私の言葉を見てください
終演を知らせる鐘の余韻が消えると、広間の照明が少し落とされた。中央の階段にアルヴィン第二王子が立ち、客席へ向かって手を上げる。セラフィナはその隣で、リディアの声を使って笑っていた。
「皆に聞いてほしい。今夜、私は一人の女性に大切な言葉を伝えるつもりだ」
王子が言うと、客席の貴族たちは一斉に姿勢を正した。セラフィナは嬉しそうに花束を抱き直し、王子の袖へ手を添えた。
「殿下、その前に、わたくしからも申し上げたいことがございます」
リディアは広間の入口で足を止めた。妹は、彼女の声で王子へ向き直った。
「わたくしを、お妃にしてください。これからも殿下だけのために歌います」
広間がどよめいた。王子は驚き、少し困ったように笑った。リディアはその表情を見て、妹が王子の答えを待たずに話を進めていることに気づいた。
継母が入口に現れ、リディアを見つけると険しい顔になった。
「どうしてここにいるの。戻りなさい」
リディアは返事をせず、広間へ進んだ。エドガーは半歩後ろを歩き、彼女が止まるたびに一緒に止まった。
王子の前には赤い絨毯が延びている。侍従長が二人の行く手を塞いだ。
「ここから先は招待客のみだ」
リディアは胸元から紙を取り出した。登録室でとっさに隠した、更新拒否の申し立て用紙だ。署名欄には自分の名を記し、朱色の指印を押してある。
『私は声の貸主です。王宮の記録に異議を申し立てます』
エドガーが声にした。侍従長は顔をしかめた。
「お前は任務を解いたはずだ」
「私は今、本人の依頼で通訳しています。公務の徽章は返しましたが、言葉を訳す資格まで失ったわけではありません」
侍従長は衛兵へ合図した。リディアは衛兵の前へ一歩進み、申し立て用紙を高く掲げた。広間の端にいた老書記官が気づき、慌てて駆け寄ってくる。
「待ちなさい。その書類は正式なものです。貸主本人からの申し立てを、門前払いにはできません」
王子が階段を降りた。
「何の騒ぎだ。セラフィナ嬢、こちらは?」
妹はリディアの声で答えた。
「姉ですわ。体調が悪くて、少し混乱しているんです」
リディアは妹を見た。七日間、自分の声で何度も嘘をつかれた。教室のことを考えて黙っていたが、もう黙る理由はない。
『混乱しているのは、あなたのほうよ』
エドガーが訳すと、妹は顔を歪めた。
「お姉様、こんなところで恥をかかせないで!」
『恥をかくのは、嘘をついた人です』
リディアは王子へ向き直った。エドガーが通訳する位置へ移るのを待ち、両手を胸の前に上げた。
『殿下。今夜あなたが聞いた歌声は、私のものです。七日前、妹が熱で歌えなくなった時、七日間だけ声を貸しました。期限は今夜の十二時までです。私は更新に同意していません』
王子はセラフィナを見た。
「声を借りている? 君は、私に何も言わなかったな」
「それは……家族の間の、ほんの小さなことですわ」
妹はリディアの声で笑おうとした。リディアはその笑い方まで自分に似ていることが耐えられなかった。
『小さなことではありません。私の母が作った歌を、あなたは勝手に書き換えた。あなたたちは、私が大切にしている教室を売ると脅して、声を返さないと言った』
エドガーは一語ずつ、はっきり訳した。継母が割り込もうとしたが、王子は手で制した。
「続けてください」
リディアは王子を見た。相手が自分の言葉を待っている。今夜初めて、王宮の中心で自分の順番が来た。
『更新の申請には、私のものではない指印が押されました。登録室の帳簿に写しがあります。私の右の親指には火傷の跡があり、写しにはありません。原本は、継母が持ち出しました』
「嘘よ!」
継母が叫んだ。
「この子は昔から思い込みが激しいの。声が出せないから、通訳官に好きなことを言わせているだけです!」
リディアはその場でエドガーへ背を向けた。客席の一角に、手話で会話している老婦人がいる。王宮で聴覚障害のある人のために設けられた席だ。リディアはその人へ直接、同じ内容を指で伝えた。
老婦人は立ち上がり、リディアへ返した。
『あなたの言葉は分かります。通訳は正確です』
