第58話 王妃殿下は、見抜く方でした
茶会が終わったあと、ほかの客たちは順に東画廊を離れていった。
葡萄色の貴婦人は、最後まで美しい笑顔を崩さなかった。
薄桃色の令嬢は帰り際、ロザリア様へもう一度礼をした。
「先ほどは、本当にありがとうございました」
「顔色が戻って何よりですわ。帰りの馬車でも、香りの強いものは避けて」
「はい。今度こそ忘れません」
令嬢は少し照れたように笑い、女官の案内で去っていった。
アルベルト殿下の姿も、いつの間にか画廊から消えている。
残ったのは、ロザリア様と私。
それから、王妃殿下のそばに控えるマリエルだけだった。
「こちらへ」
マリエルに案内されたのは、東画廊の奥にある小さな居間だった。
茶会室ほど華やかではない。
壁には淡い色の織物が一枚。窓辺に長椅子。低い卓の上には、新しい茶ではなく水差しだけが置かれている。
人を楽しませるための部屋ではない。
話を飾らず聞くための部屋だ。
王妃殿下は長椅子へ腰を下ろし、ロザリア様にも向かいの椅子を勧めた。
「楽にして」
「ありがとうございます」
ロザリア様が座る。
私は扉の近くへ下がった。
お嬢様の後ろではない。
声は聞こえる。
けれど、目を向けなければ合図は届かない距離だ。
王妃殿下が私をこの部屋へ入れたまま、その位置を選ばせた意味は分かる。
今日は、私の翻訳を聞くための時間ではない。
ロザリア様が、自分の言葉で何を答えるかを見る時間だ。
「先ほどは助かりました」
王妃殿下が言った。
「あのまま全員が立っていれば、誰かの裾か、飾り鉢のどちらかは無事では済まなかったでしょう」
「差し出がましいことを申し上げました」
「許可を求めてから意見を述べた者へ、差し出がましいとは言いません」
王妃殿下は、水差しへ一度だけ視線を落とした。
「もっとも、あなたを残したのは、その話を褒めるためだけではありません」
「はい」
ロザリア様の背筋が、わずかに伸びる。
褒め言葉だけでは終わらない。
私の予想どおりだった。
まったく嬉しくない的中である。
「今日のあなたは、ずいぶん慎重に言葉を選んでいましたね」
王妃殿下の視線が、まっすぐロザリア様へ向く。
「けれど、最初から一人でできていたわけではない」
ロザリア様の指先が、膝の上で止まった。
「貴婦人へ答える前、あなたは侍女の手元を見た。茶の取り違えに気づいた時も、一度口を閉じる前に同じ場所を見ていました」
見られていた。
控え紙へ置いた私の指まで。
王妃殿下は、ロザリア様の第一声だけを聞いていたのではない。
言葉が出る直前、どこで止まり、何を受け取り、どう自分の声へ戻したかまで見ていた。
ロザリア様は私を振り返らなかった。
「はい」
言い逃れもしない。
「リネットに合図をもらいました」
「先ほどあなたは、助言は受けていても、どの言葉を口にするかは自分の責任だと答えていましたね」
「はい」
「では、彼女から何を教わったのですか」
柔らかな問いだった。
だが、曖昧な「助言」のままでは終わらせない問いだった。
私が言葉を作っているのか。
お嬢様が考えを並べ直すための手助けだけをしているのか。
王妃殿下は、先ほどの答えを聞き流さず、その中身を確かめようとしている。
ロザリア様は少し考えた。
「教わったのは、順番です」
王妃殿下の眉が、わずかに上がる。
「順番?」
「先に相手の様子を見ること。事実を確かめること。必要な対応をしてから、責任の話をすること」
ロザリア様は、膝の上の手をゆっくり開いた。
「わたくしは以前、その全部を一度に申し上げておりました。自分には見えているのだから、相手にも当然伝わると思っていたのです」
「それで、伝わらなかった」
「はい。多くの場合、最初の言葉で相手を怒らせるか、怯えさせて、そのあとを聞いていただけませんでした」
自虐ではない。
過去を捨てる言葉でもない。
起きていたことを、そのまま認めている。
「では、彼女から教えられる前のあなたには、何があったのかしら」
