第四話 勇者、療養する
クラリスは眠りにつくときが一段と怖かった。次の日に起きた自分は、前日の自分ではないような気がして、言い様のできない不安を抱きながら眠りについていた。
それは勇者として過ごしていたときも同じで、誰にも言うことができず、ただ時間の経過と疲れによって寝ているに過ぎなかった。
この不安はどこから来ているのか。クラリスには分からない。現状クラリスがうつ病になってしまった「原因」を考えると、この点を深く掘りさげる必要があると無意識に感じとっていた。
風呂に入り、力尽きて眠ったクラリスが次に目を覚ましたのは、大きな窓にかかる布帳の間から差しこむ光が顔にかかった頃だった。半開きの瞳で状況を確認する癖は、病気になった今でも案外抜けないものであった。
そして、クラリスは息を飲む。足元に大きな黒い物体が横たわっていた。
よく見るとそれは毛並みがしっかりした生物のようだ。黒いしなやかな毛に、細長い尻尾、耳は三角形に尖っている。クラリスの二倍ほどもある体を器用に丸めて寝台の上で眠っていた。
――魔獣だ!
反射神経が作動して、慌てて壁際まで下がる。その振動を感じとったのか、魔獣の耳がぴくんと上向きに伸びると、ゆっくりと目が開けられた。
それはとても美しい金色の瞳だった。飲みこまれるかと錯覚するほど強烈で、魅惑的な金眼をクラリスは最近どこかで見た覚えがあった。
魔獣は一つ大きく欠伸をして伸びをすると、いきなり四肢を持ちあげた。襲ってくるかと一瞬身構えるものの、魔獣はクラリスを横目に見つめてから、たっと寝台から降りていく。
部屋の出入り口の方に向かっていった魔獣は、器用に扉の取っ手を引き、扉を開けてするりと廊下に出ていった。
――いったい、なんだったんだ?
あのような魔獣を見るのは初めてだった。気性が荒いとされる魔獣を従わせるのは魔族の中でも難しいと言われていることは勇者養成校で習った。
一見、人間界にいる生物と変わらないように見える。それこそ、猫や豹を巨大化したような姿だった。触ってみたい誘惑を感じながら、いやいや危険な魔獣だぞ、と自分を諫めている間は体の重さは忘れていた。
そのとき、扉の向こうから二つの気配がした。体を固まらせて注視すると、扉が三回叩かれる。
「……誰だ?」
問いかけると扉がゆっくりと開く。
そこにいたのは先ほどの黒豹に似た魔獣。そして、この宮殿の――この魔国の支配者である「魔王」その者であった。
魔王が左腕を横に滑らせると、すべての布帳がばっと一瞬にして開いた。
無言のまま寝台に足を進める魔王。その視線はクラリスの瞳を真っ直ぐと捉えて離さない。
クラリスは気づく。魔獣の金の瞳をどこかで見た覚えがあったのは、魔王と同じ瞳をしていたからだ。
――とても、綺麗だ。
満月のような神秘的な輝きをしている。メンシス王国で初めて見たときと同じ感想を抱いた。
魔王は一定の距離を置いて立ち止まった。その隣に行儀よく魔獣が座る。
「具合はどうだ?」
容態を確かめるその言葉にクラリスは意表を突かれ、咄嗟に口を動かす。
「いつもより、調子がいい。体を起こせるほどには」
言ってから敬語の方がよかっただろうかと心配になる。ここにはクラリスの相棒である剣は存在しない。敵である魔王が攻撃してきても、クラリスは反撃することも敵わないのだ。
それでも頭のどこかで、この魔王は自分に害はなさないと無意識的に感じていた。
「そうか」
クラリスを咎めることもなく、魔王は一言だけ呟いて身をひるがえす。そのまま魔獣を連れて部屋を出ていこうとするのでクラリスは慌てた。
「待て!」
制止の声に、魔王は素直にも従う。
「なんだ」
金の瞳を向けられ、クラリスは動揺した。起伏の変動の気持ち悪さを感じながら、それでも問わずにはいられなかった。
「なぜ、私を魔国に?」
ずっと、頭の中にあった疑問だった。
――敵である自分をなぜ?
