閉じた扉の向こう
老書記官は引き出しをもう一度調べ、切れた封蝋を皿に載せた。リディアはそれを見ながら、誰が原本を持ち出せたのか考えた。登録室の鍵を持つ者は限られる。継母が勝手に入れる場所ではない。
「王宮の使用人か、関係者の許可を得た者でしょうな」
書記官は扉の内側に掛かった入室記録を示した。紙には、昼過ぎにマルグリットの名が記されている。立会人の欄には王子付きの侍従長の署名があった。
「奥様は王子殿下のお招きで来られました。申請の相談をするとおっしゃって」
リディアは筆を借りた。
『私の指印ではありません。右の親指には、昔の火傷の跡があります』
彼女は親指を差し出した。母と焼き菓子を作っていた頃、熱い鉄板に触れて残った小さな傷だ。指紋の線がそこで途切れている。帳簿に写された朱色の印は、滑らかな線で埋まっていた。
書記官は拡大鏡を取り出し、指と帳簿を交互に見た。
「これは……確かに違う。原本がなくても、写しの印と照合できます。更新は受理できません。こちらの用紙に、更新拒否の申し立てを書いてください」
リディアは用紙に署名し、右の親指で指印を押した。声を取り戻す道は、まだ閉ざされていない。
だが、書記官が差止めの印を押そうとした時、扉が勢いよく開いた。リディアはとっさに用紙を胸元へ隠した。戸口には、マルグリットと王子付きの侍従長が立っていた。
「何を勝手に調べているの!」
継母はリディアの前に進み、書記官の手から帳簿を奪おうとした。エドガーが間に入る。
「貸主本人が更新を拒否しています。申請の指印も一致しません」
「指印なんて、押し方で変わるわ。そもそもこの子は、声を出せないのよ。意思確認などできないでしょう」
エドガーは動じなかった。
「先ほどから、本人が手話で意思を示しています」
「その手の動きを、あなたが好き勝手に訳しているだけかもしれないじゃない」
継母は侍従長を振り向いた。
「この男、うちの娘を唆しているんです。通訳官の資格を取り上げてください」
侍従長はエドガーの徽章を見た。
「ロウ、立場をわきまえろ。今夜は殿下にとって大切な音楽会だ。問題を起こすな」
「問題を起こしているのは、本人の同意のない更新申請です」
「口答えするな。お前は今夜の任務を解く。徽章を返せ」
リディアは思わず前へ出た。エドガーは彼女に手を伸ばしかけたが、触れる前に止めた。自分で話せるよう、道を空けてくれたのだ。
『この人は、私の言葉を正しく伝えただけです』
侍従長は指の動きを見ようともしない。
「分からん。ロウ、訳せ」
エドガーは一語も変えずに通訳した。侍従長は舌打ちした。
「ならばなおさらだ。客の家の内輪揉めに通訳官を使うな」
彼はエドガーの胸から徽章を外した。銀糸が衣服を擦る音が、妙に大きく聞こえた。リディアは悔しさで唇を噛んだ。自分のために立ってくれた人が、職を失おうとしている。
エドガーは逆らわなかった。
「任務を解かれたことは承知しました。ですが、証人として見た事実は消えません」
侍従長は彼を部屋から追い出した。リディアも続こうとしたが、継母に腕をつかまれた。
「あなたは残りなさい」
エドガーは廊下へ出る前に振り向いた。指だけを動かす。
『怖がらないで。僕はあなたを信じています』
扉が閉まった。リディアはすぐに継母へ向き直った。
『私も外へ出ます』
「どこへ? あなたは今夜、声を貸すためにここへ来たのよ」
継母は侍従長へ目配せした。彼は老書記官に何か囁き、リディアを奥の資料室へ押し込んだ。扉が閉まり、外から鍵が掛かる。
リディアは扉を叩いた。返事はない。声が出せないため、助けを呼ぶこともできない。狭い部屋には古い譜面台と書類棚が並び、窓は高い位置に一つだけあった。
恐怖が込み上げた。教室を売ると脅され、声を奪われ、今度は閉じ込められた。ここで夜が明ければ、継母はどんな書類を用意するだろう。妹はリディアの声を使い続けるだろうか。
