迷い人と元王子
安堵と祝福の空気で祝宴が賑やかに催される。その喧噪を遠くに聞きながら私は西の棟にいた。さっきまでいた教会関係者と見届け人も去り、新床の二人に配慮して侍女は早々に立ち去っている。
やっと二人きりになったというのに。浮き立つようなときめきをまるで感じないままに、私は寝台に腰掛けている。
「疲れなかったか?」
「ジェームス様こそ」
「あれくらいはどうということもない。むしろ笑顔を強要され続ける方が堪える」
「ふふ……私も顔が引きつりそうになりました」
ほんのちょっとだけほぐれた空気は、でもすぐに気まずい沈黙に取って代わる。
自分の身につけている頼りない薄物は贅を尽くした物で、それは長い一日の間に身につけた衣装や品々にも言えることだった。荘厳で重厚な空気も肩にのしかかる。載せられた冠の重みはこれからの責任を感じさせた。
ジェームスも極上の生地の寝間着を身につけている。
「一日も早く、子を成したい」
「――はい」
あの二人にできる前に。暗黙の了解に頷く私の頬に、大きくてたこのある掌が当てられた。
反射的に逃げないようにと神経を集中させる。ゆっくりと顔を上げて寝台でジェームスと向かい合う。
「首尾は、いかがですか?」
「遅効性のものを井戸に沈めた。さすがに側近くまで入り込んでというのは難しかった」
「長く井戸に留まるのですか?」
「ああ、じわじわと水に溶け出す」
代々王室に伝わる輝かしい宝物と、表裏一体の薬物の数々。自然なものから即効性、遅効性のものまで効き目も時期も様々なある種の『薬』の一つを、ジェームスは二人が身を寄せている老貴族の館の井戸に投げ込ませた。
二人にだけ効果を及ぼすというわけにいかなかったのは後味が悪い。ただ、廃位されたとはいえアーサーに与する者は長い目で見て王室の敵になる。
あちらも警戒はしていただろうから、井戸に投げ込めたのは使っている者の手際が良かったと考えられる。
思わずほっと息を漏らした私の唇は醜く歪んでいたかもしれないし、笑みを刻んでいたかもしれない。
ジェームスの手は頬から離れた。
「よくわからないのだが、なぜアーサーに耐性があって遅効性のものをと望んだのだ?」
言葉の端に不機嫌の芽を感じて私はジェームスを見上げる。
果たして真意を探ろうとしてか、厳しい眼差しがまっすぐに寄せられていた。ジェームスの杞憂に、見当違いの心配になぜか笑みが浮かんでしまう。
「この期に及んでアーサー様とどうこうなんて思ってはおりません。カスミはこちらの薬に耐性などありませんし、アーサー様より小柄です。先に効き目が現れるでしょう? まず体の内側から蝕まれていく……アーサー様とて耐性はあっても逃れられぬ量をおびるはず、そうではありませんか?」
「ああ、そうだ」
「では」
今度こそ歪んだ満足が私を支配する。
「カスミが苦しんでゆっくりと命を削る間、アーサー様はなすすべなく見守らなければなりません。井戸に投げ込んだのですから、館全体の病として捉えられるでしょう。原因に気付いたとしてもどうしようもありません」
そう、まずカスミの方が倒れるだろう。望んだのは子供を産めなくした上でその身で罪をあがなわせること。
無邪気に想いを寄せたそれこそが罪だったのだと、言っても通じない相手に体でわからせること。
「罪の度合いはアーサー様がより重いと、私は考えます。楽になんてさせない」
「まず大切な者を失う悲哀を、その上で自分自身も苦しめ、と」
「私達に子が生まれるまではアーサー様にも生きていてもらわなければ、口さがない者も多いかと思われます」
ジェームスとの間に子がなせなかった場合、廃位されたとはいえアーサーを担ごうという動きがあるかもしれない。子はいないのにアーサーが死んでいれば、遠縁などが王位を狙って不穏な動きが起こる恐れがある。子が生まれるまでは生きていてもらわなければ、困る。
