の夜風が、二人の間を冷たく通り抜けていった。


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