その答えを、魔王は即座に口にした。
「死なせたくなかったからだ」
メンシス王国の宮殿で宣言された通り、クラリスは処刑されるはずだった。それも、おそらく守った者に裏切られて。
魔王に連れ去られ有耶無耶になったものの、クラリスのうつ病が治ったわけでも、現状が好転したわけでもない。
「……捕虜にするのか?」
「いいや」
「奴隷として?」
「違う」
「だったら、だったらなぜ⁉」
祖国にも捨てられ、役立たずとなった自分を連れ去ったのか。その答えは魔王の口から出ることはなかった。代わりに、無表情とは違う、どこか取り残された寂しさに似た切ない表情が浮かべている。
魔王は体の向きを変えると、正面からクラリスを見つめた。
「クラリス」
自身の名前を呼ばれ、呆然としてしまう。魔国の頂点である魔王に名前が知られているとは思っていなかった。
「フィーアから聞いたのか?」
「いや」
否定で返され、困惑して言葉が出てこない。再度、魔王はクラリスの名前を呼んだ。
「クラリス、現状を理解しているか」
「……国に捨てられ、魔王に攫われた。フィーアに手厚い介護を受け、魔王――そなたと今、対峙している」
その的確な答えに、魔王は頷いた。
「そうだ。そして、そなたはうつ病という大病を患っている」
直接言葉にされると堪えるものがある。クラリスは口を噛みしめながらも、心のどこかで自分の異常に名前がついたことに安堵した。
魔王はさらに続ける。
「この宮殿でクラリスを傷つける者はいない。我が許さぬ。安心しろ、というのは難しいであろうが、今はゆるりと療養しろ」
「療養」
そんなもので治るのか。
それは率直なクラリスの思いだった。
唖然とするクラリスに、魔王は今後について命令に似た説明をする。
「用意した食事を摂れ。そして、こちらが用意した薬を服用すること。これは絶対だ。そなたにはフィーアを付ける。何か所望するなら奴に言づけろ」
「そんな、食事や薬なんて……」
相手は祖国の敵である魔族の国だ。食事に何が入っているか分からないし、薬が毒でないとも限らない。完全に信用するのは不可能だ。
魔王は変わらない顔で威圧的に命じた。
「これは命令だ。我に従え。さすれば、そなたは元に戻ることができる」
それはある意味、希望の道だった。一時は死さえ覚悟した身で、元に戻ると言われたことに歓喜に似た感情が膨らむ。
「フィーアに食事を運ばせる。今日は軽いものにするよう命じた。食べられるだけでいい。だが、絶対に口にしろ」
命令口調ながら、魔王がクラリスを気遣っているのは明白だった。人の感情に鈍いクラリスでさえそれに気づくことができた。
クラリスは疲れた体を壁に寄りかからせながら「分かった」と答えた。
魔王が今度こそ魔獣を引き連れて出ていく。
しばらくすると、控えめに扉を叩く音が聞こえた。
「クラリス様、おはようございます!」
食事の乗った台車を引いて、フィーアが朝の挨拶とともに入室してきた。
「……おはよう」
「お加減はいかがですか?」
「昨日、風呂に入った割に体調は悪くない。むしろあれが気持ちを解してくれた気さえする」
「それはよかったです」
朗らかに笑うフィーアを見て、クラリスは癒される。
「今、食事の準備をいたしますね」と言って、フィーアが部屋の窓際にある二人掛けの長机に食事の設置を行っていく。
手持ち無沙汰となったクラリスは魔王によって開け放たれた窓際に寄る。自身でのろのろとした動作で立ちあがり、光に反射した窓の外を見た。
「わあ……!」
そこには想像しなかった景色が広がっていた。
勝手に魔国を暗然とした幽鬼的な場所であると思っていた。しかしどうであろう。人間の国と変わらない太陽の日差しに、広大な自然の美しい眺めが見える。右側には山岳が連ね、左側には水の塊――クラリスは初めて見るものだったが――「海」が、太陽に反射してきらきらと輝いていた。
宮殿は高台に位置しているのか、海の付近にある城下町の色とりどりな屋根が見えた。眼下には色華やかな庭が様々な花をつけて咲いていた。弓状をした薔薇の通り道を視界に入れて、クラリスの心は不思議と躍る。
「綺麗な景色ですよね。体調がよろしければ、庭に下りてみますか?」
フィーアが手を留めずに、自然と顔を綻ばせていたクラリスに提案する。その誘いはクラリスにとって喜ばしいものであったが、ためらいは残る。この地が敵の陣地で、魔王が否定したとしても捕虜であることは変わらない。たとえ、自分に人質としての価値がないとしても。
「いや、やめておく」
「またいつか、一緒に行きましょうね!」
