第五話 勇者、魔王と添い寝する
――クラリスが泣いた、だと。
朧げな脳の片隅で、誰かが話しているのが聞こえてきた。
――つらかったね、頑張ったねって言ったら泣いておられました。相当溜めこまれていたようですね。
――泣かしたことは不問にしよう。次は許さん。
――はいはい。私も泣かせたくありませんからね。だから、そんなに睨まないでください。
男の声とそれより若い声がする。クラリスははっきりしない頭で耳を澄ませた。
――なぜそんなに大事にするんですか?
――おまえもそのようなことを聞くのか。
男の声は抑揚がなく安定している。安堵感を誘う声音だ。
クラリスの瞳は全く開かない。眠気が段々と押し寄せてきて飲みこまれそうになる。
――みんな気になるんですよ。異性に無関心だったあなたが連れてきたのは、元とはいっても勇者だった女性。従者の誰もが、あなたとクラリスの関係を知らないと言う。驚くなという方が無理です。
「私」の話だろうか。クラリスは微睡のぬるま湯に浸かりながら、思考を回すことができなかった。
――……いつかは話す。
――まあ、いいですけどね。僕もしばらくはクラリスの診察に回るので、急な仕事は助手に任せちゃってくださいね。
――頼む。
――本当に大事なんですね。それがクラリスにも伝わるといいけれど。
眠りの渦が巻き起こる。眠い。クラリスは考えることを放棄した。
次にクラリスが目を覚ましたとき、空は赤く染まっており、海の向こうに夕日が沈もうとしていた。
「おはようございます、クラリス様」
ずっと見守ってくれていたのだろうか。枕元の椅子に座っていたフィーアが、水差しを口元に持ってきてくれる。渇いた口内に爽やかな冷たさが広がった。
「お加減はいかがですか?」
クラリスは寝落ちる前に泣いてしまったことを思いだす。顔は目元が熱い気はするものの、頬に流れた涙が渇いているという悲惨な目には合っていない。クラリスが寝たあとにフィーアが手入れをしてくれたのだろう。
「先程よりは悪くない」
軽く目をこすろうとすると、素早くフィーアに止められる。
「まだ赤いですから、こすっちゃ駄目ですよ」
注意されたので、クラリスは行き場のない手をゆっくりと下ろした。
「クラリス、起きたの~?」
長机の方からドクの間延びした声が聞こえた。診察の途中で、しかも人前で泣いてしまったことに、クラリスは恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになった。穴があったら掘り進めて一生出たくない気分だ。
足音が近づき、ドクがフィーアに変わって枕際に立つ。即座にクラリスは謝罪の言葉をかけた。
「すまない」
「大丈夫だよ。寝ている間に薬を作っていたんだ。説明してもいいかい?」
ドクの言葉に頷き返すと、彼は長机に置いていた薬を取りに戻った。
試験管のような硝子に入った色とりどりの液体。あまり喉を通したくない色をしている。
「順に説明するから、覚えていってね。フィーアにも説明したから、無理に覚えようとしなくても大丈夫だよ」
そう言ってから硝子を固定する容器から、一つ一つ液体――薬を持ちあげた。桃色の薬が最も量が多い。
「これは朝食後に飲む薬。不安と興奮を抑える効用がある。君の場合、朝に希死念慮――死にたくなることが多々あるようだから、飲み忘れには気をつけてね。すぐに効果が表れるものでもないけれど、確実に君を助けるものになるはずだ」
丁寧に容器を戻し、透明な黄色の薬を取りだす。
「これも朝食後の薬。さっきの薬と一緒に飲んでね」
そしてドクは容器から出してはクラリスの前に掲げて説明していった。
左から三番目の赤い薬、四番目の橙の薬は夕食後に飲む薬だ。朝と同じように不安と興奮を紛らわす薬のようだ。この二つが最も大事であることを伝えられ、飲み忘れないようにと言われる。
次に示されたのは寝る前の薬。安心して自然な眠りにつくことができる水色の薬だ。
「君は長いこと睡眠障害を患っていたみたいだけど、ここに来てから眠れているそうだね。睡眠薬はまた今度の診察のときに、様子を見て処方することにしよう」
そう言って、量の変動がある五つの薬を、クラリスは見つめた。
メンシス王国では見るからに苦そうな薬草による薬が主流である。それに慣れてしまっているクラリスにとって、鮮やかな色のこの液体は未知なる存在だ。
「怖いかい?」
