第六話 勇者、治療中
寝所事件(フィーア命名)があってから、魔王は日中でも頻繁にクラリスの元を訪れるようになった。
初めは魔王の気にあてられていたクラリスだったが、回数が続くと「また来たのか……」と言いたくなる。半目で見つめる余裕ができた。
フィーアに何か言われたのか、あれから魔王が寝台に上がることはない。しかし、早朝に部屋に侵入しては、眠れないクラリスの頭を撫でていく。そうするといつの間にかクラリスは眠気に誘われ、起きる頃には魔王は姿を消している。夢だったのだろうかと思うこともあるが、かすかに香る魔王の残り香が存在を知らせていた。
すっきりとした甘い匂いで、魔王にしてはどこか可愛らしい匂いだ。フィーアに聞いたところ、フィーアにその匂いを感じとることはできないと言う。おそらく人間のクラリスにしか分からないのだろう。
この匂いをフィーアにも教えたかったと忍びなく思うとともに、発しているのが魔王であることを思いだしては首を横に振るのだった。
「クラリス」
フィーアの淹れてくれた紅茶を飲んでいると、音もなく魔王が入室してきた。
足元には魔獣――クラリスが初日に見た黒豹に似た獣だ――を連れていた。魔獣は気ままに日光の当たる窓まで歩いて行くと、ごろんと大きな体を寝そべらして、そのまま眠ってしまった。
魔王はクラリスの横に腰かけると再度名前を囁いた。
「クラリス」
魔王はよくクラリスの名前を呼ぶ。呼びながら頭を撫でる行為も、クラリスにとって習慣として感じるほどだった。
魔王の手を払い、魔獣を起こさないくらいの声音で語気を強める。
「気安く名前を呼ぶな。私はあなたに名乗った覚えなどない」
それに対して魔王は不思議そうな顔をする。最近は魔王の無表情を読みとれるようになってきた気がするが、遺憾なため誰にも言っていない。
「なぜだ? そなたが言ったのだ。自分は「クラリス」だと」
その台詞にクラリスは困惑した。自分の把握していないところ――たとえばうつ病が悪化していたときや、寝ぼけていたときにでも名乗ったのだろうか。それを「いや」と否定して、早く口を回す。
「言った覚えなどない。せめて姓の方で――」
クラリスは自分に姓がなくなったことを思いだす。一気に気持ちが落ちこんだ。
「ユースティティア」という姓は、クラリスにとって誇りだった。それが今はないということに、絶望と自身への激しい自責の念を感じる。
「我の前ではそなたは「ただのクラリス」だ」
クラリスは顔を上げ、ゆっくりと目を見開いた。
どんなときも「仮面をかぶること」を強いられてきた。両親が存命のときも、勇者養成校に所属していたときも、勇者として活躍していたときも。「クラリス」ではなく別の何かを演じていた。
「「勇者」でも「英雄」でも「民衆の憧れ」でもない。「クラリス」、我が何度でも名前を呼んで思いださせてやる」
どこまでも勝手な、自信家な台詞に、クラリスは胸を締めつけられる。感じたことのない胸の痛みに病気を疑う余裕もない。クラリスは魔王の言葉によって瞳に光を取り戻す。
「……ああ。私は「ただのクラリス」だ」
柔和に微笑みを浮かべる。うつ病になって初めて心からの安堵を覚えた。
「笑ったな」
魔王はクラリスの頬を撫でる。その行為にクラリスは顔を桃色に染める。
「私だって笑ったりする」
手を押しのけて、顔を隠すために背ける。その仕草に魔王はふっと微笑みをもらした。クラリスは顔の熱が冷めると、魔王を睨みつけて口を尖らせた。
「私の名前だけ知っているのは卑怯だ。あなたの名前も教えてくれ」
それに対して魔王は、いつも以上に無表情を強固にして、心情を悟らせない。瞳だけが温かみの金色をしていて、クラリスはその金に吸いこまれそうな気がした。
「我の名を、そなたはとうに知っているはずだ。よくよく思いだせ。それまでは、「魔王」でよい」
そう言うと魔王は立ちあがり、部屋から颯爽と去っていく。主人の帰りを察知した魔獣も、凛々しい歩きで魔王の背中について行った。
残されたクラリスは訳が分からず、魔王の言葉を再生する。
「私が、魔王の名をすでに知っている?」
――一体何を?