クラリスの心情をおもんぱかってくれるフィーアの気持ちが、今のクラリスにはくすぐったかった。
「さ、もう準備が終わりますよ! クラリス様、顔を洗いに行きましょう」
フィーアに手を取られ、浴室に向かう。顔を洗って歯を磨くと、倦怠感は残っているものの爽快感があった。
広い部屋に戻り、長机に備えつけられた椅子をフィーアが引いてくれる。目前に用意された食事を見て、クラリスは少し躊躇した。魔王の言葉を信じるならば、毒の類は入っていないだろう。しかし、それ以前にクラリスは食欲が全くといってなかった。お腹は空いている気がするものの、喉が食べ物を拒絶している。ここ最近は固形物を口にした記憶がない。
うつ病を発症する以前からその傾向はあった。何となく食べることを拒否してしまう。簡単な補助固形食を口にして食事を終えることは多かった。
食事だけではない。睡眠も長くはとれていない。一、二時間ごとに起きて、再度眠ることは難しい。眠れたとしても睡眠は浅く、悪夢ばかりを見て寝汗をかくこともしばしばであった。
今思うと、あれはうつ病になる予兆だったのかもしれない。慢性的な頭痛も、朝になると腹が痛い気がしたのも、体が警告を発していたのだろう。気持ちとしては何の問題もなかったが、体を動かすために脳が麻痺させていたにちがいない。
「どうですか? 食べられそうですか?」
不安そうに尋ねるフィーアを申し訳なく思う。魔王の「食事を摂るように」という命を思いだす。魔王に従うことは不服だが、これ以上世話をしてくれるフィーアを心配させたくはない。
「食べるよ」
皿の上のふたをフィーアが取ってくれる。目の前に湯気が立ちこめる。それは温かいミルク粥だった。籠に入った控えめのパンと緑の野菜が置かれている。
「パンと野菜は食べなくてもかまいません。でもお粥だけは食べてください。魔王様がおっしゃっていましたが、クラリス様は体重が軽過ぎるそうです」
寝こんでからは教練を怠っており、運動もしていない。体力も落ちているのを感じとっていた。頬が痩せこけたような気がするのも、気のせいではないだろう。
クラリスは匙を手に取ると、ゆっくりとした動作で皿から粥を掬い、口に持っていく。その動作はすべてが遅いものだったが、フィーアは隣で見守っていてくれた。
口に入れるとほんのりとした乳の甘さとほんの少しの塩気。ちょうどいい熱さの粥をゆっくりと嚥下していく。お腹が感激したとばかりに動きだし、粥を迎えいれる。その頃には毒物が入っているのではという杞憂は全くなかった。
「……おいしい」
そう伝えると、フィーアは心から嬉しそうに笑う。
「よかった! 料理人の方々にも伝えておきますね!」
お口にあってよかったと安堵を見せるフィーアに、クラリスは心配をかけていたのだと反省した。
腹の具合を聞きながら、クラリスは気長な動作で口に持っていく作業を続ける。
食事というのはこんなにもおいしいものだったのかと初めてのように感じた。決して帝国での料理が粗末だったわけではない。初めて抱いた食欲を、クラリスは形容する言葉を知らなかった。
三分の一を食すと、急に粥が喉を通らなくなる。頭がこれ以上食べることを拒否していた。匙を皿において、残すことをためらっていると、フィーアは優しい声で「大丈夫ですよ」と言った。
「今日はこのくらいにしておきましょう。一気に食べると、お腹がびっくりしちゃいますから」
その言葉に救われ、クラリスは謝罪する。
「すまない……その、ごちそうさま」
「はい! 食べられないかと思っていたので、本当によかったです!」
食事を片づける作業に入りながら、フィーアは心からほっとしたと言わんばかりにそう言った。
「これからの予定ですが」
椅子に座りながら、外の景色を見ていたクラリスに、フィーアはおずおずとした様子で続ける。
「この宮殿にいる癒者がクラリス様を診ることになっています。その、ご案内しても大丈夫ですか?」
どこまでもクラリスの容態を気遣ってくれる言葉に、クラリスは感謝を感じながら、「分かった」と頷いた。
魔王はなぜかクラリスの病気を治そうとしてくれている。その背後にどのような経緯があるかは知らないが、利用できることはしてしまおうという気概さえ、今のクラリスは持つことができた。
フィーアが食器類を片付けている間、クラリスは淹れてもらった温かい蜂蜜入りの紅茶を飲んでいた。
台車を押してフィーアは癒者を呼びに行った。自然と一人になるのを心細く思う。それを紛らわすように、クラリスは外の景色を見つめ続ける。
――あの大量の水は、書物に書いてあった「ウミ」だろうか?