的確に心情を読みとるドクに、クラリスは少し迷ってから頷いた。抵抗感を侮るのでもなく、怒るのでもなく、ドクは微笑みを携えている。
「君が信用して飲んでもいいと思えるようになったら飲むといい。必ず君の状態が改善することを約束しよう」
容姿は幼いものの、そのどこからともなくある包容力は年長者そのものだった。
「うつ病の最たる治療は、長く休養期間を取ることだ。薬物治療が合わさるとなおいい。だが、疑心を持ったまま、治るか分からない薬を飲む行為はよくない。クラリスの気持ちが整理できたら飲むことをおすすめするよ」
一応毎日届けに来るねと言って、ドクは重そうな荷物を引きずって部屋から出ていった。
フィーアの用意してくれた軽い夕食を口に入れ、食後のお茶を用意してもらう。フィーアは落ちつかない様子でちらちらとクラリスを見てくる。不思議に思って見つめ返すと、フィーアは迷った末に口にした。
「クラリス様、お薬はどうされますか?」
ドクの言葉が頭で再生される。
怖い気持ちは確かにある。それは魔族を信用していない問題ではなく、未知なる挑戦への幕開けに逡巡しているに過ぎなかった。ドクの杞憂――魔国に対する偏見は、長くメンシス王国で暮らしていたクラリスにしては驚くほど薄かった。ないと言っても過言ではない。それを踏まえると、クラリスが迷う気持ちは些事だ。
――これでは元勇者の名折れだな。
そう自分に言い聞かせ、クラリスは紅茶の杯を皿に戻した。
「飲む。持ってきてくれるか?」
「はい!」
元気よく返事をしたフィーアは、薬の容器が入った戸棚へと走っていった。
◇
毎日の診察に、フィーアに世話を焼かれる日々。
日によって体調は天と地ほどの差が出る。体が鉛のように重くなって動けず、寝台の上でフィーアに食事を運んでもらうこともある。その疲労感のことは「鉛様麻痺」というのだとドクが教えてくれた。名前通りの症状である。
体を動かさないからか、初日ほど夜は眠れない。寝られても、朝早く起きて絶望を感じる。
隣の部屋で寝ているフィーアを、早朝から叩き起こすことは不甲斐ない。フィーアは遠慮なく起こしてと言うが、クラリスは意地か弱虫か、彼女を起こす気力もなかった。
完全に昼と夜が逆転しつつある。夜眠りたくても眠れない。それをドクに相談したところ、緑色をした睡眠薬を処方された。その睡眠薬の副作用は強く、夜は強制的に眠れるのだが、早朝には起きてしまう。副作用は昼にまで影響し、昼間も眠くだるいという現象が続いていた。
よい点としては頭をあまり使えなくなった点だ。
クラリスは仲間に裏切られている。処刑寸前までいった身だ。そのことを今は考える余裕がない。早朝に起きてしまって、暗い部屋に独りでいても、「死」という概念をまだ考えてはいなかった。
考えることは、今後の不安、未知の恐怖、言葉にできぬ困惑。様々に入り混じる感情に名前をつけられず、ただ静かに枕を濡らす。
早朝、クラリスはまたしても目を覚ます。この時間帯、一番頭が覚醒している。そのため考えるという行為ができ、クラリスにとっては苦痛の時間であった。
冴えた目で、部屋の全体を見回す。最低限の家具しか置かれていない、それでいて広い部屋。三つの扉があり、寝台の正面に出入り口、浴室に続く扉、そしてフィーアの寝室に続いている。それをぼんやりと眺めていると、クラリスの衰えていない察知能力に廊下の足音が引っかかる。
クラリスは寝たふりをして、その足音が通り過ぎるのを待った。足音はクラリスの扉の前で止まると部屋に入室してくる。クラリスはドクにしては重圧のある足音に体を強張らせた。
基本、クラリスは部屋から出ない。調子のいい日でさえ、外の景色を窓からしか見ない。散歩することを提案するフィーアだったが、毎回渋る態度をとってきた。
クラリスが関わるのはフィーアとドクの二人だけだった。今のクラリスにとってそれ以外の者と会うことは負担でもあった。
今までこれほどの恐怖を感じたことはない。魔物と対峙しても、恐怖感は抱かなかった。
今手元に武器はない。反撃するならば相手が油断する一瞬だ。
気配が段々と寝台に近づいてくる。枕元で気配が止まり、そして腕が持ちあがる衣擦れの音。神経を研ぎ澄ましていると、その腕はクラリスにどんどん近寄ってきた。
頭に触れるか否かのところで、クラリスは飛び起き、腕を掴みとると勢いよく引っ張りこんだ。体を固定するように反射的に組み敷く。はっはっという浅いクラリスの息遣いだけが暗い部屋に響いていた。
