第2話:換気扇と極上レアの牛カツ
ナポリタン。
それは、高級なフレンチやイタリアンにはない、郷愁を誘うこの街独自の洋食である。ビビアンはまず、冷蔵庫からタッパーを取り出す。中に入っているのは、昨日の夜に茹でておいた極太のパスタだ。
「ナポリタンの極意その一。『茹で置き麺』を使うこと。アルデンテなんて気取ったものは、ナポリタンには不要よ」
指定時間よりも長く茹で、水で締めてから少量の油を絡め、一晩冷蔵庫で寝かせる。これにより、モチモチとしたソフト麺のような独特な食感が生まれるのだ。
熱したフライパンにバターを落とし、玉ねぎ、ピーマン、薄切りのソーセージ、そしてマッシュルームを炒める。具材に火が通りしんなりとしたところで、ビビアンはフライパンの中の具材を奥に寄せ、手前に空きスペースを作った。
「ナポリタンの極意その二。『ケチャップの焼き切り』!」
空いたスペースに、たっぷりのトマトケチャップを直接投入する。
ジュワァァァァッ! とケチャップがフライパンの熱で煮立ち、酸っぱい匂いが立ち昇る。麺を入れる前に、ケチャップだけをフライパンで炒める(焼き切る)のだ。さらにそこへ赤ワインも少量入れる。こうすることにより、ケチャップや赤ワインの酸味と水分が飛んで旨味と甘みが極限まで凝縮された濃厚なソースとなりさらに芳醇な薫りも加わる。
ケチャップと赤ワインの両者の赤色が一段と深くドロリとした状態になったところで、茹で置きの極太麺を投入する。強火で一気に、麺とソース、具材を絡め合わせる。フライパンを煽るたびに、香ばしいケチャップの焦げる匂いが厨房に充満し、食欲の中枢を激しく刺激する。
「仕上げは、熱々に熱した鉄板に乗せて……溶き卵を回しかければ完成!」
ジュウウウウッ!
鉄板からの熱で卵が半熟に固まっていく。ビビアンはカウンターに座り、粉チーズとタバスコをたっぷりと振って、フォークにパスタをくるくると巻きつけた。
「んん〜っ! これこれ! 濃厚なケチャップの旨味と赤ワインの薫りがモチモチの麺に絡んで、も最高!」
口の周りを真っ赤にしながら、大盛りのナポリタンを平らげていく。
質素な服を着ていても、彼女の心と胃袋は、レッドへの愛と絶品の洋食で誰よりも豊かに満たされていた。
「おい、ビビアン。換気扇の調子が悪いって聞いたから、見てやりに来たぞ」
「あらレッド、悪いわね。昼の営業中に急に止まっちゃって。煙が抜けないと商売にならないから助かるわ」
赤い作業着を着たレッドが、工具箱を持って厨房に入ってきた。
「ふん。俺のような天才職人を、こんな油ギトギトの換気扇修理に呼ぶなど、本来なら万死に値する行為だぞ。感謝しろ」
「はいはい、ありがとう。お礼に、今日はあんたの好きなものを作ってあげるから」
ビビアンは上機嫌で冷蔵庫を開けた。
「今日は極上の牛ヒレ肉が入ってるの。これで、とびきりの『牛カツ』を作ってあげるわ」
「……ぎ、牛カツだと? あの、衣はサクサクで中はルビー色に輝く、あれか!?」
「そうよ。だから、大人しく換気扇直して待ってなさい」
レッドがゴクリと喉を鳴らすのを確認し、ビビアンは調理台に向かった。
「それじゃ、さっそく取り掛かりますか。『極上レアの牛カツ』!」
分厚く切り出した新鮮な牛ヒレ肉。牛の背骨の内側に位置し日常的な運動でほとんど使われない筋肉で、そのことから筋繊維が非常に細かく牛肉のあらゆる部位の中で最も柔らかい赤身の旨味が最も詰まった、最高級の部位である。これに軽く塩胡椒を振り、小麦粉、卵液、そして細かめのパン粉をまぶしていく。豚のカツレツとは違い、パン粉は粗いものを使うと肉の食感を邪魔してしまうため、細かく挽いたものを使うのが鉄則だ。
「牛カツの命は、揚げる時間と温度。『高温短時間揚げと余熱』よ」
ビビアンは鍋にたっぷりの油を注ぎ、火炎石の魔導コンロを全開にする。油の温度は、通常の揚げ物よりもはるかに高い、二〇〇度以上の超高温だ。
「いくわよ……!」
衣をつけたヒレ肉を、煮えたぎる油の中に静かに投入する。
バチバチバチッ!!
激しい音が鳴り響き、油が踊る。一秒、二秒、三秒……ビビアンは瞬きもせずに鍋の中を見つめ、頭の中で正確に秒数をカウントしていく。牛肉は豚肉と違い、中まで完全に火を通す必要はない。むしろ、火を通しすぎるとヒレ肉の柔らかな食感が失われてしまう。
「……五十八、五十九、六十! 今ッ!」
油に投入してからわずか六十秒。衣がきつね色に色づいた瞬間に、ビビアンは素早く肉を引き上げた。そして、網の上に乗せ、そのまま数分間放置する。
「ここで休ませることで、衣の熱がじんわりと中心に向かって伝わり、冷たかった芯が『温かいレア』の状態になるの。これで完成よ!」
ビビアンが包丁を入れる。サクッ、という小気味良い音と共に肉が両断される。断面は、外側の衣はわずか一ミリ。その内側には火の通ったピンク色の層が薄くあり、中心部は鮮やかで美しいルビー色を保っていた。肉汁が輝き、見ているだけで喉が鳴る芸術的な仕上がりだ。
「特製のワサビ醤油ソースを添えて……おーい、レッド! 換気扇直った? 牛カツできたわよ!」