どんな形であれ、生きていてもらわなければ。
王子の地位と責任を放り出したアーサーを許せないのは、私以上にジェームスだろう。結局アーサーはカスミを庇護する自分に酔い、二人で困難に立ち向かうのではなく楽な方に逃げた。王子の、いずれは王としての重責をジェームスに押しつけ、私を捨てて。
無条件に自分を頼るカスミを選んだのだ。
――それともこんな非情な思考をして手段を取るような私だから、選ばれず愛されなかったのだろうか。
「本当に私はひどいですね」
かつての許婚を、夫になったジェームスの兄を冷酷に葬る相談をしているのだから。
自虐に陥りそうな私は、不意にジェームスから抱きしめられる。
「許せないのは私も同じだ。見逃せば危険きまわりないのも承知している。しでかしたことの大きさを自覚もせずに、済ませられる道理はない」
「ジェームス、様」
「泣きそうな、顔をしていた」
男の人の腕に包まれて私は目を閉じる。この腕がアーサーだったら、物心つく前から結ばれると疑いもしなかったアーサーだったら……。
目蓋の裏がじわりと滲みそうになり、それを必死に抑える。
ジェームスの腕に手をかけそっと体を離して見上げた。
「泣きません。泣けば、ジェームス様は王子妃にはしてくださらないのでしょう?」
「私がか?」
「うんと小さい頃、そうおっしゃいました」
愛はない。利害で結びついた私達の関係はきっと不安定だ。ジェームスにもいつか愛してやまない人がでてくるかもしれない。婚約を破棄したあの令嬢や、カスミのように不意に現れる女性がジェームスの心を占める可能性は、じゅうぶんにある。
私にできるのは、理性ある振る舞いでこれからを平穏に導くことだ。泣いて、不興を買うのは避けなければならない。
記憶を探っていたらしいジェームスは思い出さなかったのだろう、小さく首を振った。怒ったような表情は見せず、代わりに人の悪い皮肉さを浮かべる。
「――色々な感情で人は泣くのを知っているから、別の意味で泣くのなら構わない」
「あ、の」
「私達の間には、あの二人のような恋愛は存在しないかもしれない」
かもしれない、ではなく恋情はないだろう。ゆっくりと心の中で育てた慕情もない。
ジェームスが何を伝えたいのかわからず、寝台にいるというのに私は意味を読み取ろうとおかしいくらいに真面目に見つめてしまう。
義務として子をなし、王子と王子妃、ゆくゆくは国王と王妃としての責務を果たす。それならばわきまえている。
そこに私情の入る余地はない。
再確認かと思ったのに、紡がれたのは意外な文句だった。
「ただ親愛や敬愛ならば、存在していると確信している」
「……ええ、それは確かに」
「その情を育てれば、いずれは新たな感情が紡がれるだろう」
ゆっくりとジェームスの文言が染みこんでくる。全てを投げ打つような激しさはなくても、緩やかに関係を紡いでいこうとジェームスは匂わせていた。
同志愛であったり家族愛であったり、どう名付ければいいかはわからないがじっくりと心を温めていく感情を築こうと誘われている。
私はジェームスの肩口に顔を埋めた。
アーサーとカスミは恋に生きる決意をして、恋のために死にゆこうとしている。恋や愛で死ねるのなら本望だろうと思う冷酷な私が存在する。
対して私とジェームスは二人を犠牲にして災厄の芽を摘み、生きていこうとしている。非道さでいえば私達はお似合いだ。今から歩もうとする道も、けしてきれい事ではおさまらない茨の道に違いない。
アーサーと手を繋いで歩むつもりだったのに、ジェームスに手を引かれて歩むのは不思議でしかたがない。
