↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の声で王子に求婚した妹へ、返事は私の手で伝えます  作者: あずきまんま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

指で話す人

セラフィナの叫び声が廊下に響いた途端、リディアは妹へ歩み寄った。


『更新しない』


指を動かすと、妹は露骨に顔をしかめた。


「お姉様、その手をやめて。わたくしには読めないのよ」


読もうとしたことがないだけだ。リディアは妹の前に立ち、首飾りへ手を伸ばした。セラフィナは身を引き、継母の背後へ逃げ込む。


「なんて乱暴なの。せっかく殿下がお見えになるのに、こんなところで揉め事を起こさないで」


マルグリットは扇を閉じ、リディアの肩を押した。


「更新するかどうかは、家で話しましょう。あなたの教室に通う子どもたちの顔を思い出してごらんなさい。あの子たちを冬の街へ放り出したいの?」


リディアは踏みとどまった。教室の窓は低く、背の小さな子も外の雪を見られる。母がその高さにした。そこを壊すと言われると、腹の底が冷える。それでも妹に声を貸し続ければ、子どもたちに何を教えるのだろう。自分のものを奪われても、強い相手に従えと教えるのか。


エドガーが一歩前に出た。


「失礼します。王宮では手話による意思表示も正式な発言として扱われます。今のご令嬢のご意思は、更新しない、です」


「通訳官風情が、家族の話に口を挟むの?」


「公務の話をしています。音声貸与の更新は、本人の自由な同意が必要です。強要は認められません」


マルグリットは彼を上から下まで見た。


「名を名乗りなさい」


「エドガー・ロウです」


「覚えておくわ。あなたの上司にも、この無礼を伝えておきます」


「どうぞ。上司は今夜の音楽会の記録責任者ですから、事情を説明する手間が省けます」


リディアは驚いてエドガーを見た。彼は得意げな顔をせず、彼女にだけ指で言った。


『怖いなら、僕の後ろにいてもいい。でも、話す時はあなたが前に出てください』


守られることと、代わりに決められることは違う。その区別を当然のように示す人がいる。リディアは頷き、彼の横へ並んだ。


控室の扉が開き、王宮の侍女長が顔を出した。


「セラフィナ様、出番です。殿下がお待ちです」


妹はすぐに笑顔を作り、継母とともに舞台へ向かった。リディアが続こうとすると、マルグリットは通路を塞いだ。


「あなたはここ。舞台袖から一歩も動かないこと」


リディアは頷かなかった。エドガーが王宮の徽章を示すと、侍女長は二人を通訳官席へ案内した。舞台の正面ではないが、客席と演奏者の両方が見える位置だ。


広間の中央に、第二王子アルヴィンが座っていた。青い礼服を着た若い王子は、セラフィナが姿を見せると椅子から立ち上がった。客席にさざめきが広がる。


「セラフィナ嬢。今夜の歌を楽しみにしていた」


リディアの声で妹が答えた。


「殿下のために、心を込めて歌います」


それは、王子の前で自分の声がつく嘘だった。


弦楽器が鳴り始める。セラフィナは母の子守歌を歌った。リディアが幼い頃、雨の日に眠れず泣いていると、母は窓辺へ椅子を寄せて歌ってくれた。歌詞の三番には、外へ出られない子どもにも朝は来る、という意味が込められている。


セラフィナは三番を省いた。


代わりに王子の名を織り込んだ華やかな恋の言葉が続く。客席から感嘆の声が上がった。リディアは椅子の縁をつかんだ。声だけでなく、歌の意味まで書き換えられている。


隣でエドガーが、手元の小さな帳面を開いた。そこには母の子守歌の歌詞が書かれていた。三番まで、正確に。


『その歌を知っているのですか』


リディアが尋ねると、彼は頷いた。


『母が、あなたのお母様の教室で働いていました。僕の妹は耳が聞こえません。幼い頃、三人で教室へ通ったんです』


リディアは彼を見つめた。思い出の中に、いつも窓辺で妹に絵本を読んでいた背の高い少年がいる。少年は妹の手を取り、指の形を教えていた。


『あの時の、エドガー?』


『覚えていてくれたんですね』


彼は照れたように笑い、帳面の端を指した。そこには子どもの字で、昔の歌詞が書き写されていた。


『母は亡くなりました。でも、この歌を妹と歌うたび、教室へ戻った気がします』


リディアは懐かしさに胸を詰まらせた。自分が守りたいと思っていた教室は、通っていた子どもたちの中にも残っていた。


『私は教室を失いたくない』


『知っています。今も続けていると聞きました』


『継母が土地を売ると言っています。だから声を貸しました』


エドガーは少し考え、それから慎重に指を動かした。


『教室を守るために、あなたが自分を差し出す必要はありません。別の道を一緒に探させてください』


その言い方が嬉しかった。助けてやる、ではなく、一緒に探す。彼はリディアが何を望むかを先に聞いてくれる。


舞台で歌が終わり、拍手が起きた。アルヴィン王子はセラフィナの前へ進み、花束を差し出した。


「素晴らしい。君の歌には、何度聞いても心を動かされる」


セラフィナは得意げに頬を染めた。


「殿下にそう言っていただけるなら、わたくしは何度でも歌います」


「ならば、今夜の終わりに君へ大切な話がある」


客席から歓声が上がった。妹は花束を抱え、王子へ身を寄せた。継母は舞台袖で涙を拭く真似をしている。


リディアは立ち上がった。大切な話が婚約の申し出なら、その前に王子へ事実を知らせなければならない。けれど、舞台へ続く通路には継母の雇った従僕が二人立っていた。


「お嬢様、こちらへ」


一人がリディアの肘をつかむ。エドガーが近づこうとしたが、もう一人が彼の前に立ちはだかった。


「ロウ殿。奥様から、こちらの方は体調が悪いと伺っています」


リディアは腕を振りほどき、通路の向こうへ指を向けた。


『私は元気です。殿下に話があります』


従僕は指の動きを見て笑った。


「何をしているのか、さっぱりですな」


エドガーが一語ずつ通訳すると、従僕の笑みが消えた。それでも道を開けない。


リディアは通路の端にある掲示板へ向かった。音楽会の出演者名が並んでいる。セラフィナの名前の下には、歌の題名と作曲者として母の名が記されていた。リディアは自分の名を指し示そうとしたが、そこには何もなかった。


エドガーが掲示板を見て、眉をひそめた。


「出演登録には声の所有者も記載する決まりです。ここにないのはおかしい」


従僕の一人が口を滑らせた。


「奥様が、上のお嬢様の名前は書くなと」


もう一人が慌てて肘で小突いたが、遅かった。エドガーはその言葉を帳面へ記した。


「今の発言、記録します」


リディアは指で尋ねた。


『王子に知らせられますか』


『知らせられます。ただ、王宮の公的な場で声の貸与を証明するには、貸与記録が必要です。登録室に原本があります』


登録室は東翼の奥にあるという。音楽会が終わるまで、あと一時間半。リディアは歩き出した。


ところが、階段の下で待っていた継母が、細長い紙を突きつけた。


「どこへ行くつもり? ほら、これに印を押しなさい。今夜の更新手続きよ」


紙の上には、リディアの声を一年間、無償でセラフィナへ貸与する、と書かれていた。


リディアは紙を受け取らなかった。継母はさらに声を低くした。


「拒むなら、教室の売却契約に今すぐ署名するわ。買い手はもう来ているのよ」


階段の向こうに、母の教室の鍵を持った男が立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。