布帳から漏れた薄い日差しが寝台にいる二人を照らす。
「……魔王?」
クラリスは驚愕と焦りとともに呟いた。馬乗りになった相手をただ見つめる。魔王はその白い顔に何の色も浮かばせていなかった。突然引っ張られても、馬乗りになられても、魔王は一切驚愕していなかった。
「起きていたのか」
その事実をただ尋ねてくる。クラリスは魔王を下敷きにして押さえつけ、驚きが冷めやらないまま問い詰めた。
「何の用だ?」
それに魔王は無言で答えた。暗闇の中、冷たい表情で金眼だけが輝いている。昔食べた飴玉のように純粋で、厳かで神聖だった。
寝台に散らばった魔王の長い髪は漆黒で艶やかとしている。見れば見るほど、人形のように整った容姿をした男である。
クラリスが静かに観察していると、魔王は「はあ」と深い溜息を吐いた。
「とりあえず、上から退いてはくれないか」
「質問に答えていない」
「女の寝所を訪れる理由は一つだ」
慌てて、クラリスは魔王から距離を取って構える。
クラリスは自分を女として認識したことはない。自身より強い「勇者」にそのような視線を向ける異性もいなかったからだ。
しかし、この魔王は違う。彼は圧倒的な強者だ。魔法の心得はあるが、武器なしで戦って勝てる相手ではない。クラリスは神経を研ぎ澄まさせ、魔王の一挙一動にもくまなく対処できる姿勢を取る。
「冗談だ」
「なっ!」
魔王はゆっくりと体を起こすと、寝台の上に立膝をついた。肩にかかった黒髪を背中に流し、クラリスを見つめる。
謀られたのだと察して、クラリスは顔を真っ赤にした。
「クラリス。まずは寝巻を直せ」
クラリスは自分の着崩れた服を見下ろした。段々と顔に血が上るのを感じて、速やかに格好を直した。
「クラリス」
今度は少しの怒気を含めた声で、魔王は諫めるように言う。
「そなたは強い。認めよう。だが、女であることを自覚しろ。相手が分からぬ者を、わざわざ自分から寝所に招き入れるな」
突然始まった説教に、顔の熱が引かないままクラリスは反論する。
「おまえに! おまえに言われる筋合いなどない!」
「それから――」
「まだあるのか⁉」
始終表情は崩れず、魔王はクラリスと距離を開けたまま話しかけてくる。拍子の抜けた魔王の言葉に心は乱されるばかりだ。
「眠れないのか?」
クラリスは目を見開き、呆然と魔王を見つめた。
「……別に。起きてしまっただけだ」
変わらぬ事実をただ述べる。
クラリスは動揺していた。なぜ魔王が自分を気遣うのか分からなかった。自分は敵で、捕虜で、――生かしても意味のない人間で。考えれば考えるほど、治療し、温かい寝床を与えてくれるのか分からなかった。
魔王は眉を動かすことなく、再度深い息を吐く。
おもむろに動きだすと、寝台の端に横になった。頭に手を置き、こちらを見あげている。
「……何の、つもりだ?」
あまりにも油断としか言いようのない無防備な格好に、クラリスは唖然とする。クラリスの様子を気にかけることなく、魔王はどこまでも自由に、自身の隣を二回軽く叩いた。
「来い」
「はあ?」
声が裏返る。クラリスは呆然とし、魔王の何を考えているか全く分からない顔を見る。
「何がどうなってそんな!」
「眠れないのだろう?」
荒げた声を遮られ、魔王の淡々とした低い声が耳に残る。
クラリスは眠れずに困っていたこともすっかり忘れていた。反論できず、口を開けたり閉めたりを繰り返していると、魔王は右手を前に差しだした。
「来い」
クラリスの体は無意識的に動いた。
術をかけられたわけでも、考えるのを放棄したわけでもない。ただ魔王の瞳を見つめているうちに、自身のどうしようもなく魔王に惹かれる気持ちを自覚してしまう。それは興味か、気紛れか。それとも魅了か。
クラリスは魔王に近づくと、少し距離を置いて横になった。が、強引に魔王によって懐に引き寄せられる。
「おい!」
声を上げて胸を押すが、魔王の体はびくともしない。魔王はクラリスの抵抗を無視して一人瞼を閉じた。そして耳に優しい重低音で囁く。
「今は眠れ」
すんっと、体の力が抜ける。魔王から発する香りがふわりとクラリスの鼻腔をくすぐった。
――ああ、この香りは。
その香りをクラリスはどこかで嗅いだことがあった。
白い肌に反して魔王の温かい体温と、背中を軽く叩かれる振動が、今まで全くなかった眠気を誘う。そのまま温もりに包まれて、数秒と立たず眠りの世界に舞い戻った。
――あなたはだあれ?
