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第七話 勇者、死にたくなる

 

「庭?」

 部屋の中から眼下に広がる庭園を見つめていると、下りてみないかとフィーアが提案した。

「今日は天気もいいし、花たちも生き生きしていますから。今の時期、薔薇が見頃ですよ」

「薔薇……」

 薔薇は思い入れのある花だ。手入れが難しいこの花を、クラリスの母親は毎年咲かせていた。あまり交流のなかった母との唯一の話題は薔薇についてだった。

 今日の気分は落ちついている。体力もまだあまりある。

 ただ階下の庭園に下りるだけ。魔王から宮殿のどこに行ってもかまわないという許しは得ている。心配事は何もない。

「フィーアも、一緒?」

 下から見あげるようにうかがうと、フィーアは「んゔゔ」と奇声を発した。

「大丈夫か?」

「だだだ大丈夫です! 破壊力がすごかっただけで……ええ、一緒に行きましょう。一緒ですよ!」

 満面の笑みで「一緒」を強調するフィーアに、クラリスは心底安堵する。

 昼食は庭で食べましょうと、籠の中に食事を詰めて、クラリスは初めて部屋の外に出た。

 高い天井と、彫刻のされた柱がいくつも連なった廊下。比較的クラリスの部屋は装飾が少なかったが、宮殿のいたるところに細かい彫り物や絵画、花瓶などが飾られている。

「ここは、本当に宮殿だったんだな」

 呆けた声にフィーアは嬉しそうな笑みを向けてくる。

 他人の視線が気になるため、表にある大きな階段は使わず、裏口の使用人が使う階段へ向かう。螺旋状の階段を抜けると吹き抜けになっており、外の匂いが風によって運ばれてくる。その中には花の香りが強く、クラリスの心にわずかな高揚感をもたらす。

 出口をくぐると、庭園の端と繋がっていた。花壇には色とりどりの花たちが種類ごとに分けられている。色に統一性はないが、どの色も視界に映えた。花の蜜の匂いと、自然の木々の香り、すべてがクラリスに爽快感を与えた。

 久しぶりの外は情報が多すぎて、直接の太陽にくらりとするものの、それ以上に豊かな感情がクラリスの中に宿る。

 フィーアに白い帽子を被らせてもらい、太陽が遮断されると視界も落ちついてくる。クラリスはフィーアの手を取ると、「行こう!」と声をかけて前に進んだ。

「あれはなんだ? 魔国の花か?」

 次から次へと目に入る花々に、クラリスは語りかけるように近づいてはフィーアに質問する。森で暮らしていたフィーアは花々に詳しく、クラリスに聞かれるたびに詳しい説明をつけてくれる。

「これは今の時期にしか咲かない貴重な花なんですよ。ある特定の虫には毒なんですが、魔国の蜜蜂は耐性がついていて平気なんです」

 知らなかった事柄にクラリスは毎回深い賞賛の声を上げる。知らない花を見つけてはフィーアに嬉々として尋ねる。フィーアは鼻が高いようなくすぐったいような顔をして、「これは……」と話すのだった。

 弓状をした薔薇の通り道を抜け、何度も行ったり来たりを繰り返し、薔薇の甘い香りを堪能した。

 あっという間に太陽は高く昇って、クラリスとフィーアは揃って木陰で昼食を摂ることにした。青い空と甘い香り、風が木々の葉を揺らして、爽やかな新しい風を運んでくれる。

 数多の戦場をくぐってきたクラリスにとって、ここは平和そのものでしかなかった。

「のどかだ」

「のどかですねえ」

 フィーアと顔を見せ合って笑う。この幸せがずっと続けばいいのにと考えて、ふとクラリスは自分の胸にできたもやを無視した。

 もう一人の自分が囁く。そんなわけないだろう、と。

「――なんであんたがここにいるのよ⁉」

 その声が、平穏な空気を一瞬にして破壊する。

 女性はフィーアよりも真っ赤な髪を高く結び、釣り目をさらに上げてこちらを睨みつけている。人型をしているものの頭には獣の耳が生えて、ぴんっと高く上を向いている。正装のドレスを上品に身に着けていて、この華やかな空間を一層際立たせていた。

