第9話:湯あみとカニクリームコロッケ
「ただいまー!」
数週間後、琥珀亭にビビアンの明るい声が響き渡った。扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「ビ、ビビアンさぁぁん……」
「飯が……ビビアンの洋食がないと、力が出ねぇ……」
ゴンザをはじめとする常連客たちが、まるでゾンビのようにゲッソリと痩せこけてテーブルに突っ伏していたのだ。そしてカウンターの隅には、さらに魂が抜けかけた状態で、真っ赤な作業着の男が倒れていた。
「レッド! あんた、ちゃんとご飯食べてたの!?」
そこへ、奥の厨房から声がした。
「……あ、姉さん。おかえり」
エプロン姿のジェシカが、申し訳なさそうに顔を覗かせた。手には洗い物のフライパンを持っている。
「ジェシカ!? あんた何してるの?」
「……父ちゃんから頼まれて、店番と簡単な飯だけ作っとったんやけど」
ジェシカはチラリとゾンビ状態の常連客たちを見た。
「私の飯じゃ、全然ダメやったわ。卵焼きとか、煮物とか、一応作ったんやけど……」
「・・・・・美味かったけどな、ジェシカの飯」
ゴンザが息も絶え絶えに呟く。
「そうよ、ジェシカちゃんの料理は美味しかった。でも……なんか、ビビアンちゃんの料理が恋しくて恋しくて……」
マーサが遠い目をする。
「私の卵焼きの問題やないやん……」
ジェシカはゾンビの群れをジト目で追った後、ため息をついた。そして、エプロンを外しながらビビアンに向き直った。
「……姉さん、一個だけ言うていい?」
「なに?」
「あいつ(レッド)」
ジェシカは視線でカウンターのレッドを示した。
「湯あみから姉さんが帰ってくるまでずっと、毎日開店前に来て、鍵が開くまで扉の前で立って待っとったで」
「……え?」
「最初は『換気扇の確認に来た』言うて。次来た時には『魔導コンロの点検に来た』言うて。最後のほうでは何も言わんと、ただ立っとった」
ビビアンは絶句した。
「……私にはそっぽ向いて全部『仕事』やって言い張っとったけど」
ジェシカはジト目のまま、ドアの方へ歩き出した。
「姉さん、アイツ完全に拗らせワンコやで。姉さんの絶品洋食に依存しまくって、もう料理で殺してますやん……あほらし、私も帰るわ」
「ちょっとジェシカ、待ちなさいよ!」
「姉さんがちゃんとうまくいったら、お祝いのご飯食べさせてな」
カランコロン、とドアベルが鳴り、ジェシカは振り返りもせずに手を振って出て行った。
残されたビビアンは、カウンターで倒れているふりをしているレッドをじっと見た。
虫の息で
「……お、おせーぞバカ女……。俺の、胃袋が……限界だ……」
と呟く偏屈職人の顔が、なぜか耳まで赤い。
「まったく・・ちょっと待ってな! 今すぐとびきり元気が出るやつを作るから!」
ビビアンは頬の傷を撫でながら、厨房へ向かった。
胸の中が、妙にあたたかかった。
ビビアンが取り掛かったのは、老若男女問わず誰もが愛する洋食の王道、「カニクリームコロッケ」である。
濃厚なカニの身をたっぷりと入れたベシャメルソースを作る。しかし、ここからがクリームコロッケの最も難しく、重要な工程だ。
「熱いままのタネを揚げると、水分が爆発して油の中でコロッケが破裂しちゃうの。だから、『タネの完全冷却』が絶対条件よ!」
ビビアンは魔法の氷を使ってタネを急激に冷やし、バットに広げて表面にラップを密着させ、芯まで完全に冷やし固めた。そして、小麦粉、卵、水を混ぜ合わせた「バッター液」にくぐらせる。小麦粉と卵を別々につけるよりも、バッター液を使うことで厚く均一な衣の壁ができ、爆発をさらに防ぐことができるのだ。
生パン粉をふんわりと纏わせ、高温の油に投入する。
油の弾ける心地よい音が店内に響き渡る。表面がこんがりときつね色になった瞬間、素早く油から引き上げる。余熱で中のクリームがトロトロに溶け出す、完璧なタイミングだ。
「お待たせ! 琥珀亭特製、爆発しないカニクリームコロッケよ!」
揚げたてのコロッケが、常連客たちとレッドの前に配られる。レッドは震える手でフォークを突き刺した。
サクッ。
薄く香ばしい衣が破れると、中から熱々で濃厚なカニのクリームが、湯気と共にトロリと溢れ出した。ハフハフと口に運んだ瞬間、カニの強烈な旨味と、バターと牛乳の優しい甘みが爆発する。サクサクの衣とトロトロのクリームのコントラストが、空っぽの胃袋を多幸感で満たしていく。
「……う、うまい……。これだよ、俺が求めていたエネルギーは……!」
レッドはポロポロと涙を流しながら、子供のようにコロッケを貪り食った。その姿を見て、常連客たちも一斉に息を吹き返し、店内はいつもの賑やかでやかましい活気を取り戻した。
「まったく、私がいないとダメなんだから」
ビビアンは呆れたように笑いながら、嬉しそうに左頬の傷を撫でた。
湯で整った成果か、彼女の肌は以前にも増して艶やかに輝いていた。
そして何より彼女が帰るべき場所は、この騒がしくて温かい、大好きなみんながいるこの食堂なのだと、改めて実感したのだった。




