声を貸した日の終わり
リディア・ベルフォードの声は、今夜、妹の婚約を決めるために使われる。
王宮の冬の音楽会まで残り三時間。継母のマルグリットは、鏡台の前に座るリディアの髪から飾りを抜き取り、妹セラフィナの金髪に挿し直した。
「その顔をしないでちょうだい。あなたが歌っても、殿下は振り向かないわ。あの方が愛したのはセラフィナの姿と、あなたの声。二つを合わせて、ようやく価値があるのよ」
リディアは反論しようとした。けれど、喉から出たのは息だけだった。七日前、熱で声を失った妹に一度だけ歌わせてほしいと頼まれ、継母には教室の土地を盾にされて、琥珀の首飾りに触れて声を貸した。貸与の期限は今夜の鐘が十二回鳴る時まで。それまでは、妹がリディアの声で歌い、リディアは一音も発せられない。
妹の喉はとっくに治っている。それでも首飾りを返してもらえないのは、王宮の音楽会でアルヴィン第二王子が妹に求婚するという噂が立ったからだ。継母はその噂を確かなものにするため、リディアを家に閉じ込めていた。
「お願い、今日だけは大人しくしていて。わたくしが王子妃になったら、お姉様の教室にも寄付してあげるから」
セラフィナは妹らしい甘えた笑顔を作った。リディアは鏡越しに妹を見つめ、指でゆっくりと答えた。
『それは、私の声で手に入れるものよ』
母が教えてくれた指の言葉だった。音の聞こえない子どもたちにも歌の意味を届けようと、母は小さな教室で手話を教えていた。リディアは今もその教室を守っている。壁の漆喰は剥がれ、冬の薪代にも困るが、通ってくる十二人の子どもが歌う日だけは、古い建物が明るくなる。
妹は手の動きを読み取ろうともしなかった。
「ほら、またその気味の悪い仕草。殿下の前では絶対にしないでね」
マルグリットがリディアの手首をつかんだ。
「教室の土地は、まだ私が管理しているのを忘れないことね。あなたが邪魔をしたら、春を待たずに売るわ。あんな建物、潰せば馬車置き場になる」
リディアはつかまれた手を引き抜いた。教室は亡き母の遺産だが、二十三歳になるまで管理権は父の妻にある。誕生日まであと二か月。そのわずかな時間が、継母には脅しの材料だった。
扉の外から父が咳払いをした。リディアが振り向くと、父は困ったように眉を寄せただけで、娘の目を避けた。
「家族のためだ。音楽会が終われば声は戻る。今は騒ぐな」
父が自分を守らないことは知っていた。それでも、七日間の最後くらいは味方になってくれるのではないかと期待していた自分が腹立たしかった。
リディアは机から紙を取り、太い字で書いた。
『今夜、声を返してください。更新には同意しません』
継母は紙を一読し、暖炉へ投げた。端が丸まり、黒く縮んでいく。
「更新するかどうかは、音楽会の結果を見て決めるわ」
決めるのは私だ、とリディアは指を動かした。継母は背を向けていた。
馬車が到着すると、リディアには地味な灰色の外套が渡された。妹の侍女として同行し、舞台裏で必要があれば首飾りの魔法を調整する役目だという。家に閉じ込めておけばいいのに、とリディアは思ったが、首飾りは声の持ち主から離れすぎると音色が濁る。王宮に連れていくしかないのだ。
王宮の裏口には、招待客ではない者のための細い階段があった。リディアが先に降りると、セラフィナはその肩へ毛皮の外套を押しつけた。
「持っていて。しわにしたら許さないから」
重い外套を抱えたリディアは階段の途中で足を止めた。下から上がってきた青年が、両腕に書類箱を抱えていたためだ。黒い礼服は簡素だが、襟元に王宮の通訳官を示す銀糸の徽章がある。
青年は箱を片腕へ寄せ、リディアの抱えた毛皮を見た。
「お手伝いしましょうか」
リディアは首を振った。声が出ないことを説明するには、紙を探さなければならない。だが青年は、彼女が小さく動かした指に気づいた。
