第3話 四百年前の焔羅
お読みいただき、ありがとうございます。
『選ばれなかった俺たちが、学園崩壊で“選ぶ側”になるまで』第3話です。
前話のラストで広げられた絵巻物の、その続きから始まります。
今回は、剣も牙も出てきません。
戦いの音がない代わりに、静かな部屋で、ゆっくりと足元が崩れていくような回です。
物語の舞台は二か所。
虫の声が聞こえる福江市の宿坊と、夜の山中に口を開けた勝川市の洞窟です。
二つの場所で、同じ夜が別々の顔をして流れていきます。
慎悟たちがこれまで戦ってきた敵は、いったい何だったのか。
その問いに、今回は少しだけ、嫌な角度から光が当たります。
長めの回ですが、スマホでも読みやすいよう、改行を多めにしました。
ぜひ、夜にゆっくりと、絵巻を覗き込むような気持ちでお楽しみください。
それでは、第3話「四百年前の焔羅」をどうぞ。
沈黙が、いつまでも部屋に留まっていた。
誰も、その名をもう一度は呼べなかった。
慎悟の口からこぼれた「……美里」という一言だけが、まだ畳の上に置き去りにされたまま、部屋の空気を重く沈めている。
窓の外では虫が鳴いている。宿坊のどこかで、蚊取り線香の煙がゆっくりと立ち上っている。夏の夜の匂いは、いつもと何も変わらない。
なのに、目の前に広げられた絵巻物だけが、その日常のなかへ、明らかに異物として存在していた。
赤と黒に彩られた身体。人間の女性を思わせる上半身。恐竜の装甲を思わせる肩と腕。頭には、王冠を思わせる角が並んでいる。
周囲に描かれた異形の獣たちは、皆一様に、その姿へ頭を垂れていた。
まるで女王を仰ぐように。
友紀は、まだ絵から目を離せずにいる。南海の手は、膝の上に置かれたまま動かない。翼の視線は、絵巻の一点に縫い止められている。
長い沈黙のあと、最初に動いたのは寿蒙だった。
震える指先で、絵の脇に小さく記された文字をなぞる。
「……名が、記されています」
その一言で、部屋の空気がわずかに動いた。
翼がにじり寄り、寿蒙の指先が示す文字を読み上げる。
「……焔羅」
友紀の声が小さく漏れる。
「焔羅……」
誰も答えない。答えられない。
その名の下に描かれた顔は、髪型も衣装も違う。それでも、目元の角度、口元の線、周囲を見下ろす視線の高さ――そのすべてが、慎悟たちの知るある人物と、恐ろしいほど重なっていた。
四百年以上前の絵の中に、なぜ金津美里の顔があるのか。
答えは、どこにもない。
◇
慎悟の視線が、焔羅を取り囲む十体へ移る。
恐竜型の鬼たち。それぞれの横に、名が記されている。
翼が、一つずつ、慎重に読み上げていく。
「烈王」
慎悟たちの肩に、緊張が走る。
「霧香」
友紀の表情が消える。
「牙蓮」
歩美が息を呑む。
「魔盾牙」
美奈子が銀玲杖を握る手に力を込める。
「滄爪」
蓮の眉がわずかに動く。
「棘王」
健太の顔つきが険しくなる。
「咬覇」
翔一が、いつもの茶化す言葉を飲み込んだ。
「牛竜」
南海が慎悟の横顔を見る。
「角羅」
歩美が唇を結ぶ。
そして、最後の一体。
「……凍珠」
伊織だけが、完全に動きを止めた。
名前だけではない。武器の形、体格、装甲鱗の質感、頭部の突起――すべてが、現在の覇竜十傑とあまりにも一致していた。
「いやいや……」翔一が乾いた声を出す。「名前が同じだけなら、まだ偶然とか言えるかもしれねえけどさ」
「姿まで一致してんのは、さすがに無理があるだろ」健太が唸る。
綾実が、絵巻から目を離さないまま呟いた。
「しかも……美里たちが、生まれる、ずっと前……」
慎悟は中央の焔羅と、それを囲む十体を見比べる。
現在の美里と覇竜十傑を、そのまま四百年前へ写し取ったような構図だった。
◇
翼がさらに絵巻を広げていく。
覇竜十傑の外側に、五体。
悪路漢、邪顎、冥顎、鱗華、麗刃――名の一部は傷んで読めないが、武器と外見は現在の五天王とほぼ一致している。
「……五天王まで、いる」翔一の声が掠れる。
さらに外側には、円を描くように配置された十二体。すべて角竜型。一本角、三本角、巨大な襟飾り。それぞれ姿が異なる。
慎悟が、思わず声に出す。
「こいつらは……?」
「私にも分かりません」寿蒙が静かに首を振る。
未知への不安が、部屋の空気を重くする。
翼がさらに絵巻の端を確かめる。
「……まだいる」
十一体の巨大な僧侶。僧衣。巨大な数珠。錫杖。異様に長い首。竜脚類を思わせる肉体。
寿蒙がその一体を見つめたまま、低く呟いた。
「……巨徳」
現在存在する巨徳と同系統の存在が、十一体。数百年以上生き続けている可能性と、それは符合してしまう。
