第三話 勇者、魔国に来る
――「クラリス」
誰かに呼ばれた気がした。
――「早く、我の名を呼んでくれ」
目を覚ますと、クラリスは柔らかい羽の枕に埋もれるようにして眠っていた。顔をずらすと、寝台の天井が見える。
「お目覚めになりましたか、勇者様!」
明るい少女の声が枕に遮られて聞こえてきた。ぼやけていた視界が段々と鮮明になってくる。目だけを動かしてクラリスは状況を確認した。
広い寝台の中央に一人で寝かされているようだった。寝台に乗りあげるようにして一人の少女がこちらを覗きこんでいる。その少女にクラリスは見覚えがある気がした。
ふんわりした赤毛は短く切り揃えられ、瞳は彗玉色をしている。耳が異常に尖っていることから、種族はおそらく小妖精だ。
「先日助けていただいた小妖精です。名前をフィーアと言います」
クラリスが助けたとき、赤毛は四方に伸びていて、手入れは全くされていなかった。今は待遇のいい環境にいるのだろう。やつれていた頬もだいぶ改善されていた。
「……フィーア」
「はい!」
名前を呼ぶと、フィーアは心の底から嬉しいというように笑顔で返事をした。クラリスはぼやけた頭を必死に動かす。すると慢性的な頭痛が押し寄せてきた。
「……ここは、どこだ?」
やっと絞りだせた声は儚く、通常の様子とはかけ離れている。フィーアはゆっくりと言葉を選ぶように答えた。
「ここは魔国の宮殿です。覚えていませんか? 勇者様は魔王様に連れてこられたんですよ」
その台詞に、クラリスの血の気が下がる。
――そうだった。私は魔王に連れ去られて……。
反応の悪さにフィーアは眉根を寄せた。
「あの、まさかとは思いますが、無理やり、なんてことは……?」
その問いにクラリスは固い首骨を酷使して、ゆっくりと肯定を示した。
途端にフィーアは目に見えて顔を青くすると、慌てた様子で頭を下げた。
「申し訳ありません! 同じ魔族として謝罪いたします」
「いや……フィーアが謝ることでは、ない」
訂正を入れるが、フィーアは「しかし!」と言って聞かない。
「それに……」
クラリスは疲れを感じながらも言葉を続ける。
「私はもう、勇者では、ない」
自分でそう言い、クラリスはその言葉の重みを理解した。
もう勇者ではない。どしんと重いものがクラリスの心に圧しかかった。黒い油がドロドロと纏わりついて離れない。それは責任感であり、罪悪感であり、自分を責め立てる感情であった。重い油に感情は飲みこまれ、クラリスを侵食していく。
――そう、私はもう、勇者ではないのだ。
それは今までの人生を占めていた「勇者」としての矜持を大幅に傷つけるものだった。
幼い頃「勇者」のいる部隊にいた両親から、勇者になるよう強要された。無駄に財産があったことから、英才的な教育を施され、遊ぶことは許されなかった。そうして実力をつけることが当然だと、クラリス自身も思っていた。何より、自分には一切見向きもしなかった両親を魅了する「勇者」という存在に羨望があった。幼いクラリスは、勇者になれば両親は自分を見てくれると思っていたのかもしれない。
その両親もクラリスが中等部に上がった頃に人間同士の戦に巻きこまれて亡くなった。勇者のいる部隊に所属していながら、何とも呆気ない末路だった。落ちこみはしたものの、両親に変わって魔物を討伐するという使命が宿り、勇者養成学校に進学したのであった。
今までの人生のほとんどを次ぎこんだ。それがすべて泡になって消える感覚を味わう。
――私は、何のために?
疑念が浮き彫りになると、クラリスの目に涙が溜まる。敵の陣地で涙を見せたくはなかった。元勇者としての意地が働き、クラリスは無理に目に力を入れる。
すると、フィーアは少し考えるように唸ってから、「それでは、勇者様のお名前を教えてください!」と言った。
呆然とクラリスは顔を上げた。フィーアは慌てたように手を動かす。
「わ、私なんかが勇者様の名前を呼ぶことはおこがましいですよね! 申し訳ありません」
どんどん自分を卑下するフィーアに、クラリスは特に頭を働かさないままに告げていた。
「クラリスだ」
フィーアは驚きで目を見開き、クラリス、と口の中で呟いてから満面の笑みを浮かべた。
「クラリス様!」
投げだされていたクラリスの手を包みこむと、フィーアは優しい笑みで宣言した。
「どうぞ、これからよろしくお願いいたします、クラリス様!」
血の通った温かさに、クラリスは呆けてしまう。ああ、魔族も同じ体温をしているのかと、見当違いなことを思った。
クラリスはようやくフィーアの服装を見た。彼女は侍女が着るような仕事着の装いをしていた。
「フィーアは、ここで何を?」
疑問を口にすると、フィーアは切なげに笑う。
「魔王様が雇ってくださったので、今はこの宮殿で侍女をしています。他の子たちも、城下町で働いていますよ」
そして自信満々に胸を叩くと、「クラリス様のお世話は私に任されました」とまるで名誉なことのように言った。
クラリスはフィーアの台詞に安堵を覚えた。彼女たちは無事魔国の首都まで辿り着けたのだ。再び奴隷になることもなく、不利な立場に陥ることもなく、権利を認められる生活に戻れたことは幸運だった。
魔族ゆえに、クラリスは彼女たちを保護することはできなかった。最後まで面倒を見られないことが気になっていたのだ。
「そうか……よかった。本当に、よかった」
胸を撫でおろして、放心したように「よかった」と呟く。フィーアからは温かな眼差しで見守られた。