『大丈夫です。ありがとう』
青年は目を丸くし、すぐに同じ言葉を指で返した。
『無理をしないで』
リディアは思わず立ち止まった。王宮の廊下で、この言葉を自然に返してもらえるとは思わなかった。
「失礼。僕はエドガー・ロウ。宮廷の通訳官です。声を使わないほうが話しやすいなら、こちらで」
彼は書類箱を階段の踊り場に置き、両手を空けた。背後でセラフィナが不機嫌そうに靴音を鳴らしたが、エドガーは急かさなかった。
『私はリディア。今は声を貸しています』
エドガーの表情が変わった。驚きより先に、彼は彼女の首元を見た。琥珀の首飾りはそこにはない。妹の胸元で揺れている。
『期限は?』
『今夜の十二時です』
『返してもらうつもりですか』
リディアは頷いた。
『返してもらいます』
その答えを見て、エドガーは初めて笑った。礼儀のための笑みではなく、決意を聞いて安心したような笑顔だった。
『では、必要な時は僕を呼んでください。あなたの言葉を、誰にも消させません』
セラフィナが階段を降りきり、二人の間へ割り込んだ。
「お姉様、誰と話しているの? 勝手に人を捕まえないで」
「私からお声をかけました」
エドガーが静かに答えた。
「ご姉妹ですか。失礼ですが、お二人のお名前を」
「わたくしはセラフィナ・ベルフォード。今夜、殿下の前で歌う者です。この人は姉で、付き添いですわ」
妹はリディアの声で名乗った。七日間聞かされてきたはずなのに、他人の口から自分の声が出るたび、リディアは背中を冷たくされた。
エドガーはセラフィナに礼をし、それからリディアを見た。
「リディア様。舞台裏へは、この廊下をまっすぐです。何か困ったら、通訳官室は東翼の一階にあります」
妹は不満げに鼻を鳴らし、リディアの腕を引いた。
控室では、王宮の侍女が花束を並べていた。リディアが毛皮を椅子に置くと、セラフィナは鏡の前で歌い始めた。母がリディアのために作った冬の子守歌。幼い頃、母が熱を出したリディアを抱いて歌ってくれた旋律だった。
妹は歌詞を一つ間違えた。
リディアは思わず指で訂正したが、セラフィナは振り返りもしない。
「そこ、わたくしの歌い方なの。直さないで」
継母は満足そうに拍手した。
「素敵よ。今夜で決まるわ。殿下はあなたに夢中だもの」
リディアは自分の指を握りしめた。母の歌が、妹の栄光の飾りになっていく。教室を守るために貸した七日間だったが、教室を守るどころか、母の歌まで奪われていた。
廊下に出たリディアは、窓辺で深く息を吸った。冷たい外気が喉を通る。声は出ない。それでも、自分がここにいることまで消えたわけではない。
エドガーが書類箱を持って通りかかった。彼はリディアの顔を見ると立ち止まり、声ではなく指で尋ねた。
『大丈夫ですか』
リディアは少し迷い、正直に答えた。
『大丈夫ではありません。でも、逃げません』
彼は箱を床に置き、両手を動かした。
『それなら僕も逃げません。あなたが話したいことを、最後まで聞きます』
そんな当たり前のことを言われたのは、いつ以来だろう。リディアは礼を伝えようとしたが、遠くで開演の鐘が鳴り、廊下の人々が動き始めた。
舞台の向こうから、王子の名を呼ぶ声が聞こえる。今夜、妹はリディアの声で愛を告げるつもりなのだ。
そしてリディアは、その求婚を止めるつもりだった。
その時、控室から飛び出したセラフィナが、琥珀の首飾りを握って叫んだ。
「お母様! この首飾り、明日も使えるようにしておいて! 殿下との婚約発表まで、声が戻ったら困るもの!」
リディアは足を止めた。継母が音楽会の結果を見て決めると言っていた更新は、もう二人の間で決まっていた。
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