「待て待て」翔一が言う。「まだ増えるのかよ」
いつもなら友紀か健太が茶々を入れる場面だ。だが誰も笑わない。翔一自身、誰かを笑わせるつもりはなかった。ただ、黙っていられなかっただけだ。
慎悟は絵巻全体を見渡す。
焔羅。覇竜十傑。五天王。十二体の角竜。十一体の鬼僧侶。
これまで命を懸けて戦ってきた敵が、もっと巨大な何かの、ほんの一部でしかなかったのかもしれない。
その予感が、腹の底へ重く沈んだ。
◇
翼が一度、深く息を吐いて気持ちを切り替える。
「……寿蒙さん。触っても、いいですか」
寿蒙が頷き、慎重に扱うよう告げる。
翼は紙の繊維、墨の滲み、顔料の劣化、折り目、虫食い、湿気による変色、筆致、後世の加筆の痕跡を丁寧に確かめていく。
友紀が息を詰めて尋ねる。
「……偽物、だったりしない?」
翼はすぐに答えない。
慎悟の内心では、むしろ偽物であってほしいと願う気持ちが動いていた。誰かが自分たちを脅すために最近作ったものなら、まだ理解できる。翼が厳しく調べているのも、同じ可能性を探しているからだ。
やがて翼が口を開く。
「……少なくとも、最近作られたものには見えない」
「マジかよ」健太が呻く。
翼は古紙を流用した偽造の可能性まで考慮しながらも、墨と紙の劣化、筆致に不自然な後付けの痕跡が見当たらないと続ける。
寿蒙も静かに頷いた。
「専門的な鑑定は必要でしょう。しかし――少なくとも、現代人が最近作った偽物だと考える材料は、今のところありません」
本物かもしれない。
その一言は、誰の肩からも力を抜かせなかった。
◇
慎悟は、伊織がずっと言葉を発していないことに気づく。
伊織は絵巻の凍珠だけを見つめていた。
水色系の装甲鱗。巨大な弩。現在の凍珠と、寸分違わない姿。
けれど伊織の意識のなかでは、その姿へ、中学時代の布目優が重なっていた。
弓道場。並んで立つ二人。弓を引く自分。矢を放つ優。弦の音。的に矢が刺さる音。練習後、射型についてぽつぽつと言葉を交わした、なんでもない時間。
「……優」
小さく、伊織が呟く。
慎悟が視線を向ける。
「これ……凍珠だよね」
「ああ」
「凍珠は……優なんだよね」
慎悟は少し間を置いてから答えた。
「ああ」
伊織の拳が、膝の上で固く握られる。
「だったら……」
声が震える。
「どうして四百年以上前の絵に、優がいるの……?」
誰も、すぐには答えられなかった。
名前が受け継がれるのか。誰かが未来を見たのか。ただの偶然なのか。
どれも推測に過ぎない。慎悟は答えを探したが、口にできる言葉が見つからなかった。
「大丈夫だ」とも、「絶対に助ける」とも、「きっと理由がある」とも――言えなかった。
慎悟は伊織を見て、静かに言う。
「……分からない」
伊織が顔を上げ、慎悟を見た。
「俺にも、分からない」
その言葉が、慎悟自身の胸にも重く突き刺さった。
◇
視線が、もう一度絵巻へ戻る。
四百年前から存在する焔羅。四百年前から存在する覇竜十傑。そして現在、同じ名を背負って鬼になった少年少女たち。
彼らは最初から、鬼になることを決められていたのか。
答えは、まだ出ない。
誰も、絵巻から目を上げない。
慎悟が、絞り出すように言う。
「でも……これが本物なら、俺たちはもっと昔のことを知らなきゃいけない」
翼が頷く。寿蒙も、静かに同意した。
絵巻に描かれた戦いは、過去の出来事ではない。
いま、この福江市で、再び動き始めている。
◇
同じ夜。場所は変わり、勝川市。
夕闇が夜へ変わり始めた山中に、細い林道が続いている。
二台のワゴン車と一台のトラックが停まり、最初に降り立ったのは金津美里だった。続いて、烈王、霧香、牙蓮、魔盾牙、滄爪、棘王、咬覇、牛竜、角羅、そして凍珠。最後にトラックの荷台から、巨大な巨徳が降りる。
その足が触れた瞬間、地面がわずかに震えた。
巨徳の先導で、一行は山肌の巨大な洞窟へ入っていく。人工物と自然の岩壁が混じり合ったような構造。長い間、人が立ち入っていない気配が漂う。
最奥には、巨大な石扉。
表面には古い経文と、恐竜を思わせる紋様。読めない文字。長年閉ざされていたことを物語る苔と埃と亀裂。
美里が、扉を見上げて言う。
「ここにいるのね?」
「はい」巨徳が答える。「長き眠りについております」
巨徳が冥土錫杖を持ち上げ、石扉の中央へ先端を当てる。
――シャン。
六つの環が鳴る。
洞窟全体が震え、天井から砂埃が落ちる。
凍珠は無言のまま立っている。烈王は周囲を警戒している。美里だけが、動じることなくその場に立っていた。