――そうしたら、お父様とお母様は私を見てくれるかしら?
――私の名前はクラリスよ。
――クラリス。
「ぴぃやああああああああああああああああ‼」
大きな叫び声に驚いて目が覚める。
「フィーア⁉」
声の主はフィーアである。足元に目を向けると、フィーアは顔を真っ赤に染めて口を覆いながら立ちすくんでいる。
「どうした、フィーア。何があった?」
「そそその台詞は私の台詞ですよぉ!」
フィーアは手をじたばたさせて最終的に指を差した。指した先――クラリスの隣を見ると、黒い装束の美丈夫がクラリスの腰に手を回して寝ていた。
「……は?」
魔王である。
「はああああああああああああああああああ⁉」
「……うるさい」
長い睫毛の下に眠った金の瞳が見開く。がっちりと腰を固定され、距離を置くことも敵わない。クラリスは顔を真っ赤にさせて硬直した。魔王は死んでいる表情筋を珍しく動かして愉快そうにしている。
再度、魔王の厚い胸板を押して少しでも離れようとした。クラリスの抵抗虚しく、魔王は抱きこむようにして頭を撫でてくる。
「眠れたか?」
優しい声音で囁かれる。
頭はいつもの朝より格段に冴えていた。眠気も、朝特有のだるさもない。クラリスは魔王を見あげ、素直にこくりと頷いた。
「そうか」
満足そうにクラリスの形のいい頭を撫でてくる。魔王は長い髪を踏まないように起きあがると、クラリスを残して寝台から立ちあがった。
「またな」
最後にもう一度撫でられ、魔王は寝起きにも関わらず颯爽と入口の方へ向かう。
「フィーア。クラリスを頼んだぞ」
「は、はい! かしこまりました!」
いまだに髪色と同じくらい顔を真っ赤に染め、見てはいけないものを見てしまったと言わんとするフィーア。彼女に一声かけて、魔王は部屋から去っていった。
部屋に数秒の沈黙が訪れる。ぐるりと俊敏に頭を動かして、フィーアは寝台に突撃してきた。
「どどどどういうことですか、クラリス様⁉」
「私にもさっぱりだ!」
上体を起こすと、ほのかに残る魔王の香りにふらっと酔いそうになる。
「だって、あれ。魔王様ですよね⁉ え? どういうこと? いつも寝ているときにお見舞いにいらしていたけれど。どういうことですか⁉」
「待て。見舞いに来ていた? 寝ているときに⁉」
はっと口を慌てて抑えるフィーアだったが、時すでに遅し。
自分の寝顔を見られていたことを知ったクラリスは、顔をさらに赤く染める。
――そういう問題じゃないだろ! 相手は「魔王」だぞ⁉
心中でそう叫びながら、クラリスは寝台の上で頭を抱えた。
敵の長である魔王と同衾してしまった。それはどこまでも健全なものであったが、頭が回っていないとはいえ、失態には相違なかった。
「クラリス様、何もされませんでしたか? 私が隣の部屋にいながら、申し訳ございません!」
今度は顔を器用に青くするフィーアに「大丈夫だ、何もない」と早口で叫び返す。
そう、何もなかったのだ。クラリスは魔王に抱きこまれてからの意識がない。着衣に乱れはないため、ただ普通に添い寝をされただけ。
ではなぜ、あの魔王が? という疑問。
絶対悪とされる魔族の長。フィーアの情報に寄れば穏健派で、魅力的な統率者で、圧倒的な力を誇る今代の魔王で――そして顔がいい。
クラリスは魔王の目を伏せたときの長い睫毛を思いだし、頭を横に振った。
――違う違う! そうではない!
クラリスは働かない脳の尻を叩いて、急な速度で総回転させる。考えれば考えるほど、疑問が疑問を呼び、しまいには頭が比喩的に噴火するほど参ってしまった。
「くそっ! 魔王め!」
すべての責任を魔王に押しつけ、クラリスは二度寝を決めこむことにした。