「あの二人は毎日のように湯浴み、いや入浴をするから他の者よりも早く侵されていく」
「井戸に投げ込んだのは、湯でも成分が変わらないのですか?」
「ああ、蒸気となって息をするときに体内に入るだろうし、皮膚からもじわじわと染みこむ」
「そう……ですか」
「その上で万一のことがあれば、井戸水などに頼らずきちんと処理する」
寝台に横たわりながら囁かれるのは睦言ではなく、呪いの予言だ。
カスミのいたところでは、毎日のように身を清めたそうだ。とても好ましい習慣だと思う。こちらでも身分が高いほど湯浴みの回数は増える。
ただカスミの世界のやり方は、体がすっぽりと入るほどの大きな入れ物になみなみと湯をたたえて浸かるというもので、カスミは入れ物を浴槽、湯にほぼ全身をつかるのを入浴と称していた。
アーサーもいつしかそのやり方にはまり、ほぼ毎日入浴していたのを思い出す。
確かに素晴らしい習慣だ。気持ちもよく汚れも落ちる。
ただその湯をたたえるという行為がどれほど大変なのか、二人とも思い至らなかった。
井戸から何度も往復しては水を汲み、大鍋で沸かしては浴槽とやらに冷めないように湯を入れる。多くの人手と手間をかけさせて満足を受容する、その一連の作業を、カスミは何かを押せば全部人ではないからくりのようなものがやってくれるとこともなげに語っていた。
カスミには当然の習慣でも、アーサーは諭すべきだったのだ。私がやんわりとたしなめても、カスミには届かなかったのだから。
ここはカスミのいた所と同じではない、同じようにしようとすると重労働なのだから頻度を少なくするとか、せめて腰の高さ程度に湯を少なくすべきだと。
アーサーはたしなめなかった。それどころか、自分もその習慣を取り入れてしまった。
結果的に、彼らの寿命を縮める行為を習慣化してしまった。老貴族の館でも、王城同様に夜毎二人は入浴しているだろう。緩やかな罠で命を縮めるとも知らず。
私はもう踏み出してしまった。二人だけが倒れると不審を招くから、館の者ごと手を下す道を選んだ。
他の者は二人ほどの影響を受けないだろうと楽観はしている。毎日湯に浸かるわけではなく、寝具を取り替えるわけではない。一日に何度もお茶を飲むわけでもない。
それでも確実に、アーサー派と目された老貴族と館の者の未来は閉ざされた。カスミの後見のみならず、アーサーまで保護したのだから仕方ないと私は割り切る。
痛みに泣きそうになりながら、王子妃としての義務を果たす。
きつく閉じた目蓋の裏に笑うカスミとアーサーが浮かぶ。二人とも好きだった。よい関係のままでいられなかったことは胸が痛い。
あの頃望んだ未来は変わり、画策した望ましい結末は後味が悪い。
誰も幸せではない。あの二人はかりそめの幸福の上にあり、私とジェームスは行く先の見えない道を歩かなければならない。
ただひとつだけ、今後の異世界からの迷い人はけして王城には保護されない。徹底的に影響の及ばないところに遠ざけられる。
そう、もうけして、第二のカスミは誕生させない。
ふしだらに足をさらけ出して惑わせるような、自由などと危険な価値観や思想を持つような存在を近づけはしない。
これも望ましい結末なのだろうか。今後現れるかもしれない迷い人にとっては、望ましいからは程遠い真っ暗な未来だろう。
でも私は気の毒に思う偽善を捨てた。ジェームスと二人して手を血に浸す。たとえ血まみれだろうと、王室や国を守らなければならない。危険な芽は摘み障害は排除する。
アーサーが吐き捨てたのより、はるかに息苦しい未来だ。
それでも国を、王室を光の下に導くためには必要なこと。
私はジェームスとの未来を歩く道を選んだ。
結果は後世の人なり歴史が判断してくれる。
それだけのこと。