売れないもの
男は鍵を掌に載せ、リディアの顔を値踏みした。毛皮の襟に雪が残っている。音楽会へ招かれた貴族というより、買い物のついでに立ち寄った商人に見えた。
「私はグレン商会の支配人です。奥様から、あの土地は空き家になると聞きました。春には馬車置き場を建てます」
空き家ではない。リディアは教室で待っている子どもたちの顔を思い浮かべた。冬の間も毎週、歌の練習を続けている。耳の聞こえない子も、声を出すのが苦手な子も、同じ机を囲む。
彼女は従僕の手から紙と筆を奪い、裏面に書いた。
『空き家ではありません。十二人の生徒が通っています。私は売却に同意していません』
商人は紙を読み、継母を振り向いた。
「奥様、話が違いますな」
「管理者は私よ。娘の同意など必要ありません。教室は私の判断で閉めます」
継母は商人の掌から鍵を取り、リディアの目の前で振った。
「ほら、返してほしいでしょう? だったら更新の印を押しなさい。妹が王子妃になれば、あの子たちだって喜ぶわ」
リディアは筆を持ったまま動けなかった。母の教室を失うことは怖い。だが、声を一年間奪われれば、教室に通う子どもたちへ自分の歌を届けられない。指の歌は続けられても、子どもたちが望む声の練習を一緒にすることができなくなる。
エドガーが商人に向き直った。
「グレン商会は、教室の備品も購入する予定ですか」
「いや、土地と建物だけだ。古い椅子や楽器は処分してもらう」
「でしたら、今ここで売買を決める前に、教室の運営者から話を聞いてください。奥様の管理権と、授業を続ける人間の意思は別です」
「何を言い出すの!」
継母が声を荒らげた。リディアはエドガーの袖を軽く引き、自分の言葉で伝えたいと示した。彼はすぐに一歩退き、通訳する位置へ移った。
『教室の建物を失うのは悲しいです。でも、授業は終わりません。母が残した楽器は私のものです。机も楽譜も、子どもたちと一緒に運びます』
エドガーが一語ずつ声にした。商人は腕を組んだ。
「それなら、空け渡しはいつになる?」
『春まで待ってください。次の場所を見つけます』
「買い手に頼み事をするのか。面白い娘だ」
商人は少し考え、組んでいた腕をほどいた。
「私は人が住んでいる建物を空き家と偽って買う趣味はありません。生徒の保護者にも確認します。今夜の契約は見送りだ」
「待ちなさい! 王子妃の母になる私に、そんな口をきくの?」
「王子妃のお母様になられたら、改めてご相談を。今はまだ違いますからな」
商人は礼をして去った。継母は赤くなり、リディアへ詰め寄った。
「よくも私の顔に泥を塗ったわね」
リディアは逃げずに立った。声がなくても、言葉はある。継母はもう一度更新の紙を突きつけたが、リディアは筆を返した。
『署名しません』
エドガーが通訳すると、継母は紙を握り潰した。
「後悔するわよ。あの教室に通う子どもたちにも、あなたのせいだと言ってやる」
継母は足早に階段を上がった。リディアはその背中を見送り、ようやく肩の力を抜いた。商人が契約を見送っただけで、売却の危険は消えていない。だが、教室を守る方法が一つしかないと思い込まされていたことには気づけた。
エドガーは通路の窓を開けた。冬の夜気が入り、音楽会の熱で火照った頬を冷やす。
『あなたは勇敢です』
リディアは首を振った。
『怖かった。今も怖いです』
『怖いのに、決めた。それを勇敢と言うんだと思います』
彼はそう言って、窓を閉めた。リディアは少し笑った。声が出ない笑いだったが、エドガーは見逃さなかった。
『その笑顔、昔も見たことがあります』
『いつですか』
『教室で、妹が初めて自分の名前を指で言えた日です。あなたは自分のことのように喜んでくれた』
リディアは記憶をたどった。小さな女の子が、何度も間違えながら指を動かし、ようやく名前を伝えられた。母が拍手し、少年だったエドガーが妹を抱き上げた。自分は嬉しくて、母の周りを走り回った。
『あの子は今、どうしていますか』
『王都の織物工房で働いています。僕よりずっと気が強い。今日も、兄さんは仕事ばかりで恋人も作らない、と説教されました』
エドガーは困った顔を作り、リディアを笑わせた。
『恋人はいないのですか』
指が動いたあとで、リディアは慌てた。なぜそんなことを尋ねたのだろう。だがエドガーはからかわず、まっすぐ答えた。
『いません。ずっと会いたかった人がいましたから』
リディアは息を止めた。エドガーは窓の外へ視線を逸らさず、彼女を見ている。
『子どもの頃の憧れだと思っていました。でも、今夜あなたに会って、違うと分かりました』
彼は一度だけ指を止めた。次の言葉を選んでいるようだった。
『あなたのことが好きです。声を貸しているからではありません。さっき、教室を守るために自分で決めたあなたを見て、もっと好きになりました』
リディアはすぐには返せなかった。七日間、誰かの都合で動かされてきた。自分が何をしたいか尋ねる人さえいなかったのに、この人は自分の決断を好きだと言う。
『私は、まだあなたのことをよく知りません』
『ええ。僕も、今のあなたのことをもっと知りたい』
『待ってくれますか』
『待ちます。ただ、待つ間もそばにいていいですか』
リディアは頷いた。彼の指が少し震えたのを見て、告白する側も緊張するのだと初めて知った。嬉しさが込み上げたが、今は立ち止まれない。
『登録室へ行きたいです』
『案内します』
エドガーは歩き始め、途中で彼女に歩幅を合わせた。早足で追いつく必要がない。その小さな気遣いが、さっきの告白より長くリディアの中に残った。
東翼の登録室は、王宮の役人が書類を出し入れする小さな部屋だった。扉の前に立つと、エドガーは徽章を示し、リディアの事情を説明した。担当の老書記官は二人を通し、厚い帳簿を開いた。
「ベルフォード家の音声貸与ですね。七日前の登録があります。貸主リディア、借主セラフィナ。期限は本日二十四時」
リディアは安堵した。少なくとも最初の契約は正しく残っている。
書記官が次の頁をめくった時、その指が止まった。
「おや。更新申請が、もう提出されています」
継母はまだ署名を求めていたはずだ。リディアは帳簿をのぞき込んだ。
更新申請の欄には、彼女の名前と、見覚えのない朱色の指印が押されていた。日付は今日。申請者の欄には、マルグリット・ベルフォードとある。
「本人の指印として受理待ちになっています。明日の朝、確認印が入れば一年間の更新です」
エドガーが書記官に尋ねた。
「貸主本人がここにいます。本人は更新を拒否しています。いま申請を差し止められますね」
「もちろんです。ただし、偽の指印を押した者の特定が必要になります。申請書の原本を照合しましょう」
書記官が引き出しを開けた。
「……原本がありません」
引き出しの底に、切れた封蝋が落ちていた。誰かが登録室から申請書を持ち出している。
リディアはその封蝋を見つめた。継母は、彼女が拒むことまで見越して動いていたのだ。




