【過去】
◆
「あなたはだあれ?」
森の奥深くに場違いな、したったらずな声。
黒龍は重たそうな瞳を半分だけ開けた。
青い瞳と金の髪を持つ小さな子ども。片手にも届いていない歳の幼女だ。丸い柔らかな体、頬は桃色に紅潮している。
幼女は自分の数十倍も巨大な黒龍に臆することなく、覗きこみながら話しかけた。
「怪我、してるの?」
黒龍は飛ぶのは不可能なほどの怪我を翼に負っていた。閉じるに閉じることができない翼を見て、幼女は悲しくなって言った。
「私、いい薬草知ってるよ!」
言うが早いか、ちょっと待ってて! と幼女は駆けだした。
しばらくして、幼女は小さな体でたたたっと走り寄る。手には数種類の薬草が握られている。顔は泥に汚れ、手足にはところどころ生傷があった。
幼女は小さな手で翼の傷に薬草を塗りつけていく。おどろおどろしい傷跡を見ても、幼女は全く悲鳴をあげず、治療に専念した。
「これでもう大丈夫よ! この薬草は効き目がすごいから一週間もすれば、また飛べるようになるわ!」
満面の笑みを向ける幼女に、黒龍はようやくその口を開いた。
「……なぜ助けた」
地を這う声で問いかけられ、幼女は体を大きく撥ねさせた。
「あなた、話せるの⁉」
話す魔族を知らなかった幼女はひどく驚いた。黒龍はその反応に唖然としつつ、再度「なぜだ」と問う。
「私、「勇者」になりたいの」
ぽつりと幼女は言った。
「「勇者」は困っている者を助けるのが仕事でしょう?」
当然だというように微笑んだ。
黒龍は沈黙するのに耐えられなかったのか、思わず訂正の言葉を投げる。
「我は魔族だ。おまえたち人間が、劣等の魔物と同列に呼ぶモノだ。勇者は魔物を狩る者だろう」
ぽかんと口を半開きにして幼女は固まる。そして、突然大きな声を上げた。
「そっか! じゃあ、私はあなたのことを助けちゃ駄目だったの?」
わたわたと「どうしよう?」と幼女は悩みこむ。それを黒龍は愉快そうにくつくつと笑う。
「悪い魔物だけを狩る。そういう勇者がいても、問題ないのではないか」
その言葉に幼女は目を輝かして、大きな声で宣言した。
「よかった! じゃあ私、悪い魔物だけを狩る勇者になるわ!」
幼女は鼻歌を鳴らしながら、黒龍の顔のそばに座る。太陽の光に反射して輝く黒い鱗を惚けて見つめて、ふと思い続けていた疑問を口にする。
「ねえ、どうしたら勇者になれるかしら?」
勇者は能力的なことに加え、精神力も強くなくてはならない。様々な知識や素質というのも大きな割合を占めている。幼女にはそれらさえもはっきりと理解できていなかった。
両親が必ずなれと望む存在。まだまだよく分からない勇者というものを、この目の前にいる黒龍ならば教えてくれるような気がした。
黒龍はしばらく黙っていた。幼女もまた、気長に答えを待っていた。
黒真珠のような鱗のきらめきをどのくらい見つめていたか。黒龍はその大きな口を開いた。
「口調はもっと男らしく勇敢に。勇者に、優雅さや淑やかさはいらない」
「そうしたら――」
先ほどの元気はどこにいったのか、幼女はぽつりと呟いた。
「そうしたら、お父様とお母様は私を見てくれるかしら?」
それは子どもらしい、小さな望みだった。
目に見えて幼女は落ちこむ。黒龍はすぐに返答することはなかった。
黒龍は「……おい」と幼女に呼びかける。幼女はそのまん丸の瞳でじっと見つめた。
「おいじゃないわ。私の名前はクラリスよ!」
大きな声で自分の名を告げる。黒龍は大きく溜息を吐いた。
「……おい、おまえ」
幼女――クラリスは名前が呼ばれなかったことに大きく口を膨らませた。
「ク、ラ、リ、ス!」
一文字一文字区切って、クラリスは自分の名を呼ぶように強要する。
「……クラリス」
押し負けて黒龍はそう呼んだ。クラリスは勝ち誇った気になってにんまりと笑う。
「なあに?」
嬉しそうに笑いかけると、黒龍の金色の目が揺れる。
翌日も、その翌日もクラリスは森の奥深くに赴いた。動けない黒龍の元に近寄っては、その日のどうでもいい事柄を喋って帰る。その日の訓練のこと、幼馴染のこと、朝に出た食事のこと。森に訪れる時間は、クラリスの貴重な自由時間であることも教えた。
「ねえ、ななしさん」
名乗ってくれない黒龍のことを、クラリスはそう呼んだ。クラリスは黒龍の首元に寄りかかりながら、近くの雑草を引き抜いた。
「私ね、本当は外で剣術するよりも、家の中で人形遊びをしたいの」
両親は必死にクラリスを勇者にしようとしている。そこにクラリスの意思は存在しない。
クラリスの愚痴に、黒龍はほんのときどき頷きを返してくれる。
「そうか」
「魔法の勉強をするよりも、もっと世界のことが知りたいの」
「世界は、おまえが思っているよりも壮大だ」
黒龍は静かな声で教えてくれる。
「ねえ、ななしさん」
その日、クラリスは一つわがままを言った。
「あなたの名前を教えてほしいの」
名乗りがいかに大事なものであるかを、クラリスは初日に黒龍から教わった。だから、クラリスは駄目元で尋ねた。
黒龍は少しだけ間を置いて、熱い吐息を吹いた。生暖かな息に髪を流され、クラリスは思わず目をつぶる。次に目を開いたとき、黒龍の顔はすぐそばにあった。
「我の名は――」
月のように綺麗な瞳と目が合う。黒龍は秘密を告げるように囁いた。クラリスは金の瞳に溺れ、その名を頭に刻みこんだ。




