第13話 はじまりの波紋
五歳の夏、空はどこまでも高く、公園の砂場は火傷しそうなほど熱かった。
「……う、うわぁぁぁん……っ」
公園の隅にある、子供の背丈よりもずっと高い滑り台のてっぺん。
そこで小さな体を丸めて泣いていたのは、引っ越してきたばかりの冴姫だった。
他の元気な子供たちが後ろから「早く滑れよ!」「邪魔だよ!」と声を上げるたび、彼女はますます手すりを強く握りしめ、顔を真っ赤にして震えていた。
「……どいてよ。僕が先に滑るんだから」
一人の男の子が冴姫の肩をぐいっと押した。
バランスを崩しかけた冴姫が、悲鳴を上げようとしたその時。
「待てよ! 怖がってるだろ!」
下から勢いよく階段を駆け上がってきたのが、五歳の優だった。
優は冴姫を突き飛ばそうとした男の子の前に立ちはだかり、小さな胸を張って睨みつけた。
「優くん……っ」
「大丈夫だよ、冴姫。俺がついてるから」
優は男の子たちが去っていくのを待ってから、ゆっくりと冴姫の方を振り向いた。
膝には転んで作った大きな絆創膏。けれどその瞳は、泣きべそをかいている冴姫を包み込むような、不思議な強さを持っていた。
「……こわいの。……あしが、すくんじゃって、うごけないの」
「ん。じゃあ、一緒に滑ろう」
「え……?」
優は冴姫の隣にちょこんと座ると、彼女の小さな、震える手を自分の手でぎゅっと握りしめた。
「俺が後ろから支えてあげる。お城のお姫様を助ける騎士みたいにさ。だから、目をつぶってていいよ」
「……きし、さま?」
「そう。俺、冴姫のこと、ずっと守ってあげるって決めたんだ。……いくよ?」
優が優しく背中を押すと、二人の体はゆっくりと風を切って滑り出した。
一瞬の浮遊感。
目を開けると、目の前には優の笑った顔と、キラキラと輝く夏の景色が広がっていた。
「……あ」
着地した砂場の上で、冴姫は自分の手を握りしめている優の温かさをじっと感じていた。
怖かったはずの滑り台が、彼と一緒なら、魔法のアトラクションみたいに思えた。
「ね? 怖くなかっただろ?」
「……うん! 優くん、かっこいい!」
冴姫は涙を拭いて、満面の笑みを浮かべた。
それが、二人が本当の意味で「特別」になった瞬間だった。
この日から、冴姫にとって優は「王子様」でも「ヒーロー」でもなく、自分を暗闇から連れ出してくれる唯一の「光」になった。
そして優もまた、泣き虫な彼女を一生守っていくのだと、五歳なりの純粋な心で誓ったのだ。
――数日後
公園での「騎士の約束」から数日後。
冴姫の家の玄関先に、日焼けした肌と、ひまわりのように明るい笑顔の女の子が立っていた。真凛は互いに引っ越してくる前から親戚で、物心つく前から面識がある友達だった。
「優くん、あのね! わたしのお友達の真凛ちゃんが、お引っ越ししてきたの!」
冴姫は自分のことのように嬉しそうに、隣に住む優の腕を引いた。
「真凛ちゃん、この子がいつも助けてくれる優くんだよ。……優くん、真凛ちゃんはね、水泳がとっても上手なんだって!」
冴姫が誇らしげに紹介したその瞬間。
優と真凛の視線がぶつかった。
「……よろしく。俺、優」
「アタシ、真凛! あんた、そのTシャツ新しい戦隊のヤツ!?」
真凛は物怖じすることなく、優の手を力強く握った。
大人しくて「守ってあげなきゃいけない」冴姫とは正反対の、眩しいほどのエネルギー。
優も、自分と同じように活発で、瞳に強い意志を宿した真凛に、一瞬で目を奪われた。
「いいだろ!この前買ってもらったんだ!」
「いいな! かっこいいよね!」
二人は瞬く間に意気投合し、最近テレビでやっている男の子向けの戦隊の話や、市民プールの話で盛り上がり始めた。
昨日まで、優の視線の先にはいつも冴姫だけがいた。優の語る物語の聞き手は、いつも冴姫だけだった。
「……あ」
二人の会話の輪から、ほんの数歩分だけ取り残された場所で、冴姫は立ち尽くしていた。
優くんと、大好きな真凛ちゃん。
二人が仲良くなってくれたのは、自分が一番望んでいたことのはずだった。
(……でも、なんだか……嫌だな……)
二人が笑い合うたびに、五歳の冴姫の胸の奥で、小さな棘がチクリと刺さるような感覚。
優くんの「騎士様」としての顔ではなく、一人の「男の子」としての楽しそうな顔。
それは、自分と一緒にいる時にはあまり見せない、対等な者同士の輝きだった。
「冴姫も行こうよ! 真凛が今度、潜りっこしようって!」
優が振り返って笑顔で手を差し出した。
その手は変わらず温かい。けれど、冴姫はその手を取る時、自分の中にある「独占欲」という言葉も知らないほど純粋で醜い感情に、初めて触れた気がした。
「……うん。いく!」
冴姫は精一杯の笑顔を作って、二人の元へ駆け寄った。
青い空の下、三人の影が一つに重なる。
それが、終わりのない絆の始まりであり、同時に、決して消えることのない「嫉妬」という種が蒔かれた瞬間でもあった。
この日から、三人はいつも一緒だった。
けれど、冴姫は知っていた。
自分が優に守られている間、真凛もまた、冴姫の知らない「優の顔」を少しずつ引き出していく。
三人の夏は、こうして静かに、けれど決定的に形を変えて動き出した。