半分も減っていない紅茶をちびちびとすすりながら、クラリスは朝日に照らされて光り輝いている水面をただ眺めていた。
敏感なクラリスの神経に二人の足音が届く。扉の方を向くと、控えめに叩く音が鳴った。
「どうぞ」
返事をすると、フィーアが扉を抑え、後ろからもう一人が顔を覗かせる。そこにいたのは大きな鞄を持った肌の黒い少年だった。
重い鞄に釣られ、体がすこし傾いている。少年の額からは小さな角が二本生えていた。綺麗な白衣が肌の色と対照的で映えている。
「クラリス様、彼が癒者のドクです」
「はじめまして」
にこにこという擬音が似合う明朗な少年――ドクは、「よいしょ」という掛け声とともにクラリスの対面の椅子に座った。
「君のことはなんて呼んだらいいかな? あっ、僕のことはドクでいいよ! 僕の方が年上だけど、そうは見えないだろうから不自然だろう?」
その言葉にクラリスは心中では驚く。見るからに十代前半かそれより下の風貌をしている。にもかかわらず、彼は自分を年上だと言う。
「あれ? これを言うとほとんどの人間は驚くんだけどなあ」
「……いえ、驚いています」
魔王にさえ使わなかった敬語で返すと「その敬語もやめてね」と言われてしまった。
「クラリス様、彼は小鬼なんです。医術に関して魔国では彼以上の癒者はいないと言われている優秀な方です」
フィーアがこっそりと教えてくれる。
「さて、早速診察を始めようか」
大きな鞄から丸い眼鏡を取りだしたドクは、問診票に丁寧な字で書きこみながら質問を繰り返す。
百近い問診を受けると、クラリスは「肯定」か「否定」しかしていないのにどっとした疲れに襲われた。少し眩暈がする気がして、長机にさりげなく掴まる。
それを目敏くドクは察すると、「大丈夫かい? 少し横になろうか」と言って、フィーアに付き添うように命じた。
クラリスは自身の力で立ちあがったものの、急激な眩暈に襲われて倒れそうになる。フィーアによって支えられ、寝台まで寄り添われる。
「ありがとう、フィーア」
「お安い御用ですよ」
「悪いけど、もう少し診察は続くよ」
寝台に横になりながら、枕元に立ったドクが「続けても平気かい?」と尋ねた。眩暈は布団に入るとなくなったので頷き返す。
「今の結果だけど、君は定型うつ病だろう。一般的なうつ病だね。まだ重度か軽度かは分からないけど、問診を見る限り、かなりつらかっただろう?」
――自分は、つらかったのか?
「よく頑張ったね。あとは僕や魔王様に任せておいて」
そう言われて、クラリスは自分がつらかったことを自覚した。途端に目の前が見えなくなる。
「クラリス様!」
熱い水滴が目元から目尻へとめどなくあふれていく。
誰にも相談できなかった。不甲斐なかった。情けなかった。自分にがっかりした。理解できなかった。誰にも理解されないと思っていた。認めてもらえないと思った。つらかった。泣きたかった。怖かった――。
あふれでる様々な感情を抑えきれず、クラリスは嗚咽を飲みこむようにして涙を流した。
「いっぱい泣きな。涙には浄化作用があるんだよ。心の真っ黒い悪いものを全部吐きだしてしまいな」
ドクは優しくクラリスの頭を撫でる。クラリスは温かい手の感触を感じながら、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。