 彼女の周りには取り巻きが四人。その者たちも顔を寄せ合って囁き合い、クラリスを睨んでいる。

「あんた、なんでここにいるの⁉」

 つかつかとこちらに向かってくる女性を、クラリスは呆然と見つめることしかできなかった。フィーアは困惑した顔で、こっそりとクラリスに囁く。

「魔王様の従者のお一人で、名をルゥ様と言います。魔国の貴族出身の方です」

 女性――ルゥはクラリスの正面まで来ると、顎を上げて威圧してきた。

「あんたいったいいつまで魔国にいるつもりなの? 迷惑なのが分からないわけ⁉ 人間がこの国にいる必要はないのよ。うつ病だがなんだか知らないけど甘えないで! とっとと魔国から出ていきなさい! 邪魔なのよ‼」

 その強烈な台詞に、フィーアがクラリスを守るように立ちふさがった。

「ルゥ様。クラリス様は魔王様の許可があって――」

「使用人は黙ってなさい!」

「きゃ!」

 ルゥに強く体を押され、フィーアが後ろに転げそうになるのをクラリスは反射的に支えた。その姿をルゥは冷たい目で見さげ、吐き捨てるように言った。

「あんたなんか、いらない」

 クラリスは気持ちが急降下していくのが分かった。さあっと音が聞こえたのは風が吹いたからだろうか。それともクラリスの血の気が下がる音だったのだろうか。

 クラリスは支えていたフィーアの肩を強く掴んだ。ルゥに睨まれ、クラリスの体に異常が出る。冷や汗は止まらず、視界は涙で覆われ、唇を強く噛んでとどめる。

 その何とも弱々しい姿にルゥは呆れて溜息を吐き、鼻を鳴らす。さらに追い打ちをかけるように口を開こうとするルゥの前に、さっと黒い影が遮った。

「ヴェース⁉」

 クラリスとルゥの間を阻むんだ、魔王の使い魔である魔獣――ヴェースがルゥを威圧していた。

「ヴェース、退きなさい。わたくしはその人間に用があるの!」

 ルゥがどれほど睨みつけようと、ヴェースは一歩も引かなかった。まるでクラリスを守るように立ちふさがっている。その様子にルゥは苛立ちを隠しもせず舌打ちすると、最後にクラリスをもう一度睨んで取り巻きを連れて去っていった。

「クラリス様、大丈夫です。もう行かれましたよ」

 フィーアが優しい声でクラリスの背中を撫でてくれる。

「フ、フィーア……」

 震えが収まらず、体に力が入らない。クラリスは混乱する頭で、溜めこんでいた涙を一気に解放した。

「大丈夫ですよ、もう大丈夫です」

 何度も何度も背中を撫でられても、クラリスの心の焦燥は消えない。クラリスは視界がどんどん暗くなるのを感じ、そのまま意識を手放した。



 夕方に目を覚ましたクラリスは、フィーアが用意してくれた食事にほとんど手をつけることができなかった。

 フィーアの視線にさえ気遣う余裕がない。

 その日、睡眠薬を飲んでもクラリスは眠ることができなかった。思考の渦に囚われてしまっていた。不安を顕にするフィーアには眠るようにと言って部屋から追いだした。それから軽く数時間は経過している。

 考えることは昼間のルゥのこと。なぜあれほど高圧的に怒鳴られねばならなかったのか。

 それ以上にクラリスは衝撃を受けていた。

 ――私は、これほどにも弱くなってしまったのか?

 前ならば一方的に怒鳴られたくらいで委縮することはなかった。

 今はどうであろう。体の操作は不可能で、反論することもできず、クラリスは言葉の暴力という攻撃を真正面から受けてしまった。

 ――なぜ、反撃しなかった? 勇ましい自分はどこにいったのか?

 クラリスは自分にひどく落胆した。こんなのは自分ではないと強く自己否定する。

 ――巻き戻したい、やり直したい。弱くなる前の自分に、うつ病になる前に!

 叫べば隣室のフィーアが起きてしまう。もう自分のことで心配させたくはなかった。心配させたくはないのに、叫んで、喉が枯れるまで叫び続けて、おかしくなってしまいたい衝動に駆られる。

 クラリスは体を起きあがらせ、涙の雨を膝に降らせた。

 ――どうしてこんなことになったのだろう。

 ドクが言うには、クラリスの場合は極度の疲れと悪質な環境、そして抑圧された感情の積み重ねが原因だろうと教えられた。

 大人になった今なら分かる。幼い頃、生活には全く困らなかった上に、教育を望むままに受けることができた。しかし、親しか頼りがなかった自分に、両親は「愛」というものをくれたことなどなかった。