地の底から轟音が響く。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
数百年閉ざされていた巨大な石扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
内部から、冷たい空気が流れ出す。
土でも腐敗でもない、「長い死」を思わせる匂い。
その奥、巨大な暗闇のなかに――
十個の巨大な棺が、静かに並んでいた。
美里が目を細める。
巨徳の巨大な数珠が、微かに揺れる。
誰も口を開かない。
そして、棺の中から。
――ドクン。
一度だけ、心臓の鼓動に似た音が響いた。
誰も棺を開けない。中身も見えない。
ただその音だけが、洞窟の闇に長く尾を引いていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
第3話は、書いていて少し怖い回でした。
怖かったのは、敵が強いからではありません。
「名前が四百年前にある」という事実の、どうしようもない重さのほうです。
今回のいちばんの見どころは、絵巻に並んだ名前だと思っています。
烈王、霧香、牙蓮、魔盾牙、滄爪、棘王、咬覇、牛竜、角羅、凍珠。
そして中央に座す焔羅。
慎悟たちにとって、これらは「今、目の前にいる敵」の名前でした。
それが四百年も前の紙の上に、姿まで同じで、当たり前のように並んでいる。
偶然と呼ぶには、あまりにも整いすぎています。
読者の皆さんの中には、「名前が受け継がれているのでは?」「誰かが未来を見たのか?」と、いろいろ考えた方もいるかもしれません。
その考えは、慎悟たちがあの部屋で巡らせたものと、きっと近いはずです。
ただ、今回は敢えて、答えを一つも出していません。
分からないままの居心地の悪さを、登場人物と一緒に味わっていただきたかったからです。
◇
もう一つ、書いていて力が入った場面があります。
伊織が、絵巻の凍珠を見つめるところです。
絵の中の凍珠は、現在の凍珠と寸分違わない。
そして伊織にとって凍珠は、中学時代に弓道場で並んで立っていた、布目優でもある。
その二つが重なった時、伊織の口から出たのは、責める言葉でも泣き言でもなく、「どうして」という小さな問いでした。
その問いに対して、慎悟は「大丈夫だ」とも「絶対に助ける」とも言いません。
言えないのです。
「……分からない。俺にも、分からない」
リーダーの言葉としては、頼りないかもしれません。
けれど僕は、根拠のない励ましを口にしないことこそ、慎悟なりの誠実さだと思って書きました。
分からないと正直に言えることは、弱さではなく、相手を軽く扱わないということだと信じています。
この一言が、今後の慎悟たちにどう響いていくのか。
見守っていただけたら嬉しいです。
◇
そして、ラストの洞窟です。
美里たちが訪れた、山中の石扉。
巨徳の錫杖が鳴り、数百年閉ざされていた扉が開き、奥には巨大な棺が並んでいました。
そして、棺の中から響いた、一度きりの鼓動。
誰も棺を開けず、中身も見えません。
ただ「ドクン」という音だけが、闇に残りました。
ここで、第3話に出てきた数字を少し並べてみます。
十、五、十二、十一。
そして、洞窟の棺の数。
絵巻の外側に何が描かれていたのか。
石扉の奥に、何が眠っているのか。
数字は嘘をつきませんが、書かれていないことまでは教えてくれません。
頭の片隅に置いたまま、次のお話を待っていただければと思います。
◇
さて、次回は、いよいよ物語が大きく動きます。
第4話「冥嶽十一尊」
福江市の宿坊と、勝川市の洞窟。
離れた二つの場所で起きた出来事が、ここから少しずつ、一本の線に近づいていきます。
絵巻の中で慎悟たちを見下ろしていた存在が、ついに「絵」の外へ出てきます。
次回の更新も、どうぞお楽しみに。
◇
最後に、いつもの、そして心からのお願いです。
もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたなら、
ブックマークや評価、感想をいただけると、大変励みになります。
「ここが怖かった」「あの台詞が刺さった」「この名前が気になる」といった一言だけでも、
次の話を書く力になります。
誤字脱字や、読みにくい箇所を見つけた場合も、教えていただけると助かります。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございました。
それでは、第4話でまたお会いしましょう。