クラリスは茶菓子を取りにいっていたフィーアが戻ってくるまで頭を悩ませるのだった。
◇
クラリスの一日はほとんどが体のだるさと眠さとの戦いだ。寝たきりは体によくないとドクに言われ、できるだけ日光に当たることを勧められた。
外に出るのは抵抗がある。そのため、窓際に置かれた革張りの椅子に腰かけて、うとうとすることが日課となっている。そこで疲れて寝てしまうと、フィーアが温かい薄手の毛布をかけてくれる。それは気持ちがよく、同時に罪悪を感じてしまう。
いつも「なぜ、なぜ」と自分を問い詰める。答えの出ない堂々巡りの疑問を常に追い続けていた。答えは一向に出ない。腹立たしく思い、苛立ちはつのる。
元は精神力が強かったクラリスはそれを決して表に出そうとはしない。
うつ病には治療の期間があるという。クラリスはその中でも不眠やうつ病の主な症状が出てくる時期にあるそうだ。ドクからは休養と薬物治療、心理学治療をやっていこうと言われている。ドクと会話をすること。自分のうちを吐露すること。
これがとても難しい。クラリスは自分というものを分かっているつもりで分かっていなかった。なぜ分からないかをドクと考えた。
ドクはクラリスの言葉を決して否定しない。肯定し、共感し、受容する。治療法だと気づいていたが、クラリスは悪い気がしなかった。自分を受けいれてくれる存在に傾倒してしまいそうになるくらいには。
魔王と会話をすることも多くなった。
会話といっても、体調が不安定なクラリスは一言も話せないときもある。そのようなときはフィーアと一緒になってそばにいてくれる。
クラリスが眠れないと、魔王はそっと頭を撫でる。どうしようもないほど心地よくて、クラリスはその温かみを享受してしまう。相手は敵である魔王だというのに、いつの間にかそれは些細なことだと思うようになっていた。
最近調子がよかった反動がその日は強く顕れる日だった。そういう日は日の光を浴びたいと思う。しかし外は生憎の曇天。
何もかもが憎く、腹立たしい。その禍々しい感情を近くにいるフィーアに感じさせまいと抑制する。始終無言のクラリスに心配を向けてくるフィーアの瞳も苛立たしさを助長させていた。
午後、魔王が当然の顔で部屋に入ってきた。魔王の一挙一動が目に留まり、この怒りをすべてぶつけてしまいそうになるのを抑える。
魔王はクラリスの顔を見るや否や、クラリスの顎をぐいっと引き寄せた。
「なんだその顔は? 言いたいことがあるなら言え。ぶつけろ」
そう許された途端、クラリスの目から涙が決壊する。泣きたくもないのに、涙を見せたくもないのに止まらない。
何かを口から発しないと頭が壊れてしまうような錯覚がした。口は思うように動いてはくれない。食い縛った口から妙な吐息が漏れるだけ。行き場のない感情は涙としてあふれていた。
涙と鼻水はとめどなく、見苦しい様でも魔王はクラリスから離れなかった。そのすべてを見透かす瞳に苛立ちが増し、舌をもつれさせながら言葉を作る。
「なんで、私が。なんでこんな目に。いつ治るんだ。どうすればいい?
私は独りだ。怖い。腹が立つ。どうして私が。怖い。怖い。自分が自分でなくなるようだ。私は! こんなんじゃないのに‼」
魔王は顎を掴んだまま、クラリスの愚痴を聞き続けた。
繰り返しあふれ出てくる疑問、不安、恐怖、憤り、懺悔の言葉。
「どうしてだ⁉ 教えてくれ、答えてくれ! 私の何がいけなかったんだ? 私は今まで、頑張ってきたのに――!」
最後の方は声にならず、叫ぶように魔王の胸を何度も叩いた。魔王は一切動じず、その弱々しい暴力を受けいれる。本気で殴ってしまいたいのに、クラリスの手は震え、力をこめることができない。
溜まった鬱憤を晴らすようにわめき続け、自己嫌悪が襲いかかる。他人に八つ当たりするべきではない。それでも感情がうまく制御できない。ぐるぐると頭を回すものの、自分のうちなる悲鳴しか聞こえてこなかった。
涙でふさがった目が泳いだ。
魔王の手がクラリスの頭の上に柔らかく乗せられる。もう深く考えるのはやめろとでも言うように優しい温度を持っていた。その温かさに安堵を覚えると、クラリスは気絶するように眠りに落ちた。