リディアは壁にもたれたが、すぐに立ち直った。母なら、こんな時どうするだろう。声が届かない相手へ、どうやって助けを求めるか。母は子どもたちに、手の動きは見てもらうための言葉だと教えていた。
高い窓の向こうに、回廊の灯が見える。窓の下には古い木箱が積まれていた。リディアは箱を一つずつ動かし、譜面台を横にして足場を作った。背伸びをすると、窓の下枠に指が届く。錆びた留め具を外し、わずかに開けた。
回廊を、楽器を抱えた少年が通りかかった。王宮の楽団員だ。リディアは両手を窓から出し、大きく動かした。
『助けて。閉じ込められています』
少年は通り過ぎかけたが、足を止めた。リディアはもう一度、同じ動きを繰り返す。母の教室に通ったことがある子なら分かるかもしれない。だが少年は手話を知らないようだった。
リディアは両腕を使い、扉を指す仕草と、鍵を回す仕草を繰り返した。少年は楽器を置き、回廊の手すりに身を乗り出した。
「閉じ込められてるのか!」
リディアは何度も頷いた。少年は走り去った。しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「リディア!」
エドガーの声だった。鍵を探す音がして、扉が開いた。彼は外套を脱いだまま、息を切らしている。
「楽団の少年が、窓で助けを求める人がいると知らせてくれました。上司の記録責任者に頼んで、予備鍵を借りてきたんです」
リディアは箱から降りた。足が震えたが、エドガーの前まで歩いた。彼はすぐには抱きしめず、両手を開いて待っている。
『抱きしめてほしい』
リディアが指で伝えると、彼は迷わず腕を回した。冷えた夜気の匂いと、急いで走ってきた人の体温が伝わる。リディアは彼の胸元に額を寄せ、声のない息を吐いた。
「怖かったですね」
彼はそれ以上、分かったふりをしなかった。ただ、彼女が落ち着くまで腕を緩めなかった。
リディアは少し離れ、彼の顔を見た。
『あなたまで仕事を失うかもしれない』
「失うかもしれません。でも、あなたを見捨てる理由にはなりません」
『私のために、そこまでしなくても』
「僕がしたいんです。あなたのそばにいたい。あなたが望まないことを押しつける人間には、なりたくない」
リディアは泣きそうになった。今夜初めて、自分のために誰かが怒り、誰かが走ってくれた。それだけではない。彼はその理由を、自分の意思として話している。
『私も、あなたのそばにいたいです』
エドガーは笑った。リディアはその笑顔を見て、今度は逃げずに彼の手を取った。
その時、資料室の隣から話し声が聞こえた。継母とセラフィナだった。壁の向こうの部屋に入ってきたらしい。
「お母様、本当に一年間も声を借りられるの?」
「原本は私が持っているわ。あの娘が何を言おうと、明日の朝には更新が通るよう手配してある」
「でも、殿下が気づいたら……」
「気づかせなければいいのよ。あの子は声を出せない。舞台へ出すなと侍従長に言ってあるわ」
リディアはエドガーの手を握り直した。彼も壁の向こうへ耳を澄ませている。
「今夜、殿下から婚約の申し出があれば、もう誰も逆らえないわ。あなたは王宮特別歌手に推していただいて、私は王子妃の母として宮廷音楽院の後援者になる。あの古い教室なんて、明日には売り払ってしまいましょう」
継母は笑った。リディアはその言葉を聞きながら、心の中で決めた。
もう、廊下の陰から抗議するだけでは終わらせない。王子の前で、自分の言葉を示す。
リディアはエドガーへ指で告げた。
『私を、舞台へ連れていってください。あとは私が話します』
エドガーは頷いた。二人が資料室を出ると、音楽会の最後の鐘が鳴り始めていた。
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