 今思うと、その悲しみはクラリスの抑圧のほとんどを担っている。責める相手はもういない。このどうしようもない虚しさを、クラリスは見ないようにして過ごしてきた。

 厳重に箱に入れてふたをして、心の奥底に置いてきた。勇者となり忙しい毎日によって、ふたには少しずつひびが入っていった。最終的にふたは割れ、感情の渦が飛びだしたのだろう。

 ――今に始まったことではない。私は最初から弱かったのだ。

 絶望が全体に圧しかかる。重いそれを吹き飛ばす気力がクラリスにはもうない。涙も枯れて、目が開いているのかさえ分からない。分からないだらけの頭で、一つだけ思考が浮かんできた。

 ――もういっそのこと、

「死んでしまえば……」

 守ってきた者には裏切られ、祖国からは捨てられ、魔国では迷惑をかけている。そんな役立たずな自分は、ルゥの言う通り「もういらない」。

 クラリスは寝台から出ると、フィーアが戸棚にしまった果物のための小刀の元へ、一直線に駆ける。

 小刀を取りだすと、そのままためらうことなく喉に突きたてようとした。

 ――ああ、これで楽になれる……。

 どんっと全身に衝撃が走った。

 からんからん、とクラリスの手から抜けた小刀が床に落ちて、窓際まで回転しながら滑っていく。

「クラリス様!」

 腹が妙に温かい。呆然として眼下を見ると、そこには寝間着姿のフィーアが大粒の涙を流しながら抱きついていた。

「フィーア……?」

「クラリス様、死んではいけません! 死んでは駄目です!」

 フィーアは泣きながら強い口調で訴える。しゃっくりを上げながら、それでもはっきりと言葉を続けた。

「お願いだから、死なないで。苦しくても、悲しくても、寂しくても、つらくても、私をおいていかないでください!」

 腹に抱きつく力を強めてフィーアは訴える。

 クラリスは体の力が一気に抜けた。立っていることができなくなり、よろよろとフィーアとともに座りこむ。

 ――フィーアに止められなかったら、私は――。

 クラリスは完全に自分を見失っていた。自分が今しようとした行動を、頭は混乱していて理解できていない。

 泣き顔を晒してフィーアは顔を上げる。そして怒ったように、それでも目は寂しいと言っていた。

「約束してください。自分で死ぬようなことは決してしないと、フィーアと、魔王様に、誓ってください!」

 思考がまとまらない頭で、クラリスは自分がフィーアを泣かせていることに気づく。自分が死のうとしたことが原因だと悟らざるを得なかった。

 クラリスは愕然とした。何があっても自死はいけないとドクに言われていた。どんなにつらくても、さすがに自死はないだろうと思っていた。

 衝動的だった。確かに今、クラリスは死のうとしていた。

 あの小さな刀では死ぬことはできないだろう。ただ長く苦しみが続くだけだ。失血死はあり得たかもしれないが、そこまで考える力はクラリスにはなかった。

 ――私は……死にたかったのか……?

 唐突に部屋の扉が開いた。入ってきたのは、暗闇に溶けこむ姿の、息を荒げた魔王だった。

 魔王は泣き崩れるフィーアと、茫然自失状態のクラリス、窓元に転がった小刀を見て状況を把握したようだった。

 素早くクラリスの元に来ると、クラリスの肩を強く掴んだ。その手は小刻みに震えている。

 ――あの「魔王」が震えている?

「何を、するつもりだった?」

 地を這うような低い声で問われる。クラリスは何も返すことができなかった。月のような瞳が揺れ動いている。

 魔王はフィーアごと、クラリスの体を強く抱きしめた。

「――無事で、よかった」

 そのときようやく、クラリスは事の大きさを痛感した。自分はどうしようもないことをしでかしたのだ。

 フィーアも、魔王も、クラリスが死ぬことを想像して、これほどにも動揺している。その事実に、クラリスは初めての感情をあふれさせた。

 幻滅されたらどうしよう。見捨てられたらどうしよう。

 同時に、喜びも感じていた。死のうとした自分を想ってくれる者が二人もいる現実を、クラリス自身が見捨てるわけにはいかないと思い直した。

 クラリスは魔王の背中に恐る恐る手を回す。服をぎゅっと掴むと、震える唇で宣言した。

「誓う。勝手に死なない。誓うよ、約束する」

 だから、とクラリスは続けた。

「だから、私を置いていかないでくれ」

 枯れたと思っていた涙が、クラリスの目元を熱くさせた。

 クラリスの言葉に、魔王とフィーアは怒るような口調で「置いていくわけないだろう」と言った。



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