「クラリス様、起きられますか? 魔王様から、クラリス様をお風呂に入れるように仰せつかっています」
クラリスはもう何日も風呂に入っていない。ウンブラはクラリスを一人で風呂に入れることをためらい、軽い浄化魔法で済ませていた。さすがに浄化魔法だけではまかなえない汚れも出てきている。頭もかゆいし、クラリスは自身が地味に匂う気もした。しかし、風呂に入る労力を考えると、もういっそのこと永遠に臭くてもいいかとさえ思えるのだから不思議である。
「僭越ながら髪や体は私が洗います。クラリス様はゆっくり浸かっていただくだけで大丈夫ですので」
それなら問題ない気もするものの、何から何まで至れり尽くせりな身は罪悪感が沸いてくる。
背に腹は代えられないため、ゆっくりと体を起こそうとした。だが、自分の意志ではぴくりとも体は動かせず、顔が枕に埋まる。何とかフィーアの手を借りて起きあがり、広い部屋の奥にある浴室に手を引かれて案内された。
これまた広い浴室だ。中央には一人がゆうに足を延ばせる湯舟が設置されている。
フィーアが湯加減を確認し、水を拭くための清潔な布を用意している間、クラリスは何とか上着だけは脱ぐことができた。いくつも付いた釦を外すことは困難で、準備が終わったフィーアに助けてもらう。
すでに服を脱ぐだけで疲労は限界を達している。一人裸体を晒していることを恥ずかしく思う気力さえない。
クラリスはまたしてもフィーアに手を取られ、「気をつけてくださいね」という掛け声をかけられながらゆっくりと湯舟に浸かった。気分も実態も被介護者である。
「頭をこちらに」
フィーアは湯舟のふちに布を乗せ、その上に頭が乗るよう誘導してくれる。体がお湯に完全に収まってから、クラリスは顔を優しく拭かれた。保温のされた布は、とても気持ちがよく、再度眠りの気が誘われてきた。
「クラリス様、寝てはいけませんよ~」
注意されるものの、「うー」という唸り声でしか反応ができない。
フィーアによって体を隅々まで石鹸で洗われる。頭髪にも泡をふんだんに垂らされ、丁寧な手つきで揉まれていった。
クラリスは久しぶりに爽快感を味わう。目前の湯気がまどろみを誘いつつ、頭はどこかすっきりしていた。
だからだろうか。ずっと気になっていたことを、クラリスは質問していた。
「魔王は……おまえたちにとって、どういう存在だ?」
されるがままに洗髪されながら、クラリスは返答を待つ。突然の問いにフィーアは大きく動揺した様子はない。少しの考察のあと出た言葉はどこまでも魔王を崇拝するものだった。
「魔王様は大変、慈悲深いお方です。偏見や差別をいたしません。先代の魔王様の政治が見直されまして、大改革が成されたあと、大変住みやすくなったと聞きます」
フィーアは少女の姿をしているものの、人間よりは余程長く生きている。小妖精という種族は数百年生きるモノがほとんどだと聞く。フィーア自身もすでに数十年は生きているだろう。
「私は奴隷になる前は、西の外れにある森で仲間と暮らしていました。その地でも新しい魔王様の噂は轟いておりました。とても優秀で、話の分かる穏健派の魔王様だと」
それでいて、武力にも統率力にも優れている、負けなしの指導者であるという。初めは新魔王の台頭に反乱を起こしかけた魔族を速やかにまとめた手腕は、今でも魔族の間に語られているほどだと。
「その、人間の方にとっては不服で、信じられないかもしれませんが、人族の領地に侵略しようと企んでいた魔族のほとんどは、魔王様によって取り締まられたそうです」
クラリスは目に被せられた保温の布を取り、ぽつりとこぼす。
「魔王は、いい君主なのだな」
おまえたちにとって、という副音声は聞こえない振りをして、「はい!」とフィーアが元気に返事をする。
クラリスは一度青い瞳を見開き、そしてまた閉じた。段々と体の力が抜けていくのを感じる。
「ああ! クラリス様! お風呂で寝てはいけません!」
焦りの声は浴室いっぱいに響いた。
湯舟から上がって鏡台前の背もたれのある椅子にクラリスは座り、清潔な布がかけられる。簡易魔法の一つである温風魔法で一気に髪を乾かされ、金の髪から滴っていたお湯はあっという間に空気と化した。フィーアは自身にも軽く魔法をかけて濡れた服を乾かし、クラリスに衣服を着せてくれる。
クラリスが元から来ていた任務着ではなく、足元が開放的な寝巻だ。下着も新しくなり、クラリスは生まれ変わったかのようだった。
「さあ、クラリス様。もう少しだけです。寝台に戻りましょう」
風呂に浸かったことで全身の筋肉が緩み、クラリスの疲労は限界に達していた。椅子に全身を預けながら、呆然と前を見る。
フィーアに手を借りて立ちあがり、のろのろと亀の歩みで広い部屋の寝台に戻った。倒れこみながら寝台に入ると、柔らかく馴染む感触がして布団が形を変える。
「フィーア……」
クラリスの瞼は完全に落ちていた。しかし、告げなくてはならないことがあり、近くにいるであろうフィーアを呼ぶ。
「はい。ここにおりますよ」
フィーアの声は、慈愛あふれるものだった。
「何から何まで、本当にありがとう」
完璧を求められてきた「元勇者」のクラリスは、何もできない「今」の自分を許せない。それを罰することなく、文句を垂れることもなく、世話を焼いてくれるフィーアの存在はとても大きかった。
クラリスは力尽きる感覚を味わいながら、寝具の中に沈んでいった。