隣の宮廷通訳官がその言葉を声にした。広間の空気が変わった。継母は初めて、誰もリディアの手を無視しないことに気づいたようだった。
老書記官が帳簿を持ってきた。王子の前で、偽の指印とリディアの親指を照合する。王子は拡大鏡を受け取り、傷跡の部分を見比べた。
「違うな。誰が申請した?」
「奥様です」
老書記官が答えた。
「立会人は侍従長。しかも、確認前の原本が持ち出されています」
侍従長は口を開いたが、王子が先に言った。
「私の名を使って、登録室へ入れたのか」
「殿下のお幸せのために、良かれと思って……」
継母が言いかけた時、リディアは手を上げた。
『その原本を、今ここで出してください』
「持っていないわ」
『先ほど資料室の隣で、原本は自分が持っていると言いました。私は聞きました。エドガーも聞いています』
継母は笑い飛ばそうとした。しかし王子が衛兵へ指示し、持参した書類を確認させると、継母の扇の袋から折り畳まれた申請書が出てきた。
「それは、預かっただけよ!」
継母は衛兵から奪い返そうとした。リディアは逃げずに立ち、妹の首元を指した。
『私の声を返してください。今、ここで』
セラフィナは首飾りを押さえた。
「嫌よ! この声がなかったら、殿下はわたくしを見てくれない! わたくしはずっと、お姉様の後ろにいたのよ。今度くらい、わたくしが選ばれたっていいでしょう!」
リディアは妹を見た。幼い頃から妹が自分と比べられるのを嫌がっていたことは知っている。それでも、奪っていい理由にはならない。
『私の声がなくても、あなたはあなたです。でも、私の声で選ばれたかったのなら、それはあなたが選ばれたことにはならない』
妹は首を振った。
「お姉様には分からないわ!」
『分かろうとしたことはある。でも、あなたは私の話を聞かなかった』
リディアは老書記官へ向き直り、指で申し立てた。
『貸与を取り消します。私は自分の声を、自分のために使います』
書記官は王子の前で更新申請を無効とし、貸与の終了を登録した。二人の独立した通訳官がリディアの意思を確認し、証人欄に署名する。老書記官が琥珀の首飾りを妹から外し、リディアへ差し出した。
リディアは自分の手で首飾りを受け取り、胸に当てた。七日前に声を貸した時と同じように、琥珀が一度だけ温かくなる。
「……返して」
かすれた声が出た。リディアは驚いて口を押さえた。次に息を吸うと、今度ははっきりと言えた。
「私の声を、もう勝手に使わないで」
妹が何か言おうとした。だが、彼女の喉から出たのは、以前からの少し低い声だった。自分の声で話す妹を見て、リディアは初めて安心した。
王子はセラフィナへ向き直った。
「私は、あなたが自分の歌を歌っていると思っていた。私に結婚を申し込む前に、なぜ事実を話さなかった?」
「だって、殿下はあの声がお好きだったでしょう!」
「私が求めていたのは、嘘のない関係だ。あなたとの婚約は結ばない」
セラフィナは花束を落とした。花が絨毯に散り、客席からは誰も拾いに行かなかった。
王子は宮廷音楽院の責任者を呼び、妹を王宮特別歌手へ推す話を正式に取り消した。継母についても、音楽院の後援者登録資格を永久に認めない決定を、その場で責任者が記録した。継母が最も欲しがっていた宮廷での立場は、得られるどころか、二度と申し込めなくなった。
さらに侍従長は、貸与記録への不正な関与を理由に今夜限りで職を解かれた。衛兵が三人を広間の外へ連れていく。継母は最後まで、王子の名を呼んで抗議していた。
リディアは落ちた花束を避け、エドガーのところへ歩いた。彼は彼女を見つめ、指で尋ねた。
『本当に、戻ったんですね』
リディアは頷いた。声で答えることもできたが、今はこの人と同じ言葉を使いたかった。
『戻りました。あなたが、私の言葉を聞いてくれたから』
エドガーは首を振った。
『あなたが自分で取り戻したんです』
その言葉を聞いた時、リディアは泣いた。エドガーは彼女の涙を隠そうとせず、隣に立っていた。
王宮の大時計が、十二時を打ち始める。
リディアはエドガーへ向き直った。今度は自分から、伝えたいことがある。