王妃殿下の問いが、さらに一段深くなる。
「順番以外は、何もなかった?」
ロザリア様の目が、少しだけ鋭くなった。
怒ったのではない。
ここだけは、曖昧にしてはいけないと思った顔だ。
「見過ごせないと思う気持ちは、以前からございました」
声が、はっきり通った。
「誰か一人へ仕事が偏っていることも、失敗した方を助ける前に責めることも、全体が止まると分かっているのに見ているだけの方がいることも。わたくしは、昔から嫌いでした」
「嫌い」
「はい」
王妃殿下の前で、ずいぶん強い言葉を選んだ。
けれど、ロザリア様は言い換えなかった。
「見えていたものも、腹を立てた理由も、わたくしのものです。ただ、それを届ける順番を知りませんでした」
私は扉のそばで、指を握った。
口を挟まないために。
今の言葉を、私の補足で薄めないために。
王妃殿下はしばらく何もおっしゃらなかった。
窓を打つ雨音だけが、部屋へ細く入る。
「もし、彼女がそばにいなければ?」
ロザリア様の肩が、ごくわずかに動いた。
「今日のように、止まれないかもしれません」
正直すぎる。
私は内心で顔を覆いかけた。
王妃殿下は表情を変えない。
「では、一人では立てない?」
「いいえ」
ロザリア様は、すぐに否定した。
「間違えることと、立てないことは別です」
今度は、私の方が息を止めた。
「リネットがいなければ、わたくしは今より多く間違えるでしょう。ですが、口にした責任まで彼女へ預けるつもりはございません。間違えたなら、自分で確かめ、言い直します」
深紅の瞳が、王妃殿下から逸れない。
「リネットは、わたくしの代わりに話すための者ではありません。わたくしが自分の口で話せるよう、順番を示してくれた者です」
胸の奥へ、何かが静かに落ちた。
重いのに、痛くない。
お嬢様は、私を必要だと言わなかった。
不要だとも言わなかった。
私を自分の口にせず、自分の声を取り戻すために隣へ置いた。
それでいい。
その言葉が聞きたかった。
「なるほど」
王妃殿下が、そこで初めて私へ視線を向けた。
問いかけはしない。
私が黙ったまま頭を下げると、すぐロザリア様へ戻す。
「よく分かりました」
ロザリア様の肩から、わずかに力が抜けた。
「ただし」
すぐ戻った。
王妃殿下は、ほんの少し口元を緩めた。
「あなたは、まだ完成してはいませんね」
「……はい」
「先ほども、若い女官へ最初に向けた『あなた』は、ずいぶん鋭かった」
そこまで聞かれていた。
ロザリア様の耳が、ほんの少し赤くなる。
「申し訳ございません」
「責めているのではありません。むしろ、安心しました」
「安心、でございますか」
「誰かが作った完璧な姿を演じているなら、あの一言は出ないでしょう」
王妃殿下の声は穏やかだった。
「あなたはまだ怒る。間違えかける。侍女の合図も必要とする。それでも、合図のあとに自分で考え、順番を変え、必要なことを通した」
水差しの硝子へ、雨の日の光が淡く反射する。
「完成していないからこそ、次にどう変わるかを見ることができます」
甘い評価ではない。
今日一日うまく振る舞ったから、過去を帳消しにするという話でもない。
未完成であることまで記録した上で、それでも続きを見る価値があると判断された。
王妃殿下は、噂だけで不合格印を押す方ではなかった。
同時に、一度の成功だけで合格印をくださる方でもない。
表紙ではなく、中身を読む。
しかも、誤字まできちんと拾う。
たいへん厳しく、たいへん信頼できる読み手だった。
王妃殿下は椅子へ背を預け、ロザリア様を見た。
「今日のあなたは、招かれた客でした」
「はい」
「用意された席で、用意された進行を受ける側だった」
ロザリア様の表情が引き締まる。
「次は、もう少し役目のある場所なら、どう立つのかしら」
問いの形をしている。
けれど、これは予告だ。
王妃殿下の瞳に、茶会の時よりもはっきりした関心が宿る。
「あなたを、もう少し別の場でも見てみたいわ」




