指で話す人
セラフィナの叫び声が廊下に響いた途端、リディアは妹へ歩み寄った。
『更新しない』
指を動かすと、妹は露骨に顔をしかめた。
「お姉様、その手をやめて。わたくしには読めないのよ」
読もうとしたことがないだけだ。リディアは妹の前に立ち、首飾りへ手を伸ばした。セラフィナは身を引き、継母の背後へ逃げ込む。
「なんて乱暴なの。せっかく殿下がお見えになるのに、こんなところで揉め事を起こさないで」
マルグリットは扇を閉じ、リディアの肩を押した。
「更新するかどうかは、家で話しましょう。あなたの教室に通う子どもたちの顔を思い出してごらんなさい。あの子たちを冬の街へ放り出したいの?」
リディアは踏みとどまった。教室の窓は低く、背の小さな子も外の雪を見られる。母がその高さにした。そこを壊すと言われると、腹の底が冷える。それでも妹に声を貸し続ければ、子どもたちに何を教えるのだろう。自分のものを奪われても、強い相手に従えと教えるのか。
エドガーが一歩前に出た。
「失礼します。王宮では手話による意思表示も正式な発言として扱われます。今のご令嬢のご意思は、更新しない、です」
「通訳官風情が、家族の話に口を挟むの?」
「公務の話をしています。音声貸与の更新は、本人の自由な同意が必要です。強要は認められません」
マルグリットは彼を上から下まで見た。
「名を名乗りなさい」
「エドガー・ロウです」
「覚えておくわ。あなたの上司にも、この無礼を伝えておきます」
「どうぞ。上司は今夜の音楽会の記録責任者ですから、事情を説明する手間が省けます」
リディアは驚いてエドガーを見た。彼は得意げな顔をせず、彼女にだけ指で言った。
『怖いなら、僕の後ろにいてもいい。でも、話す時はあなたが前に出てください』
守られることと、代わりに決められることは違う。その区別を当然のように示す人がいる。リディアは頷き、彼の横へ並んだ。
控室の扉が開き、王宮の侍女長が顔を出した。
「セラフィナ様、出番です。殿下がお待ちです」
妹はすぐに笑顔を作り、継母とともに舞台へ向かった。リディアが続こうとすると、マルグリットは通路を塞いだ。
「あなたはここ。舞台袖から一歩も動かないこと」
リディアは頷かなかった。エドガーが王宮の徽章を示すと、侍女長は二人を通訳官席へ案内した。舞台の正面ではないが、客席と演奏者の両方が見える位置だ。
広間の中央に、第二王子アルヴィンが座っていた。青い礼服を着た若い王子は、セラフィナが姿を見せると椅子から立ち上がった。客席にさざめきが広がる。
「セラフィナ嬢。今夜の歌を楽しみにしていた」
リディアの声で妹が答えた。
「殿下のために、心を込めて歌います」
それは、王子の前で自分の声がつく嘘だった。
弦楽器が鳴り始める。セラフィナは母の子守歌を歌った。リディアが幼い頃、雨の日に眠れず泣いていると、母は窓辺へ椅子を寄せて歌ってくれた。歌詞の三番には、外へ出られない子どもにも朝は来る、という意味が込められている。
セラフィナは三番を省いた。
代わりに王子の名を織り込んだ華やかな恋の言葉が続く。客席から感嘆の声が上がった。リディアは椅子の縁をつかんだ。声だけでなく、歌の意味まで書き換えられている。
隣でエドガーが、手元の小さな帳面を開いた。そこには母の子守歌の歌詞が書かれていた。三番まで、正確に。
『その歌を知っているのですか』
リディアが尋ねると、彼は頷いた。
『母が、あなたのお母様の教室で働いていました。僕の妹は耳が聞こえません。幼い頃、三人で教室へ通ったんです』
リディアは彼を見つめた。思い出の中に、いつも窓辺で妹に絵本を読んでいた背の高い少年がいる。少年は妹の手を取り、指の形を教えていた。
『あの時の、エドガー?』
『覚えていてくれたんですね』
彼は照れたように笑い、帳面の端を指した。そこには子どもの字で、昔の歌詞が書き写されていた。
『母は亡くなりました。でも、この歌を妹と歌うたび、教室へ戻った気がします』
リディアは懐かしさに胸を詰まらせた。自分が守りたいと思っていた教室は、通っていた子どもたちの中にも残っていた。
『私は教室を失いたくない』
『知っています。今も続けていると聞きました』
『継母が土地を売ると言っています。だから声を貸しました』
エドガーは少し考え、それから慎重に指を動かした。
『教室を守るために、あなたが自分を差し出す必要はありません。別の道を一緒に探させてください』
その言い方が嬉しかった。助けてやる、ではなく、一緒に探す。彼はリディアが何を望むかを先に聞いてくれる。
舞台で歌が終わり、拍手が起きた。アルヴィン王子はセラフィナの前へ進み、花束を差し出した。
「素晴らしい。君の歌には、何度聞いても心を動かされる」
セラフィナは得意げに頬を染めた。
「殿下にそう言っていただけるなら、わたくしは何度でも歌います」
「ならば、今夜の終わりに君へ大切な話がある」
客席から歓声が上がった。妹は花束を抱え、王子へ身を寄せた。継母は舞台袖で涙を拭く真似をしている。
リディアは立ち上がった。大切な話が婚約の申し出なら、その前に王子へ事実を知らせなければならない。けれど、舞台へ続く通路には継母の雇った従僕が二人立っていた。
「お嬢様、こちらへ」
一人がリディアの肘をつかむ。エドガーが近づこうとしたが、もう一人が彼の前に立ちはだかった。
「ロウ殿。奥様から、こちらの方は体調が悪いと伺っています」
リディアは腕を振りほどき、通路の向こうへ指を向けた。
『私は元気です。殿下に話があります』
従僕は指の動きを見て笑った。
「何をしているのか、さっぱりですな」
エドガーが一語ずつ通訳すると、従僕の笑みが消えた。それでも道を開けない。
リディアは通路の端にある掲示板へ向かった。音楽会の出演者名が並んでいる。セラフィナの名前の下には、歌の題名と作曲者として母の名が記されていた。リディアは自分の名を指し示そうとしたが、そこには何もなかった。
エドガーが掲示板を見て、眉をひそめた。
「出演登録には声の所有者も記載する決まりです。ここにないのはおかしい」
従僕の一人が口を滑らせた。
「奥様が、上のお嬢様の名前は書くなと」
もう一人が慌てて肘で小突いたが、遅かった。エドガーはその言葉を帳面へ記した。
「今の発言、記録します」
リディアは指で尋ねた。
『王子に知らせられますか』
『知らせられます。ただ、王宮の公的な場で声の貸与を証明するには、貸与記録が必要です。登録室に原本があります』
登録室は東翼の奥にあるという。音楽会が終わるまで、あと一時間半。リディアは歩き出した。
ところが、階段の下で待っていた継母が、細長い紙を突きつけた。
「どこへ行くつもり? ほら、これに印を押しなさい。今夜の更新手続きよ」
紙の上には、リディアの声を一年間、無償でセラフィナへ貸与する、と書かれていた。
リディアは紙を受け取らなかった。継母はさらに声を低くした。
「拒むなら、教室の売却契約に今すぐ署名するわ。買い手はもう来ているのよ」
階段の向こうに、母の教室の鍵を持った男が立っていた。




